子供と大人

 今朝も、大通りは賑やかだ。開店の準備に勤しむ人間や、レナータと同じように職場へと向かう人間で、通りはひどく混み合っている。

 そのため、ただでさえ暑苦しいというのに、今日も晴天が広がり、凶悪なまでの陽光が燦々と降り注いでいるせいで、さらに体感温度が上がっている気がする。


 アレスからはぐれないよう、ぴったりと隣を歩いているレナータを、そっと横目で窺う。

 クリーム色の半袖のパーカーを身に纏っているレナータは、フードを目深に被り、やや俯きがちに歩いている。

 しかし、これはいつものことだ。

 レナータは常に、外ではできるだけ目立たないように気をつけている。


 だから、服装も人目を惹かない、シンプル且つオーソドックスなものばかり着ている傾向がある。そして、必ずフード付きの服を着るか、キャスケットを被り、可能な限り顔を晒さないようにしているのだ。また、肌をなるべく露出させないようにも気を遣っており、どんなに暑い日でも、外ではノースリーブのトップスも、ミニスカートも、ショートパンツも着用しない。

 今日の、丈の長いパーカーに黒いレギンス、白地にオレンジのラインが入っているスニーカーという格好も、あまりにもありふれたものであり、顔を隠せるものでもあり、極力露出を避けたものだ。


 それにも関わらず、今日は何故か、フードの隙間からさらさらと零れ落ち、陽の光を吸い込んで輝いているように見える、艶やかなダークブロンドや、短い袖から覗いている、抜けるように白くて華奢な腕に、やたらと目が惹かれる。


 ふと、アレスの視線に気づいたのか、レナータが緩慢とした動作で顔を上げ、こちらへと振り向いた。


「……アレス?」


 翡翠の大きな瞳に捉えられ、透明感のある柔らかい声に名を呼ばれた途端、時間が止まったような気がした。

 間近でアレスを見上げるレナータは、不思議そうに小首を傾げ、ゆっくりと瞬きをする。ほんの一瞬とはいえ、目を閉じると、レナータの豊かで長い睫毛が際立ち、透き通りそうなほど白い肌に微かな陰影を落とす。


 その顔は――かつてのレナータを思い出させるには充分過ぎるくらいであり、目に焼きついて離れそうになかった。


 昔のレナータに比べると、確かに今、目の前にいるレナータは、まだ幼い。でも、あと五年もすれば、髪の色や長さ、瞳の色こそ異なるものの、あのレナータが完全に復元されるに決まっていると、確信を抱かせるだけのポテンシャルを感じさせた。


 アレスがレナータから目を逸らせずにいたら、少しふっくらとした柔らかい唇が、うっすらと開いた。


「どうかした? もしかして、服のどこかに汚れでもついていた?」


 先にレナータがアレスから顔を背けたかと思えば、パーカーのあちこちに視線を走らせた。どうやら、アレスがあまりにも凝視してくるものだから、衣服に汚れが付着しているのではないかと思ったらしい。

 自分の目で見て確認しようとしているレナータの姿を眺めているうちに、ようやく我に返った。いつの間にか詰めていた息を深く吐き出し、平静を装って口を開く。


「……悪い、ちょっと考え事をしていた。服に汚れなんかついてねえから、安心しろ」


 アレスがそう告げると、パーカーから視線を引き剥がし、もう一度顔を上げたレナータは、ほっと安堵に表情を緩めた。


「よかった。目玉焼きの黄身とかがついていたら、どうしようかと思っちゃったよ」

「向こうに着いたら、どうせ着替えるんだから、そんなに気にすることねえだろ」

「えー、気になるよ。黄色って、結構目立つもの」


 アレスの返答に、レナータは軽やかに声を立てて笑う。その姿は、やはりかつてのレナータを連想させる。


(それに、いつの間にか、喋り方もすっかりあの頃に戻っているな……)


 今までのレナータは、もう少し幼いというか、年相応の喋り方をしていた。だが、働き出してから、何か心境の変化でもあったのか、レナータの話し方は人工知能だった頃のものに戻ったのだ。

 昨日までは、そのことに対して特に何も思わなかったというのに、今日はどうしてかレナータをまた一段と大人に近づかせているように感じられた。


 そうこうしているうちに、レナータの職場であるカフェが見えてきた。

 スラム街といえども、意外と飲食店は充実している。その代わり、中には法外な値段設定をしている店もあるが、レナータが勤めているこのカフェは、比較的良心的な値段設定で商品を提供している。


 従業員専用の裏口に辿り着くと、そのまま中に入ろうとしたレナータの華奢な肩を軽く叩く。


「帰りも迎えにくるから、俺からの連絡が入るまでは、ここで待っている。勝手に一人で帰るんじゃねえぞ」


 念のため、そう言い聞かせれば、レナータは苦笑いを浮かべた。


「……もう、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。了解。アレスこそ、連絡入れるの、忘れないでよ?」

「忘れねえよ、馬鹿」

「もう、馬鹿はひどいよ。――それじゃあ、いってきます」

「ああ、気をつけてな」

「もう! 何に気をつけるっていうの」


 微笑みの中から苦みを消したレナータは、アレスに向かってひらひらと手を振りながら、カフェの中へと入っていった。レナータの姿が見えなくなると、自然と深い溜息を零していた。


(レナータだけじゃなくて、俺も本調子じゃねえな……)


 昨夜から、レナータに調子を狂わされっぱなしだ。しかし、その原因が今一つ分からない。あるいは、知らず知らずのうちに、脳が理解することを拒絶しているのか。

 でも、やはりどれだけ思考を巡らせたところで、今のアレスには答えを出せそうにはない。


 だから、このままその辺をぶらぶらと歩いたら、日用品でも買いにいくかと、踵を返してその場を立ち去った。



 ***



(まさか、今日まで送り迎えしようとするなんて、思わなかったなあ……)


 出かける間際のやり取りを思い返したら、自然と溜息が出てしまった。


 今朝、レナータはいつも通り、アレスと接した。ぎこちない雰囲気になるのが嫌だったから、昨晩の出来事には一切触れず、手早く朝食を済ませ、さっさと出勤してしまおうという腹積もりだったのだ。アレスも、口にこそ出さなかったものの、さぞかし気まずかっただろうと、信じて疑わなかった。

 だから、昨日の今日で、まさか仕事先まで送っていくと言い出すとは、夢にも思わなかった。思わず、隠しておきたかった感情を表に出してしまった程度には、動揺した。あんな醜い感情を曝け出してしまい、自己嫌悪に陥ったし、アレスにも申し訳ないことをしたと思う。

 だが、だからといって、レナータが拒絶の意思を示した瞬間、不機嫌そうに眉間に皺を刻んだアレスも、どうかと思う。


 昨夜、あんなことがあったのだ。アレスにとっては大したことではなかったのかもしれないが、それにしても今日くらいは、そっとしておいてくれてもいいのではないか。何事もなかったかのように振る舞ってくれるのはありがたいが、何もかもこれまでと変わらないとは、思わないで欲しい。


(何も言わなかったくせに、そういうのを求めるなんて、虫の良い話なのかもしれないけど……)


 ――それとも、レナータは子供だから、そういう配慮は必要がないと思われてしまったのだろうか。


 そんな考えが脳裏を過った刹那、すっと頭の中が冷えていった。女子更衣室へと向かうために動かしていた足が、ぴたりと止まってしまった。

 すると、レナータしかいない従業員用の通路に、耳に痛いほどの静寂が訪れた。本当に、そのうち耳鳴りがするのではないかと疑ってしまうくらい、しんと静まり返っている。


(もしかして私、ちょっと来るのが遅くなっちゃったのかな……)


 ならば、こんなところでのんきに立ち止まっている場合ではない。急いで更衣室に行き、私服から作業着に着替えなければならない。

 そう自分に言い聞かせ、再び足を動かす。


(……もしかしたら私たち、ちょっと距離を置いてみた方がいいのかもしれないな)


 レナータは、アレスが好きだ。この想いは、親愛の情や家族愛ではなく、恋愛感情だったのだと、昨晩思い知らされたばかりだ。

 しかし、だからといって、アレスの意思を蔑ろにし、何が何でも束縛したいわけではない。必要ならば、精神的にも物理的にも距離を置くことになったとしても、構わない。発展的解消という言葉だって、あるではないか。


(……うん、そうだ。私、自分の幸せとアレスの幸せだったら、迷わずアレスの幸せを選ぶ)


 もし、本当にアレスがレナータに隠れて恋人を作っていたとしたら、内心かなり複雑だ。きっと、アレスの前では物分かりのいい妹分として、無邪気に祝福しようとするに違いないが、絶対に一人になったら、悔しさに涙を流すに決まっている。恨み言だって、吐くかもしれない。

 でも、それでもやはり最後には、アレスの幸せを心の底から願うのだろう。たとえ、アレスの傍にいられなくなったとしても、かつて別れの言葉を告げた時同様、精一杯の笑顔を捧げるに違いない。アレスに向ける感情の種類が変わろうとも、それだけは変わらない。


 自分の中で結論が出た途端、昨晩から霧が立ち込めていた心が、すっと晴れていった気がした。そうしたら、自然と唇に微笑みが浮かんだ。


(……よし! 今日も仕事、頑張るぞ!)


 今日一日働けば、明日は休みだ。アレスも休みだから、ほぼ間違いなく買い出しの日になるだろうし、片付けなければならない家事もあるが、出勤日よりは遥かにゆっくりと過ごせる。


 いつの間にか足取りは軽く弾み、あと少しで女子更衣室に辿り着くというところで、一つ手前の扉の向こう側から、華やいだ話し声が聞こえてきた。

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