女の顔

(起きたくねえ……)


 起き抜け早々、アレスは心の底からそう思った。

 枕元に置いておいた携帯端末を手繰り寄せれば、起床時間よりも幾分か早い時刻が、ディスプレイに表示されていた。

 しかし、まだ寝ていても許される時間だと分かっても、こういう時に限って睡魔はどこかに消えてしまった。目も意識も冴え渡り、二度寝などできそうにもない。


 気怠い溜息を吐きながら、むくりとベッドから起き上がれば、昨夜目の当たりにしたレナータの顔が、瞼の裏に鮮明に蘇ってきた。

 昨晩、アレスが帰宅すると、レナータは抱きついてくるという、熱烈な歓迎をしてくれた。レナータが起きている時間帯に帰ってきた際は、必ずこうして出迎えてくれるのだ。

 そんなレナータの天真爛漫な姿を眺めていたら、痴女二人から受けた精神的な苦痛も劇的に和らいでいった。レナータにもっと癒されたくて、ついつい艶やかなダークブロンドに覆われた小さな頭を撫で回してしまったほどだ。


 でも、心癒される時間は、そう長くは続かなかった。

 レナータが顔を上げた瞬間、少しふっくらとした柔らかい唇に浮かんでいた苦笑いは、あっという間に消え失せ、翡翠の両の瞳は愕然と見開かれていった。

 何をそんなに驚いているのかと、疑問に思っているアレスには構わず、レナータは唐突に手を伸ばし、唇に触れてきたのだ。完全に虚を突かれたアレスに、レナータはやはり全くといっていいほど頓着せず、手を引っ込めるや否や、自身の指先を凝視していた。急に黙り込んでしまったレナータの視線の先を辿っていった直後、アレスは己の迂闊さを呪わずにはいられなかった。


 アレスは、化粧品を使った経験なんてない。レナータは、まだ化粧をするような年頃ではないから、やはりアレスが化粧品に関する知識を入手する機会が巡ってくることなんて、あるわけがなかった。

 だから、手で擦った程度では口紅は落ちないことなど、アレスが知るわけがなかったのだ。ラメだか何だか知らないが、きらきらと光るものはレナータの指先に乗っていなかったから、そちらは完全にアレスの唇から取り除けていたに違いない。だが、色そのものが落ちていなかったら、意味がない。そのせいで、結局レナータに気づかれてしまった。


 しかし、問題はそこではない。

 問題は――再び顔を上げたレナータが、怒りと悲しみが混ざり合った、複雑な表情を浮かべていたことだ。

 アレスを暗に咎めるように睨み据えてきた、うっすらと涙の膜が張った翡翠の瞳からも。いつもよりも赤みを増していた、薔薇色の頬からも。何か物言いたげに、微かに震えていた、少しふっくらとした柔らかい唇からも――ぞっと背筋が震えそうになるほど、女の匂いを漂わせていた。


 レナータは十三歳で、世間から見れば、まだまだ子供だ。アレスにとっても、庇護するべき妹分に過ぎなかった。

 そのはずだったのに、あの時のレナータは、確かに一人の女として、声なき声でアレスを責めていた。そして、耐えられないとばかりに、アレスから逃げるようにして離れていった。

 そんなレナータの姿を見ておきながら、何も分からないほど、アレスは鈍くはない。でも、だからこそ、これからレナータとどう接していけばいいのかと、戸惑いを禁じ得ない。


(レナータは勘が鋭いから、自分の気持ちがどういうものかも、気づいただろうな……)


 レナータ自身が自覚していないのならば、アレスも見て見ぬふりをするべきなのだろう。今まで通り、兄貴分と妹分として関わっていけばいい。

 だが、レナータの性格を考えると、その可能性は限りなく低い。十中八九、アレスに恋をしているのだと、レナータは自覚したに違いない。


(昔の俺だったら、余計なことをごちゃごちゃ考えずに、手放しに喜んだところなんだろうが……)


 悲しきかな、レナータを恋愛対象として見ていた時期よりも、家族として一緒に過ごした時間の方がずっと長いからか、アレス自身の気持ちは、完全に迷子になってしまった。元々、レナータに家族愛を向けていた時から、自分でも理解できない曖昧な部分があったというのに、さらなる深みに入り込んでしまった心地だ。


(自分だけ、ちゃっちゃと答えを出しているんじゃねえよ)


 理不尽だと承知の上で、心の中だけでレナータを責め上げる。

 再度、深々と溜息を零したところで、ぱたぱたと動き回る軽快な物音が、壁越しに聞こえてきた。間違いなく、レナータが朝食の支度をしているのだろう。レナータは今日も仕事があるから、アレスの意識が覚醒する前から聞こえてきたはずなのに、ずっと物思いに耽っていたからか、全然気づかなかった。


 アレスが出勤する日は、レナータが起床を促しにくるが、今日は休日だ。だから、アレスが部屋から出てこなければ、おそらく放っておかれるに違いない。そうすれば、レナータと顔を合わせずに済み、気まずい思いをする危険性を回避できる。

 しかし、それではまるでレナータから逃げているみたいで癇に障り、手早く身支度を整えるなり、自室を後にした。


「――おはよう、アレス! 今日は早いね」


 自室から出た直後、キッチンから透明感のある柔らかい声が聞こえてきた。

 そちらへと目を向ければ、白地にオレンジのストライプ柄のエプロンを身に着け、目玉焼きを焼いていたレナータが、ふわりと微笑んでいた。まるで、昨夜のことなど、何一つ覚えていないと言わんばかりだ。


「……おはよ」

「もう少ししたら、朝ごはんの用意できるから、アレスは顔洗っておいで。あと、今日は結構寝癖がひどいから、ちゃんと直してきてね」


 アレスの頭部を指差し、悪戯っぽく微笑んだレナータはすぐにこちらから目を逸らし、用意しておいた皿の上に半熟に焼けた目玉焼きを乗せていく。それとほぼ同時に、オーブントースターからトーストが焼き上がったと告げる音が、軽やかに鳴った。

 せっせと朝食の支度を進めていくレナータの姿を横目に、洗面所へと向かう。アレスがそうしている間も、レナータの様子はいつもと何一つ変わらなかった。


 レナータに言われた通り、顔を洗ってから、鏡で確認しつつ寝癖を直していく。鏡面に映る、見慣れた仏頂面を眺めていると、もしかして自意識過剰だったのではないかという考えが、脳裏を掠めていく。


 レナータは現在、思春期真っ只中だ。昨晩のレナータのあの反応は、難しい年頃の少女特有の潔癖さが表面化したものだと考えれば、辻褄が合う気がする。

 でも、仮にそうだとしたら、レナータが垣間見せた女としての顔は、一体何だったというのか。ただの目の錯覚だったとでもいうのか。


「……わっかんねえ……」


 寝癖を直し終えるや否や、洗面台の縁に両手をつき、深々と息を吐き出す。


(よし、これ以上は考えても無駄だ)


 しばし項垂れ、ぼんやりと排水溝を眺めていたアレスは、そう結論付けた。

 元々、アレスはあれこれと頭を悩ませるくらいならば、気分を入れ替えて行動を起こすタイプだ。こんな風に思い悩むのは、性に合わない。レナータが昨夜の件に触れないのならば、アレスも水に流せばいい話だ。


 そう結論を出し、ダイニングに戻ってくると、卓上にはトーストや目玉焼き、プチトマトが添えられている、アレスが作り置きしておいたポテトサラダが並んでいた。テーブルの上からキッチンへと視線を移せば、牛乳を注いだ二つのグラスを両手に持った、レナータと目が合った。

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