揺らぎ

「あ、アレス。グッドタイミング。ちょうど用意終わったから、食べちゃお」

「ああ。いつも、ありがとうな」

「急に、どうしたの? こんなの、いつものことじゃない」


 グラスを手渡され、受け取ったついでに礼を告げると、レナータは不思議そうに小首を傾げた。


 確かに、レナータが朝食の準備をするのは、とっくの昔にルーティンワークに組み込まれている。だから、何を今さらという思いが拭えないのだろう。あまりにも自然にぽろりと零れてきた言葉だったから、アレス自身も少々驚いたくらいだ。

 だが、レナータがこうしてアレスの傍にいることは、当たり前のことではないのだと、何となく思ったのだ。そうしたら、気づけば、感謝の言葉を口にしていたのだ。


「でも、お礼を言われると、やっぱり嬉しいね。どういたしまして」


 しかし、レナータがきょとんと目を瞬かせていたのは、ほんの一瞬で、すぐににっこりと笑った。そして着席すると、「いただきます」と、行儀よく手を合わせ、さっそくサラダに手を伸ばした。レナータに倣い、アレスもトーストを一枚手に取る。


 仕事がある日の朝は、レナータは食事中に話したりしない。いつも、黙々と食事を進めていく。今日も普段通り、一言も発さずに朝食を胃に収めている。

 でも、レナータと一緒ならば、いつもは沈黙さえ心地よいものになるのに、今日に限ってはやけに気まずく感じられた。単にアレスの受け止め方次第なのだと、頭では分かっているものの、居心地の悪さはどうしても払拭できない。


「ごちそうさまでした」

「ごちそうさん。後片付けは俺がやっておくから、レナータは仕事に行く支度をしていいぞ」

「本当? それじゃあ、お言葉に甘えちゃうね。ありがとう、アレス」


 席を立ったレナータはアレスに笑顔を向けると、エプロンを外しながら、すぐさま自室へと向かっていった。そして、アレスがちょうど朝食の後片付けを済ませたところで、出かける支度を整えたレナータが部屋から出てきて、そのまま足早に玄関へと歩いていく。

 そんなレナータの姿を横目に捉えるなり、アレスも玄関に足を運ぶと、翡翠の眼差しがこちらへと向けられた。アレスへと振り向いたレナータは、忙しなく瞬きを繰り返している。


「アレス?」

「どうした」

「それは、こっちの台詞だよ。アレス、今日はお仕事お休みなのに、どうしたの? 出かけるにしても、少し時間が早いんじゃない?」

「どうしたって、お前を仕事場まで送っていくに決まっているだろ。いつものことだ」


 アレスの仕事が休みの日で、レナータが仕事に出かける日は、いつも職場まで送り迎えしているというのに、急にどうしたというのか。もしかして、まだ寝ぼけているのだろうか。


(レナータは俺と違って、朝に強いんだがな)


 そう疑問に思いつつも、たまにはそんな日もあるかと納得していたアレスの目の前で、不意にレナータが微かに目元を歪めた。レナータにしては珍しく、負の感情を前面に出した表情の変化に、思わず瞠目する。

 そこで、レナータは寝ぼけていたわけでも何でもなかったのだと、痛感させられた。


 レナータは、ただ――これ以上、アレスと一緒にいることを、やんわりと拒絶していただけだ。

 だから、レナータはわざととぼけてみせたに違いない。きっと、アレスもこれ以上自分と一緒にいることに苦痛を感じていると踏み、遠回 しにもう傍にいなくても大丈夫だと伝えようとしたのだろう。

 確かに、先程まではレナータと顔を合わせていると、気まずくて仕方がなかった。だが、いざレナータから拒まれたら、自分でもよく分からない苛立ちを覚えた。


 虚を突かれたのも束の間、眉間に皺を寄せたアレスをまっすぐに見据えたまま、レナータは笑顔に戻った。しかし、その笑顔はいつもとは違い、どことなくぎこちない。


「……無理、しなくていいんだよ? せっかくの休みなんだから、私のことは気にしないで、ゆっくりしていていいんだよ?」


 レナータの声も言葉も表情も、どこまでも優しい。それこそ、かつてアレスに別れを告げてきた時を彷彿とさせるほど、その翡翠の眼差しは穏やかで、澄み渡っている。でも、だからこそ余計にアレスの苛立ちを煽っていく。


(なにが、無理しなくていい、だ。お前が、俺と一緒にいたくないんだろうが)


 内心毒づいた刹那、これまでレナータに拒絶されたことなどなかったと、ふと気づかされた。

 幼い頃から、レナータは慈愛に満ちた笑顔で、いつだってアレスを受け入れてくれた。人間に生まれ変わってからは、まるで親鳥を慕う雛 鳥みたいにアレスの後をついて回り、無邪気に懐いていた。

 だから、レナータがアレスと一緒にいることを拒む日が来るなんて、ただの一度も想像したことがなかったのだ。


 スラム街に流れ着いたばかりの頃、アレスはいつも、自分でも気づかないうちに、レナータの物分かりのよさに甘えていたのだと自覚したはずなのに、それでも今日に至るまで甘え続けていたに違いない。

 先刻、レナータがアレスの傍にいることは、決して当然のことではないのだと思ったばかりだというのに、何をそんなに驚いているのだろう。一体いつまで、レナータに甘えていれば気が済むのか。


 だが、そんな内心はおくびにも出さず、ぼそりと言葉を零す。


「別に、無理なんかしてねえよ。どうせ、この後買い出しに行かなきゃならねえんだから、そのついでだ。お前が気にすることじゃない」


 そう、これもいつも通りのことだ。

 出勤の際には、まだ開いている店が少ないし、退勤の際には、閉まっている店が多い。スラム街は治安があまりよくないからか、飲食店以外は閉店時間が早いのだ。そのため、買い物はなるべく休日に済ませるようにしている。

 その上、レナータを職場まで送り、少し気の赴くままに散歩をしていると、ちょうど大体の店の開店時間とぶつかるのだ。だから、レナータと一緒に出かけた方が、アレスにとって好都合なのだ。


 それに、理由はそれだけではない。

 レナータは可愛らしい容姿をしているから、何かと人身売買の売人に目をつけられやすいのだ。言葉巧みに、レナータを娼婦の道に引きずり込もうとする輩が現れたことも、アレスが傍にいない時に、人通りの少ない裏道に連れ込まれそうになったことも、一度や二度の話ではない。それどころか、いくら払えば譲ってくれるのかと、アレスに正面切って訊ねてきた馬鹿もいた。


 だから、本当はレナータを働きに出したくなかったのだが、そうも言っていられないのが、現実だ。アレスだけが働くよりも、レナータも働いてくれた方が、いくらか生活に余裕が出てくる。それに、レナータの性格上、労働可能な年齢になれば、いつまでもアレスの世話になるわけにはいかないと言い出すのは、目に見えていた。


 だから、いくつか条件付きでレナータの就職を許可したのだ。

 一つ目は、勤め先はアレスと一緒に決めること。二つ目は、アレスが休みの日は一緒に通勤すること。そして最後は、報告・連絡・相談を怠らないことだ。

 その条件を呑むと、レナータが約束したからこそ、今があるというのに、忘れたとは言わせない。


(まさか、俺が護身術を教えたからって、慢心しているんじゃねえだろうな)


 このスラム街で暮らすようになってから、レナータにも対応可能な護身術を叩き込んできたとはいえ、それも万全ではない。そんなことはレナータも百も承知だろうに、どうしてアレスを突き放そうとしてくるのか。昨夜のことで思うところがあったとしても、ここは割り切るところではないのか。理性的な判断を下せないなど、レナータらしくもない。


 つい溜息を吐くと、レナータはアレスから目を逸らしたものの、やがて小さく頷いた。


「……それも、そうだね。それじゃあ、アレス。今日も、よろしくね」


 レナータはそれだけ告げると、アレスと目を合わせないまま、玄関の扉を開け放った。

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