自覚

(アレス、まだ帰ってこないだろうから、水飲んだら、いつも通り、先に寝ちゃおうっと)


 今日は、夜になってもまだまだ暑い。元々、レナータもアレスも暑さには弱く、夏が苦手だとはいえ、それにしても今日は本当に暑いと思う。職場の同僚であり友達でもある女の子たちも、日中、暑い暑いと愚痴を零していたから、やはり今日は誰にとっても暑さに苦しめられた日だったのだろう。


 冷蔵庫からペットボトルに入っているミネラルウォーターを取り出し、グラスにとくとくと注いでいく。レナータがシャワーを浴びたのは 随分前で、その直後にも水分補給をしたのだが、自室で寝る時間まで読書をしているうちに、また喉が渇いてしまったのだ。

 グラスに入れた水をぐいっと呷れば、水分を欲していた喉が、乾いた大地に恵みの雨が降り注いでいくかのごとく、たちまち潤っていく。

 一気に水を飲み、グラスを洗って片付けようとした矢先、不意に玄関の鍵が開く音が聞こえてきた。


(あれ? アレス、もう帰ってきたのかな?)


 アレスはいつも帰宅する前に、今から帰る旨を携帯端末のメッセージを通して事前に知らせてくれる。それなのに、今日は連絡を入れずに帰ってくるなんて、珍しい。


(もしかして、今日は結構、お酒飲んだのかなあ)


 レナータは、今は未成年だから知りようがないし、人工知能だった頃に試しに飲酒したことがあったが、人間ではなかったからか、飲む前も後も特に変わらなかった。だから、酪酊状態というものがどういうものなのか、よく分からない。


 だが、アルコールが入った人間を観察してきた結果、どんなに酒に強くても、素面の時に比べると、注意力が散漫になりやすいことくらいは、レナータも知っている。だから、珍しいとは思うものの、アレスがそういう状態に陥っていたとしても、不思議ではない。


 ならば、酔い冷ましに水を飲ませようと、グラスの縁だけをさっと洗い、再度ミネラルウォーターを注ぐ。飲酒すると、喉が渇きやすくなるとも聞くし、何より今夜は暑い。だからきっと、アレスも水分を欲しているに違いない。


 そうしている間にも、玄関の扉がゆっくりと開かれていく音が、耳に飛び込んでくる。ミネラルウォーターが入っているペットボトルを冷蔵庫に戻しがてら、玄関へと向かえば、ちょうどアレスが家の中に入ってくるところだった。


「アレス、おかえりなさい!」

「ああ、ただいま」


 挨拶の言葉をかけつつ、帰宅してきたアレスに抱きついた刹那、アルコールの匂いと共にいくつかの香水の匂いが鼻孔を掠めていった。アルコールと香水が混ざり合った匂いを嗅ぐと、自然と苦笑いが浮かんだ。


(アレス、また女の人に絡まれたんだなあ……)


 アレスは成人してから、時々仕事仲間と一緒に飲みに行くようになった。そして、毎回ではないものの、女性とも同席しているらしく、こうして香水の匂いを連れて帰ってくることがあるのだ。


(アレス、格好いいから、モテるんだろうなあ)


 当たり前といえば当たり前かもしれないが、レナータと一緒にいる時に、アレスが女性から声をかけられているところを見たことはない。しかし、アレスは幼い頃から女の子の扱いが上手だったし、周囲の女性からどういう目を向けられているのかくらいは、知っている。


 アレスは生まれつき目つきが悪く、怖いという印象を相手に与えがちだが、整った顔立ちをしているのだ。それに、年齢を重ねるごとに、 色気が出てきた気がする。背だって、どちらかといえば高い方だと思う。

 そして何より、アレスはとても優しい。口の悪さは否めないが、相手を思いやる心を持っていることは、少し話せば、誰だって分かるはずだ。


 だから、そんなアレスと親しくなりたいと思う女の人がいることは、ごく自然なことだろう。むしろ、アレスが女性に相手にされないという方が、レナータにとっては信じ難い。

 でも同時に、アレスが女性にしつこくされることを嫌っていることも知っているため、今日もさぞかし不機嫌だったに違いないと、容易に想像がつく。レナータが抱きついてから、アレスにしきりに頭を撫でられていることから、余程癒しを求めているのだろうとも、察しがつく。


「アレス、喉、渇いたでしょ? 水の――」


 ――水、飲む?


 苦い笑みを零したまま顔を上げた直後、続けようとした言葉が口から出てこなかった。

 レナータの視線の先には、当然のごとく、アレスの顔がある。アレスの表情は、先刻よりもずっと柔らかくなっているように見える。


 だが、問題はそこではない。アレスの薄く形のよい唇に、うっすらとではあるものの、淡いピンク色が乗っている。それは、どこからどう見ても、料理の油やソースの類ではない。

 アレスの唇に何が付着しているのか、薄々察しがついた途端、自然と息を呑んでいた。自分の意思とは関係なく、大きく目が見開かれていくのが、鏡を見なくても分かった。


 そんなレナータを怪訝そうに見下ろすアレスに向かって、気づけば手を伸ばしていた。どうしてか指先が震えていることを、まるで他人事みたいに認識する。

 アレスの下唇に指先が到着するなり、さっと横に滑らせる。それから、即座に手を引っ込め、アレスの唇に触れたばかりの指先に視線を落とせば、予想通り、そこには淡いピンク色が移っていた。アレスの唇に乗っていたものの正体は、口紅で間違いないと、確信する。


 つまり、アレスは唇に口紅を塗った女性と、キスを交わしたに違いない。口紅が付着したグラスに、うっかり口をつけてしまったという可能性もあるが、直接的にせよ間接的にせよ、レナータではない女性の唇に触れたことには変わらない。

 そこまで思考が至った瞬間、今まで体感したことのない感情が、腹の底からざわりと身体の内側を侵食していった。


 何故だろう。今、ものすごくアレスのことを罵倒したくてたまらない。激情に駆られるがまま、喚き散らしたい。全身の血が沸騰したかのごとく、熱くて仕方がないというのに、頭の中だけは妙に冷めていく。

 自分でも理解できない感情を持て余したまま、口紅が付着した指先から視線を引き剥がし、ゆっくりともう一度顔を上げる。


 すると、アレスはどうしてか驚愕に目を見張り、微かに息も呑んだ。まるで、先程のレナータの反応を、そのまま真似たかのようだ。今の自分は、アレスを驚かせるほどの顔をしているのだろうか。

 しかし、やはり何故かは分からないものの、アレスの顔を視界に入れた刹那、余計に苛立ちが募っていった。このままでは、感情のままに何の脈絡もなく、アレスを傷つける言葉を口にしてしまいそうな気がしたから、咄嗟に離れた。そして、すぐにアレスに背を向け、自室へと走っていく。アレスに名を呼ばれた気がしたが、今のレナータには振り返ることなんてできない。


 レナータの私室に駆け込み、勢いよく扉を閉めた直後、扉に背を預けたまま、ずるずると身体が床の上に崩れ落ちていった。大した距離を走ったわけでもないのに、息が上がってひどく苦しい。相変わらず、理解不能な激情が身体の内側で暴れ回っているせいで、胸も苦しい。


「……アレス、どうして――」


 考えるよりも先に、唇から零れ落ちた言葉に驚くと同時に、自然と自嘲の笑みが浮かんだ。


 何が――「どうして」なのか。

 先刻、アレスが異性からどういう目で見られているのか分かっていると、考えていたばかりではないか。それに、アレスだって、二十歳の成人男性だ。恋人の一人や二人、欲しい年頃だろう。かえって、これまで女性の影を匂わせていなかったことの方が、不自然ではないのか。

 それなのに、どうして自分はこんなにも動揺しているのだろう。どこか裏切られたような気さえしているのか。恋人を作ろうが作るまいがアレスの自由ではないか。


 今まで一生懸命レナータを養ってくれていたアレスが、人並みでありふれたものかもしれないが、幸せを手に入れたのならば、むしろ喜ぶべき場面ではないのか。これまで、どれだけアレスのお金と時間を奪ってきたと思っているのだろう。それなのに、不平不満を一度も漏らさず、レナータを大事にしてくれたアレスに、こんな風に怒りを覚えるなんて、どうかしている。


 そう頭では分かっているのに、全身を支配する激情が去る気配は一向にない。それどころか、目頭までじわりと熱くなり、少しでも気を抜けば、涙が込み上げてきそうだ。

 何故、大切な家族の幸せを素直に祝福できないのかと、自分自身に信じられない思いを抱き、自問自答を繰り返していたら、ふと一つの答えが脳裏を過っていった。


(ああ、そっか――)


 レナータは、ずっと前からアレスのことが好きだ。人工知能だった頃は、自分の子供か弟みたいに可愛がっていた。人間に生まれ変わってからは、兄のように慕っていた。この想いは、親愛の情や家族愛だと、信じて疑わなかった。

 でも、実際には違ったのだろう。少なくとも、今のレナータがアレスに向ける想いは、そんな穏やかで優しいものではない。


(――私、アレスに恋をしているんだ)


 一体、いつからアレスに恋をしていたのかは、レナータ自身も知らない。だが、自分でも気づかないうちに、もう引き返せないところまで来ていたことは、理解した。

 そう自覚した途端、不思議と今の今まで胸中で暴れ狂っていた激情が、ぴたりと動きを止めた。その代わり、胸の奥底からぬくもりと共にほろ苦いものが込み上げてきて、切なさに息が詰まりそうになる。


(どうして……このタイミングで、気づいちゃったのかなあ……)


 レナータがこれまで知らなかっただけで、もしかしたらアレスには恋人がいたのかもしれないと気づかされた、このタイミングで自身の恋心を自覚してしまうなんて、最悪だ。いっそ、自分の感情にもっと鈍感だったらよかったのにと、恨みがましい気持ちすら湧き上がってくる。


 ゆっくりと視線を上げ、ぼんやりと天井を仰ぎ見る。明かりを点けっぱなしにしていたから、薄汚れた天井がくっきりと視界に映る。


 レナータはアレスとは違い、明日も仕事なのだから、早く寝なければならないのに、まだ眠る気にはなれず、食い入るように天井を見つめ続けた。ろくに瞬きもせずに凝視していたからか、徐々に視界が滲んでいく。もしかすると、電気の光が眩しくて、目に沁みたのかもしれない。

 だから、緩慢とした動作で瞬きをすると、目尻から生温い液体が溢れ出してきた。頬を濡らすその感触がひどく不快で、まるで機嫌が悪い時のアレスみたいに、きつく眉根を寄せてしまった。

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