もう子供じゃない
「アレス……?」
本当に、いつの間にこんなにも近くまで来ていたのか。
肩を抱き寄せられたのも束の間、レナータは瞬く間にアレスの背に隠されてしまった。だから、アレスの横顔を見上げていられたのも、ほんの僅かな間だけだったが、相も変わらず眉間に深い皺を刻み、険しい面持ちをしていたことは、はっきりと見て取れた。それに、顔を見ずとも、アレスの背からは確かな怒気が立ち上っていた。
「おい、クソガキ。調子に乗っているところ、悪いが……いいことを教えてやる」
アレスの声は、今では地を這うように低いと感じられる。
突然の閲入者に呆気に取られているのか、はたまたアレスの凄みに気圧されているのか、カルロの声は聞こえてこない。
でも、アレスはカルロを意に介さず、言葉を繋いだ。
「こいつは基本的に、誰にでも優しい。我を押し通せば、何度拒絶していたとしても、大抵は折れてくれる。だがな、それは、レナータはてめえに興味なんか欠片もねえってことなんだよ。無関心だからこそ、当たり障りのない対応をしているだけだ。――だから、お前はこいつに とって、特別でも何でもねえんだよ。……分かったか?」
「ちょっ……!? アレス、急に何を言い出すの!」
耳に飛び込んできた、思いがけない言葉に突き動かされ、慌ててアレスの服の裾を掴む。
たった今、アレスが口にした言葉は、全て事実だ。長年、一緒にいるだけあり、レナータの性格をよく理解している。
レナータの優しさと呼ばれているものは、所謂、相手への関心のなさと紙一重だ。好きでも嫌いでもなく、何の感情も抱いていなければ、少なくとも相手を不快にさせる真似はしない。
その上、昔からレナータは、相手が何を求めているのか察することに長けていたため、どうしても抵抗を覚えるようなものではない限りは、気を持たせない程度に、相手の欲するものを与えてきた。時折、カルロみたいに勘違いする人も現れたが、これまで上手くあしらってきた。
だから、そんなことをいちいち明言する必要はなかったのではないか。
これで、レナータが悪く思われるくらいならば、自業自得だ。だが、その矛先がアレスへと向けられたら、どうするつもりなのか。
「何って、紛れもない事実だろうが」
肩越しに振り返ったアレスは、ひどく冷めた目でレナータを見下ろしてきた。しかし、どれだけ冷たく感じられても、琥珀の瞳の奥では、やはり怒りが燻っているように見えた。
「ほ……ほら見ろ! 本人が否定しているじゃねえか! そんなの、あんたのそうであって欲しいっていう、ただの願望――」
レナータが止めに入ったことで、正気に戻ったらしいカルロは、我が意を得たりとばかりに反撃を試みてきたものの、アレスの視線が正面へと戻った途端、不自然に言葉が途切れた。レナータの視界はアレスの背に遮られているため、カルロがどんな顔をしているのか分からないが、息を呑む音が微かに耳朶を打った気がする。
「……一度しか言わねえから、よく聞いておけ。こいつに、これ以上しつこく付き纏うんじゃねえよ。目障りだ。次、同じようなことがあったら、その時は――こっちにも考えがある」
アレスの言葉を耳にした瞬間、カルロだけではなく、レナータも大きく息を呑んだ。
まさか――レナータがロザリーに牽制をしたように、アレスがカルロに対してそうするとは、欠片も思わなかった。
それだけ、レナータがアレスの考え方に影響を受けていたということなのだろうか。それとも、僅かなりとも、レナータと同じ気持ちがアレスの中にもあるということなのだろうか。
目の前の背をじっと見つめていたら、唐突にアレスがレナータへと向き直った。レナータが反応するよりも早く、先程カルロに掴まれた右手首を今度はアレスに掴まれ、無言で引っ張られていく。
「えっ、ちょっ、アレス」
「……そうだ。一つ、言い忘れていた。――おい、クソガキ。そういうわけだから、こいつと飯食いに行くのは、諦めろ。今日だけじゃなくて、この先ずっと、だ」
振り向きざまにそう言い放ったアレスの眼差しは、先刻同様、底冷えしている。アレスにつられてレナータも後ろを見遣れば、顔面蒼白のカルロが、その場に立ち尽くしていた。十中八九、アレスの鋭い視線に恐れをなしたのだろう。
そんなカルロに、一応何か言葉をかけておいた方がいいのだろうかと思案していたら、まるでレナータの考えを読み取ったかのごとく、手首を掴む手により一層力が込められた。
「痛っ……! アレス、痛いよ。お願い、手を放して」
この距離でレナータの声が聞こえないはずはないのに、アレスは何も言わずにずんずんと前へと進んでいく。いつもならば、レナータに歩調を合わせてくれるのに、今日は全くお構いなしに歩いているものだから、小走りでついていくしかない。レナータが小走りをしていることすら気づいていないのか、アレスの歩調が緩む気配は一向にない。
(アレス、どうしてそこまで怒っているの……?)
アレスがレナータに関わる異性に怒りを向けたのは、別にこれが初めてではない。でも、今回のこの怒りようは、度が過ぎているのではないか。
レナータが戸惑っている間に、気づけば、アレスと二人で暮らし始めて五年が経つ我が家へと辿り着いていた。今日は途中で買い物をしていかなくてよかったのかと思ったものの、とてもではないが、そんなことを訊ねられる雰囲気ではない。
相変わらずアレスに手首を拘束されたまま、家の中に引っ張り込まれた。玄関の扉が閉まり、鍵をかけたところで、ようやく手首が解放された。
だが、ほっと安堵の吐息を零したのも束の間、琥珀の瞳に睨まれていることに気づき、内心首を捻る。
「……アレス?」
「――お前、なんであんなクソガキにほいほいついていこうとしているんだ。馬鹿じゃねえのか」
アレスの言い方にむっと苛立ったものの、慌てて口を開く。
「アレス、どこからどこまで話を聞いていたのか知らないけど……カルロは、仕事の同僚だよ。たまには、付き合いで一緒に食事に行ったっていいじゃない。別に、二人きりで食事するわけでもないんだし。アレスだって、付き合いで飲みに行ったりするでしょ? それと一緒だよ」
そうだ。アレスだって、付き合いで職場の同僚と飲みに出かけているではないか。アレスはよくて、レナータが駄目な理由は、やはり思いつかない。
アレスを宥めるように、穏やかな口調を心がけてそう答えたのだが、琥珀の眼光は鋭いままだ。こんなことでお小言を聞かされる羽目になったら敵わないと思い、薄く形のよい唇が開きかけたところで、先手を打つ。
「アレス。アレスから見たら私はまだまだ子供なんだろうけど、多分アレスが思っているよりは私、子供じゃないよ。相手が一緒にいても大丈夫な人かどうかくらい、私にも見極められるよ。だから……もし、アレスがお兄ちゃんとして口出ししているなら、余計なお世話だよ。放っておいて」
レナータがそう告げた刹那、アレスが驚愕に目を見開いた。もしかして、レナータが反撃してくるとは、思ってもみなかったのだろうか。
しかし、ここで退いてしまっては駄目だと思い、さらに言い募る。
「お願いだから、今日みたいなことは、もう二度としないで。私は、いつまでもアレスのお守が必要な小さな子供じゃないんだよ。だから――」
「――ああ、そうだ」
だから――アレスには、もっと自分のために時間を使って欲しい。
そう続けようとした言葉は、低く美しい声に遮られた。きつく眉根を寄せたアレスがレナータに詰め寄り、元々それほどなかった二人の距離が、一際縮まった。アレスがレナータの顔を覗き込んでくるものだから、互いの吐息さえも感じられるほどだ。
「お前は、小さなガキじゃねえ。だから、ああいうのが寄ってくるんだろ」
不愉快だと言わんばかりに、そう吐き捨てたアレスを目の当たりにし、忙しなく目を瞬かせる。
てっきり、アレスはレナータを幼い子供だと思っているからこそ、あんなにも干渉してきたのだと予想していた。でも、アレスが言うには、どうもそうではないらしい。
(じゃあ……どうしてそこまで怒っているの?)
やはり、どうしてもそこが疑問だ。
「それなら……これからは、ああいうことはしないって、約束してくれる?」
「レナータが、ああいう馬鹿を相手にしないって約束できるならな」
「……何それ。どうして、アレスは女の人と一緒にお酒を飲んでもよくて、私は男の子と一緒にごはんを食べるのがいけないの? 私の方が、よっぽど健全じゃない」
そう問いを投げかければ、怒りを孕んでいる琥珀の瞳が、すっと眩められた。
「俺は、そういうところに連れていかれても、化粧臭い女を相手にしたりしねえよ」
「化粧臭いって……失礼だよ、アレス」
「うるせえよ」
「じゃあ、私も相手を恋愛対象として見なければ、一緒にごはんに行ってもいいの?」
「……しつこいな、そんなに行きたかったのか」
「そういうわけじゃないけど……あんまりつれなくするのは、付き合い悪いんじゃないかなって思って」
「そういうわけじゃないなら、別にいいだろ。それに、お前の場合、付き合いが悪いくらいで、ちょうどいい」
「だから……! 私の人間関係に、いちいち口出ししないでよ! 私がアレスの人間関係に口出ししたこと、ある? ないでしょ? それなのに、アレスばっかり、ああでもない、こうでもないって……もう、しつこい! 私のこと、小さな子供じゃないって思っているなら、ここまでお兄ちゃん面することないでしょ!」
いい加減、我慢の限界だ。
本当に、何故アレスはここまでレナータに干渉してくるのか。いくらレナータの兄貴分とはいえ、ここまで来ると、過干渉と言わざるを得ない。こんなに妹の人間関係に介入してくる兄なんて、この世に存在しないのではないか。
憤るレナータに虚を突かれたのか、アレスは軽く目を見張ったものの、またすぐに怒りに目元を歪めた。そうかと思えば、肩を強く掴まれ、頭をすっぽりと覆っていたフードが、するりと滑り落ちた。
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