変わらないもの

「レナータがガキじゃねえから、心配しているんだろ」


 薄く形のよい唇から零れ落ちてきた声には、これでもかというほどの怒りが凝縮されていた。だが、それだけではなく、どこか焦燥感じみたものも滲んでいる気がする。


 そんなアレスの様子に勢いを削がれ、眼前に迫る琥珀の瞳をじっと見つめる。

 アレス曰く、レナータが幼い子供ではなくなったから、心配で仕方がないという。たかだか食事に誘われたくらいで、あれだけの怒りを露わにし、どうしてか焦りまでも見せている。


 ふと、今のアレスの姿に既視感を覚えた。この切羽詰まった琥珀の眼差しには、見覚えがある。


(あ、そっか――)


 そう思った直後、耳の奥に幼いながらも美しい声が蘇ってきた。


 ――俺に、何かして欲しいことある?

 ――そんなことないから、何でも言って欲しい。そうしたら、レナータは俺だけを見てくれる? 俺のこと、もっと考えてくれる? さっきみたいに――。


 嫉妬深くて独占欲の強い幼いアレスが、兄にレナータを取られまいと、必死に言い募ってくる姿が、脳裏に色鮮やかに浮かび上がってくる。


(もしかして、アレス――)


 ――まだ、レナータに恋をしてくれているのだろうか。あるいは、もう一度恋をしてくれたのだろうか。


 速まる鼓動を意識しつつも、懸命に平静を装って口を開く。


「……ねえ、アレス。 アレスに訊きたいことがあるの」

「なんだ」

「アレスは……昔の私と今の私、どっちの私を大切に想ってくれているの?」


 好きという単語は、さすがに今のレナータにはハードルが高くて、口には出せなかった。だから、その代わりに大切に想うという言葉を選んだ。

 アレスは、過去に囚われているのだろうか。もしくは、過去は過去として受け入れた上で、今を生きているのか。


 先程までの話の流れを一切無視したレナータの問いに、案の定、アレスは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。しかし、何故そんなことを訊くのかと、問い返してくることはなく、少し思案する素振りを見せた後、ぶっきらぼうに答えてくれた。


「……今も昔も、レナータはレナータだろ。なんで分けて考える必要があるんだ」


 アレスの返事を耳にした途端、ふわりと匂い立つような色香を纏った声を、すかさず思い出した。


 ――そうねえ……少なくとも、あのお姫様が相手なら、年上だろうと、同い年だろうと、年下だろうと、アリって感じだったかしら。


 その声を胸の内で反芻していると、どくりと心臓が一際強く脈打つ。

 今までのレナータは、アレスと同じで、昔の自分と今の自分を分けて考えたりしなかった。自分は自分だと、当たり前のように受け止めていた。


 ならば、どうして今、かつての自分と今の自分を、他ならないレナータ自身が、まるで別人のように分けて考えたのか。


 答えは簡単だ。ロボットだった頃のレナータも、人間に生まれ変わり、幼かった頃のレナータも、恋を知らなかった。あんなにも醜い感情に苦しめられたことなんて、一度もなかった。良くも悪くも純真無垢で、今にして思えば、妬ましいくらい清らかな存在だった。だから、同じ存在だとは、到底思えなくなってしまったのだ。

 でも、この心境の変化は、人として成長していく上で、きっとごく自然なものに違いない。これまでのレナータは知らなかったが、おそらくこれが大人になっていくということなのだろう。

 そう思ったら、改めて自分の浅ましい部分を受け入れられた気がした。自然と頬が緩み、ふわりと微笑む。


「……そっか、そうだよね。私は私だよね」


 ならば、きっと――アレスがレナータに向ける想いの本質は、変わっていないはずだ。いや、そうであって欲しい。

 胸中が温かなもので満たされていくのと同時に、何故か泣き出したいような気持ちも芽生えていく。だが、喉の奥から込み上げてくる熱いものをぐっと呑み込み、言葉を継ぐ。


「アレス、ごめんね。つい、かっとなっちゃって、きつい言い方しちゃった」

「……別に、謝るほどのことじゃねえだろ」

「そう言ってくれるのは、嬉しいけど、ちゃんと謝っておきたかったの。ありがとう、アレス。――あ」


 今まで戸惑ったり、頭に血が上ったり、動揺しながらも喜びが胸の奥底から湧き上がってきたりと、感情が忙しなく動いていたからか、キッチンから良い匂いが漂ってきていることに、全く気づかなかった。アレスからキッチンへと視線を移し、鼻孔をくすぐる匂いに意識を集中させる。


「アレス。今日の夕飯、もしかしてカレー?」

「……あ? ああ、そうだ。昼間のうちに、作っておいた」

「本当? じゃあ、しっかり味が染みついていて、きっとおいしいね! 楽しみだなあ。……あ、まさか辛口じゃないよね……」


 アレスへと視線を戻すと、おそるおそる訊ねる。

 アレスはこれといって食べ物の好き嫌いがないが、レナータは辛いものと苦いものが苦手だ。だから、カレーを作ってもらう時は、いつも辛さは中辛までにしてもらっている。

 しかし、念のためにそう問いかければ、アレスは毒気を抜かれたような面持ちになり、呆れが多分に含まれた眼差しを向けてきた。


「中辛にしたに決まっているだろ。辛口なんかにしたら、レナータ、一口も食わねえからな。食材を無駄にするような真似は、進んでしねえよ。……俺としては、ちょっと物足りねえが」

「駄目! 辛口は、絶対駄目! 断固反対!」

「だから、作らねえって。……ほら、さっさと手洗いうがいして、夕飯の用意するぞ」

「はーい」


 先刻までの剣呑とした雰囲気はどこへやら、二人の間に流れる空気は、すっかりいつも通りのものに戻っていた。でも、朝の時とは異なり、無理に空気を変えたわけではなく、自然とそうなったから、ひどく心地よく感じられる。

 つい嬉しくて、にこにこと微笑んでいたら、アレスが再度怪訝そうに眉間に皺を刻んだ。だが、何も言わずにレナータから顔を背け、洗面所へと向かっていった。アレスの広い背を眺めつつ、笑顔を崩さぬまま、レナータもその後に続いた。 

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