力強い手
『迎えにきた。いつものところで待っているから、慌てずに出てこい』
今日一日の仕事が終わり、空が夕暮れに染まる時間帯だ。更衣室脇にある簡易シャワー室で汗と泥を流し、着替えを済ませたレナータは、更衣室で携帯端末の液晶画面を眺めていた。
この携帯端末は、万が一のためにと両親が用意してくれていたもので、スラム街に流れ着いてから今に至るまで、ずっと使っている。
(アレス、もう迎えにきてくれたんだ……)
相変わらずの早い到着に苦笑いを浮かべ、画面に指先を滑らせて返信する。
『いつも、ありがとう。これから行くから、ちょっと待っていてね!』
今朝のままの心情だったら、確実に上辺だけの言葉になってしまっていたに違いないが、今ではすっかりいつもの調子を取り戻し、心からの言葉になった。
メッセージを送信するや否や、携帯端末をパーカーのポケットに滑り込ませ、まだだらだらと帰り支度をしている友人たちへと向き直る。
「じゃあ、私は先に帰るね。またね!」
「うん、またねー」
「お疲れー」
畑仕事で疲弊している友達は、声まで間延びしている。
友人たちに手を振り返しつつ更衣室から飛び出し、従業員専用の裏口へと小走りに進んで外へ出た刹那、アレスの姿を視界に捉えた。
近くの建物の壁に寄りかかり、携帯端末を弄っていたアレスは、レナータに気づいたらしく、顔を上げた。その拍子に、琥珀の眼差しと、翡翠の眼差しが絡み合う。
アレスに向かって口を開こうとした寸前、突然予想外の声がレナータの背を打った。
「――お疲れ! レナータ」
驚いて後ろを振り返れば、レナータの同僚である男性スタッフが、こちらへと駆け寄ってくるところだった。
「お疲れ様、カルロ。どうしたの? 何か、連絡漏れでもあった?」
アレスまであと数メートルというところで足止めを食らい、少しだけ不満が顔を覗かせたものの、もしかしたらレナータに業務連絡を伝えにきてくれたのかもしれないと思い、ぐっと堪える。カルロはレナータと同じ、農作業を担当しているスタッフだから、その可能性は皆無ではない。
くるりと身体の向きを変え、その場に留まったレナータのすぐ目の前で、カルロが立ち止まった。相手の方が年上とはいえ、カルロはレナータと二つしか歳が違わないのに、意外と身長差がある。だから向き合うと、必然的にレナータがカルロを見上げる形になる。
レナータが首を傾げて問いかければ、カルロは軽く息を弾ませたまま、苦い笑みを零した。
「違う、違う」
「じゃあ、私、忘れ物でもしていた?」
次に頭に浮かんだ可能性を口に出すと、カルロは半ば呆れたような目をレナータに向けてきた。
「それも、違うって。……レナータ、それわざと?」
「それって?」
カルロの言う通り、わざととぼけてみせているのだが、わざわざ律儀に教える必要なんて、露ほどにもない。
業務連絡か、忘れ物を届けにきてくれたという可能性は、そうであって欲しいというレナータの願望でもあったのだが、そう上手くいかないのが、世の常だ。どうやら、そうであって欲しくないと願っていた可能性の方が、現実になってしまったらしい。
「まあ、いいや……。――なあ、レナータ。今日、時間ある? よかったらさ、一緒に何か食いにいこうよ」
「気持ちは嬉しいけど……ごめんね、カルロ。今日も予定があるから、私、行けないの」
そう言いながら、後ろをちらりと見遣れば、案の定、アレスが眉間に深く皺を寄せ、カルロを威嚇するように睨み据えていた。番犬と周囲から呼ばれるのも納得がいくほど、その眼光は鋭く、今にも唸り声が聞こえてきそうだ。
怖い保護者がすぐ傍にいることを視線で示してから、翡翠の眼差しを正面へと戻せば、不満そうな面持ちのカルロが視界に映った。
「レナータ、これで断るの、四回目だろ。付き合い、悪いなー」
「じゃあ、付き合いの悪い私を、誘わなければいいじゃない」
三回も駄目だったら、普通は諦めるのではないか。それとも、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる作戦に出たのだろうか。
むっと唇を尖らせ、さっさとアレスのところに行こうと、カルロに背を向けようとした直前、不意に手首を掴まれた。
「一回くらい、一緒に飯食ってもいいだろ。別に、だからどうこうってわけじゃないんだからさ」
どうこうしたいから、レナータを食事に誘っているのではないかと、思わずカルロを半眼で見遣る。
カルロとは、同じ職場で働いているのだから、レナータにどういう感情を向けているのかくらい、薄々勘づいていた。だから、適度に距離を置き、向こうがその距離を詰めようとしてくれば、やんわりと遠ざけてきたというのに、それでもカルロにはレナータの意思は伝わっていないのだろうか。もしくは、気づいてはいるものの、あえて空気を読んでいないだけなのか。
(面倒臭いなあ、もう……)
だんだんと、断り続けるのにも疲れてきた。もし、レナータが頷くまで、この攻防戦が続くというのならば、確かに一回くらい一緒に食事に行ってもいいかもしれない。それで、このやり取りが終わるというのであれば、安いものだ。
カルロに気づかれないように溜息を吐き、重い口をこじ開ける。
「……分かった、いいよ。その代わり、女の子の友達も一緒でもいい?」
「え、マジで? いいの?」
「うん」
別に、カルロはレナータと二人きりではなくても、構わなかったらしい。そのことに内心安堵し、こくりと頷くと、カルロは分かりやすく嬉しそうに破顔した。
「やった! じゃあ、今から行く?」
「だから、今日は無理だってば。……三日後は、どうかな? 仕事の後、みんなで行こ」
明日はレナータが休みで、明後日はカルロが休みの日だ。休日にわざわざ会うのは億劫だから、互いに出勤日である日を指定すれば、カルロは快諾してくれた。
「オッケー。じゃあ、俺も何人か声をかけるから、みんなで行こうな」
二人きりで食事という状況は避けられたものの、何だか合コンみたくなってきた。レナータとカルロをくっつけるような流れになったら、友人たちに助力を乞おうと、心に固く誓う。
(でも、アレスもたまにはこういうのに参加しているんだから、私だけ駄目ってこともないよね)
昨夜の意趣返しがしたいわけではない。だが、よくよく考えてみれば、レナータがこういう集まりに参加するのは、就職したばかりの頃、歓迎会の主賓として出席した時以来だ。もしかすると、カルロの指摘通り、今までのレナータは確かに付き合いが悪かったのかもしれない。
「うん、了解。……で、カルロ。そろそろ、手を放して欲しいんだけど……」
「あ、ごめん!」
どうやら話に夢中で、レナータの手首を掴んでいたことを忘れていたらしい。そう簡単に忘れるなと文句を言いたいところだが、口には出さないでおく。
「ごめんな、痛くなかった?」
「ううん、痛くはなかったよ」
「なら、よかった。……あのさ、レナータ。連絡先、教えてくれないか? ほら、今回のことで、色々相談したいからさ」
「……ごめんね、カルロ。私、上司以外には、同じ職場の人たちでも連絡先を教えない主義なの」
「え、アメリアたちにも教えてないの?」
「うん」
これは、本当だ。レナータは、業務連絡を携帯端末でやり取りする上で、最低限必要な人以外、職場の同僚が相手だろうとも、連絡先を教えていない。だから、レナータの連絡先を知っているのは、その条件に該当する人たちと、アレスだけだ。
(もし、個人情報が漏れたら、どうなるか分からないもの)
スラム街の住民たちに、レナータの個人情報を知られてしまうのも困りものだが、万が一、楽園の人間の手に渡ってしまったら、今の生活が崩壊しかねない。念には念を入れるくらいが、レナータたちにはちょうどいい。
それに、たとえレナータたちが追われる身ではなかったとしても、あまり深く関わりたくない相手に連絡先を教えるつもりは、微塵もない。
しかし、相変わらずカルロに引き下がる様子はない。もしかして、先刻のやり取りを経て、強く押せばいけると勘違いさせてしまったのだろうか。
「えええー。いいじゃん、そのくらい――」
「――おい、いい加減にしろ。クソガキ」
いつの間に、こんなに近くにいたのだろう。レナータもカルロも、互いに話に気を取られ、全く分からなかった。
低く美しい声が鼓膜を揺さぶったかと思えば、レナータは力強い手に肩を抱き寄せられていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます