嫉妬と憎悪
「あーあ……さすがのロザリーなら、落ちると思ったんだけどなあ」
「ごめんなさいね、ご期待に沿えなくて」
「本当だよお。おかげで、賭けに負けて、お金払わなきゃいけなくなっちゃったじゃない」
「どうせ、大した額は賭けていなかったのでしょう?」
「それが、結構賭けていたの! 賭けに勝ったお金で、新しいバッグ買おうと思っていたのに……あれは、諦めるしかないかなあ。買える頃には、もう売り切れていそう」
「あら、それはご愁傷様」
「もう、他人事だと思って!」
「だって、他人事だもの」
ぽんぽんと小気味よく交わされる会話は、カフェのフロア担当の女性たちが使っている更衣室から聞こえてきていた。
ここのカフェでは、自家栽培した農作物を使った料理が売りであり、レナータは農作業を担当しているスタッフだから、ウェイトレスやウェイターを務めているスタッフとは、あまり関わりがない。それでも、同じ店で働く人間として、一応スタッフの顔と名前は一通り覚えている。
(ロザリーさん……あの美人さんかあ)
確か、レナータより一回り近く年上の美女だ。非常に華と色気がある女性で、異性からそれはもう人気が高い。ロザリー目当ての男性の常連客も多いのだと、同僚であり友達でもある女の子たちから聞いたことがある。
だが、聞こえてきた話から察するに、どうやらロザリーがある男性を落とせるかどうか賭けをしていたものの、残念な結果になってしまったみたいだ。
(ロザリーさんは、綺麗系の美人さんだからなあ。可愛い系が好きな人には、受けないのかも)
好みは、実に人それぞれだ。多くの人からちやほやと持て囃されていたとしても、誰からも好かれるなんてことは、ありえない。
それに、話を聞いた限りでは、ロザリーは本気ではなく、遊び半分だったみたいだから、そこまで同情する必要もない気がする。実際、友人と思しき女性に、ロザリーを慰める気配はない。
ロザリーたちの話し声が聞こえてくる更衣室の隣の扉を開けようとした寸前、再度女性特有の高い声が耳朶を打った。
「――ロザリーほどの美人でも落ちないってことは、アレスって、やっぱりロリコンなのかな?」
ロザリーのものでも、賭けに負けたと嘆いていた女性のものでもない、第三者の声が加わった瞬間、扉の取っ手を掴んだ手が、ぴくりと揺れた。それから、ゆっくりと取っ手から手を放し、フロア担当の女性スタッフの更衣室へと視線を投げた。
「私が振られちゃったのは、まだ分かるけどさあ……ロザリーレベルの美人振るとか、普通ならありえなくない?」
「年上は好みじゃなかったとか?」
「じゃあ、やっぱりロリコンってことにならない?」
「その辺、ロザリーはどう思った?」
「そうねえ……少なくとも、あのお姫様が相手なら、年上だろうと、同い年だろうと、年下だろうと、アリって感じだったかしら。だから、ロリコンっていうのとは、ちょっと違うと思うわ」
「何それ。つまり、レナータ大好き人間ってこと?」
「露骨な言い方をするなら、そういうことになるわね」
「へええ……そういう男って、本当に実在するんだ。信じらんない」
「あの子のどこが、そんなにいいのかな? 確かに可愛いし、男受けはよさそうだけど……」
「あ! アレスって、綺麗系じゃなくて、可愛い系が好みなんじゃない? それなら、ロザリーを振るのも、分かる。可愛い系の美人っていえば、断トツでレナータだもんね」
「そうそう。オーナーがフロアスタッフにしたくてしょうがなかったくらいには、美人だよねー」
「ロザリーとレナータで、綺麗系と可愛い系を両方揃えておきたかったんだろうけど、確かアレスにすっぱり断られていたよね。何故か本人じゃなくて、保護者に拒否されるとは思わなかっただろうなー」
次から次へと耳に飛び込んでくる言葉の数々に、どう反応したらいいのか、全く分からない。
しかし、このカフェのオーナーが、レナータをフロアのスタッフにしたがっていた話は、当事者だからよく覚えている。
ロザリーの友人たちの言う通り、レナータは農作業のスタッフを最初から希望していたものの、オーナーにかなり渋られ、フロアのスタッフにならないかと、何度も打診されたのだ。
でも、極力人前に出たくないレナータは、オーナーと同等の粘り強さで、誘いを断り続けた。だから、ロザリーの友人たちの情報は、一部間違っている。
ただ、あまりにもしつこいオーナーの態度に、レナータの付き添いで来ていたアレスが痺れを切らし、凄んで黙らせたものだから、そちらの印象が強烈に残ってしまったのだろう。
(あの時のアレス、他人から見たら、ものすごく怖かっただろうからな……)
明らかに、周囲からは堅気の人間ではないと思われたに違いない。実際のアレスは、犯罪者ではないし、その筋の人間でもないのだが、あの時はそう勘違いされても仕方がないくらいの目をしていた。
「でもさあ、それでも子供には変わりないじゃない? 子供の身体なんかで、満足できるのかなー? っていうか、犯罪の匂いがするんですけどー」
――その言葉が鼓膜を貫いた刹那、自分の表情が凍り付いたのが、鏡を見なくても分かった。
(何を……言っているの?)
今までも、そういった類の噂話を耳にしたことがないわけではない。だが、アレスへの恋心を自覚してしまった今となっては、受ける衝撃はこれまでの比ではなかった。
「ビアンカってば、すーぐそういう話ばっかりするんだから。どんだけ飢えてんのよ」
「えー、生き物として自然の摂理じゃない? というか、健全な二十歳の男なら、そういうことしたくてしょうがないでしょーが」
「あら、そうでもないみたいよ? あの人、見た目によらず、結構プラトニックでピュアみたいだから」
「え、そうなの?」
「ええ。試しに私からキスしてみたら、ごみでも見るような目で見られたもの」
「うっわー……普通、ラッキーとか思わないのかな? もしかして、潔癖?」
「そうなのかもしれないし、もしかしたら男として不能なのかもしれないわね」
「うっそ、マジで? ウケるー」
「うわあ……それは、勿体無い。せっかくの男前でも、それじゃあ台無しだね」
硬直していた思考が緩やかに動き出していくにつれ、沸々と腹の底から怒りが込み上げてくる。
レナータとの下世話な憶測をされるくらいならば、まだ耐えられた。何も思わないわけではないが、事実ではないのだから、レナータたちが気にする必要なんて、どこにもない。
しかし、アレスを侮辱する発言は、許せなかった。しかも、アレスの唇に口紅の色を移した犯人がロザリーだと判明し、怒りとはまた別の、もっと複雑怪奇で、自分でもよく理解できない醜い感情が、胸の底から湧き上がってきた。
(……ああ、そっか。これが――)
――嫉妬と憎悪か。
人工知能だった頃のレナータは、恋愛感情と同じくらい、これらの感情とは無縁だった。ただ、人間を観察し、ディープラーニングを繰り返した結果、そういう感情があるのだと、知識として知っていただけだ。だから、そういう感情に囚われ、愚行を犯す人間の心理が、レナータには理解し難かった。でも、実際に体感してみた今ならば、彼らの気持ちが少しだけ分かった気がする。
確かに、これは――制御するのが、難しい。
そう胸中で呟いた直後、すぐ目の前にある扉が開き、はっと正気に引き戻された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます