宣戦布告

「わっ! レナータ、いたの? もう、びっくりしたー」


 レナータが立ち尽くしていた扉から出てきたのは、職場で最も仲のいいアメリアという少女だった。レナータと同い年であり、農作業のスタッフでもあるアメリアは、既に作業着に着替え終わっており、予想外の出来事を前にして、目を白黒させている。


 我に返ったレナータは、何事もなかったかのように、苦い笑みを零した。隣室から先刻まで聞こえていた、けたたましいほどの話し声がぴたりと止んでいたが、気にしない。


「びっくりさせちゃって、ごめんね。今日、つい寝坊しちゃって……。でも、私もびっくりしたよ。ドア開けようとしたら、勝手に開くんだもの」

「レナータが寝坊? 珍しいね。じゃあ、急いで着替えてきちゃいなよ。私、先に行って、レナータの分も準備しておくからさ」

「ありがとう、アメリア。そうさせてもらうね」

「その代わり、今度お昼か夕ごはん、ご馳走してもらうから!」

「……ちゃんと、手加減してよ?」

「さあ? それは、その日の空腹具合にもよるから、何とも言えないなー。……って! 本当に急がないと、遅刻しちゃうよ! じゃあね、レナータ。また、あとでね!」

「うん、またね」


 緩く三つ編みにしたブロンドを揺らし、走り去っていくアメリアに手を振り返すと、即座に更衣室へと入り、自分のロッカーの前に立つ。そして、ロッカーを開けて荷物を入れ、素早く身支度を整えていく。

 作業着に着替え終わったところで、ふとロッカーの内側にある鏡が視界に入り、何となく目を向ける。すると、肩の上で切り揃えられたダークブロンドと、翡翠の瞳を持つ少女が、じっとレナータを見つめ返してきた。


 本当に、髪の色と長さ、それから瞳の色を除けば、あの頃とほとんど変わらない見た目をしている。今はまだあどけなさが残っているが、あと五年も経てば、かつての自分と何一つ変わらない容貌になるのだろう。


 アレスがレナータのことを好きなことくらい、とっくに知っている。ただ、その好きがどういう好きなのか、種類が分からないだけだ。さらに付け加えるとすれば、今と昔、どちらのレナータが好きなのかも、判別できない。


 だが、昨夜の真相が判明した時、ロザリーに怒りや嫉妬を覚え、憎らしいとも思ったものの、同時にほんの少しだけ優越感じみたものにも浸った。アレスは、レナータ以外の女性は相手にしないのだと知り、誤魔化しようがないほど、喜んでいた。そんな自分は、やはり醜いと思う。

 しかし、そこで、そういえば幼い頃のアレスも嫉妬深く、独占欲が強かったことを思い出した。


(ねえ、アレス……貴方は、この感情を持て余したことはないの? 自分のこと……嫌になったことはないの?)


 少なくとも、レナータが見た限りでは、アレスは自身の無力さに歯噛みしていることこそあったものの、自己嫌悪に陥っているところは、あまり記憶にない。

 それに、本人が内心どう思っていようとも、レナータがかつてのアレスを醜いと思ったことは、一度たりともない。今のアレスに対しても、そうだ。

 ならば、レナータ自身も、自分の感情にもっと寛容になっても許されるのではないか。あまりにも高い理想を掲げていても、息苦しくなるばかりではないのか。むしろ、人によっては嫌味と受け取られかねないのかもしれない。


 そんなことを考えつつも、仕事に向かうべく、身体は勝手に動いていた。ロッカーの扉を閉めて身を翻し、更衣室を後にしようと、扉の取っ手を掴む。

 そのままゆっくりと扉を開け、アメリアが先に行った畑に向かおうと、身体の向きを変えた直後、艶やかに微笑む美女の淡いブルーの眼差 しと、レナータの翡翠の眼差しが交錯した。


「おはよう、レナータ。今日は、珍しく遅かったのね?」

「……おはようございます、ロザリーさん。すみません、今日は寝坊してしまって。これからは、こんなことがないように気をつけます」


 先程、自分自身の胸に巣食う、どす黒い感情を認めたばかりとはいえ、そんなにすぐに吹っ切れるわけがない。ましてや、そんな感情を抱かせた張本人を前にして、冷静でいろという方が難しい。こういう感情は、制御しにくいとも実感したばかりだ。

 でも、レナータは伊達に三千年以上生きていない。とりあえず、表面上は取り繕う術くらいは持っている。今朝のあれこそ、レナータにしては珍しい失態だったのだ。


 ロザリーに向かって殊勝に頭を下げ、急いで畑に行かなければと、足早にその横を通り過ぎようとした直前、ふわりと匂い立つような色香を纏った声が、耳朶を掠めていった。


「――ごめんなさいね? 貴女の大事な大事な、番犬くんの唇を奪ってしまって」


 その声に引き寄せられるかのごとく、一度立ち止まり、ゆっくりと振り返る。もう一度レナータと視線が絡み合うや否や、ロザリーはどうしてか驚愕に目を見開いたが、そんなことに構っている余裕など、今は砂粒ほどにもなかった。ロザリーの淡いピンクに染まった、ふっくらとした唇に目を留め、食い入るようにじっと見つめる。


 ロザリーは口紅を塗っているだけではなく、パール入りのグロスも乗せているらしい。ロザリーの唇には、明らかに自然なものではない艶が乗り、微かに輝いている。

 この唇が、アレスの唇に触れたのかと思った途端、頭から冷水を浴びせられた心地がした。先刻、ロザリーがアレスとキスをした女性だと知った時には、全身が煮えたぎるように熱くなっていたというのに、今は体温を失ってしまったのではないかと錯覚してしまいそうなほど、頭も身体も冷え切っているように感じられた。


 それに、先程ロザリーの脇を通り過ぎようとした際に漂ってきた、薔薇みたいに上品で甘い香りを思い出す。そういえば、アレスに纏わりついていた香水の匂いの中に、あの匂いも混ざっていた気がする。

 つまり、アレスとキスを交わすだけでは飽き足らず、それだけ身体を密着させたということなのか。

 ロザリーの、白いブラウスと濃紺のエプロン、黒いスラックスに包まれた肢体を、視線でなぞっていく。豊満な胸や、まっすぐにすらりと伸びた長い脚は、布越しでもよく分かる。まだ発展途上の、レナータの身体つきとは全く違う。

 思考がその可能性を導き出した瞬間、怒りが胸を過っていたが、先刻アレスがロザリーになびかなかったという話も思い出し、溜飲が下がる思いがした。


 しばし、ロザリーは意表を突かれたかのように目を丸くしていたが、何を思ったのか、再び色っぽい微笑みを唇に象っていった。


「……驚いた。貴女も、そういう顔ができたのね。守られてばっかりの、可愛いだけのお姫様だと思っていたわ」

「――可愛いだけの女なんて、この世界に存在するんですか」


 レナータの唇から零れ落ちてきた声は、自分でも驚くくらい、ひどく冷淡だった。だが、自身の声色とは裏腹に、唇は自然と弧を描いていく。

 レナータと相対するロザリーも微笑みを絶やさず、軽く肩を竦めた。


「生まれてこの方、会ったことがないわ」

「ですよね」


 互いににっこりと微笑み合っているものの、ロザリーの目は全く笑ってなどいなかった。しかし、それはロザリーだけの話ではなく、おそらくレナータも同じだろう。

 互いの間に沈黙が生まれ、もしこれ以上用がないのならば、先を急がせてもらおうと、口を開こうとした矢先、ロザリーが歌うように言葉を紡いだ。


「安心して。私、別に貴女からあの人を取ろうとしたわけではないのよ? ただ、ちょっと確認してみたかっただけ」

「……確認?」


 ロザリーの意図を掴みかね、微かに眉根を寄せ、言葉を反芻する。ロザリーは頷き、言葉を続ける。


「ええ、そう。あの人が、貴女に一途な番犬くんかどうか、確かめたかったのよ。――あのね、私、正直気持ち悪いくらい、ずうっと貴女を一途に想っている人を知っているの。本当、ちょっとは報われて欲しいなあって、私でも思うくらい、一途なのよ。だからね、これは私なりの親切心。その人が付け入る隙が、貴方たちにあるのかどうか、確かめたかったの」


 そこまで一気に言い切るなり、何がおかしいのか、ロザリーは軽やかに声を立てて笑った。


「そうしたら、結果は惨敗。貴女たち、見ているこっちがびっくりするくらい、相思相愛なのね? ある意味、羨ましいわ。まあ……貴女に片思いをしている人にとっては、残酷な結果になってしまったけれど」


 そうは言われても、返事に困る。レナータ本人さえも知らない相手の気持ちまで、さすがに慮ることはできない。大体、ロザリーから気持ち悪いという感想まで聞かされたら、その人はレナータのストーカーか何かなのではないかと、つい勘繰ってしまいそうになる。

 今度、念のためアレスに相談しておこうかと考えるレナータを余所に、ロザリーは言葉を継いだ。


「だから、私が貴女の番犬くんが好きなわけではないの。さっきも言ったけれど、心配しなくても大丈夫よ」

「……そうですか。わざわざ自己申告してくださり、ありがとうございます。でも――」


 そこまで言ったところで、再度笑顔を作る。極上の笑みを浮かべられていることを祈りながら、穏やかな口調で告げる。


「――もう二度と、アレスにちょっかいをかけないでくださいね? 私、今回のことで初めて知ったんですけど、自分が大切に想っているものを他人にどうこうされるの、大嫌いなんです。だから、もし次があったら、その時は――こっちにも考えがありますから」


 互いの合意の上ならば、内心どれだけ嫌だと思っても、口出しするつもりはない。でも、もし今回みたいにアレスの同意もなしに、何か仕掛けてきた時には、容赦するつもりは毛頭ない。

 笑顔で宣戦布告をすると、ロザリーはもう一度驚いたように目を見張ったものの、またすぐに微笑んだ。


「貴女、実はいい性格をしているのね」

「ロザリーさんほどじゃないですよ」


 再びにっこりと微笑みを交わし、今度こそレナータはその場から立ち去った。ロザリーが追いかけてくる気配も、声をかけてくる様子もない。さすがに、もうレナータに用はないみたいだ。

 先程、一応釘を刺しておいたものの、もうロザリーがアレスやレナータに干渉してくることはないだろうという予感が、胸を掠めていった。

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