二人だけの秘密

 兄の忠告に構わず、それからもアレスはレナータに会い続けた。アレスと顔を合わせる度に、嬉しそうにふわりと微笑んでくれるレナータを目の当たりにすると、やはり自分の行動が間違っているとは思えない。


 そうやって日々を過ごしているうちに、季節はいつの間にか夏へと変わっていた。


「――ねえ、アレス。アレスさえよければ、今度一緒に街に遊びにいかない?」


 夏を迎えても、大聖堂の内部の空気はどこかひんやりと涼しく、心地よい。だから、その日もアレスはレナータと大聖堂の中で雑談をしていたのだが、ふとした拍子に思いがけない提案を持ちかけられた。


 アレスが呆気に取られ、何も答えられずにいると、レナータの夏の日差しにも負けないくらい眩しい笑顔が、みるみるうちに曇っていく。


「……もしかして、嫌、かな?」


 寂しそうに眉尻を下げ、小首を傾げたレナータに問いかけられた刹那、はっと正気を取り戻し、慌てて首を横に振る。


「嫌、じゃない。行く!」

「……そう? なら、よかったあ」


 アレスが力強く一緒に街へと遊びにいくと宣言するや否や、レナータに笑顔が戻ってきた。垂れ目がちな目元が、さらに幸せそうに垂れ下がり、薔薇色の頬がふわりと緩む。口紅を塗っているわけではなさそうなのに、薄く色づいている、少しふっくらとした唇は弧を描いている。レナータの唇は見るからに柔らかそうで、どうしてかどきどきと心臓が高鳴る。


 本当に、レナータの笑顔の破壊力はすごいと思う。母から、美しい女性は時に国を滅ぼすこともあったのだと聞かされた際は、大袈裟だと思ったものだが、確かにレナータほどの美少女ならば、こうして笑うだけで、国の一つや二つ、滅ぼしてしまうかもしれない。


「レナータ、外に出ても大丈夫なのか?」


 先刻、アレスが言葉を失ってしまったのは、まさかレナータが城の外に出られるとは思ってもみなかったからだ。アレスを出迎える時や見送る時は、いつも橋のところまで来てくれるが、すぐに城に戻ってしまうから、あまり外に出られないのではないかと、勝手に思い込んでいたのだ。


 アレスの質問に、レナータは苦笑いを浮かべた。


「うん。ちゃんと外出許可を取ったから、大丈夫だよ。……あ。もしかして、アレス。それで、さっきは黙り込んじゃったの?」


 アレスが首肯すると、レナータは納得したかのように頷いた。


「別に、私は囚われの身ってわけじゃないから、ちゃんと前もって言っておけば、街に出かけるのは自由だよ。……まあ、私が自主的にお城の外に出ようとするのは、三百年ぶりくらいだから、周りにはびっくりされちゃったけど」


 三百年ぶりという言葉に、凄まじい衝撃を受ける。レナータは、まるで三年ぶりくらいの感覚で、軽く言ってのけているが、とんでもなく長い間、城の中に閉じこもっていたみたいだ。改めて、レナータは人工知能であり、人間ではないのだと、現実を突きつけられた気分だ。


「……レナータは、外に出るの、あんまり好きじゃないのか?」


 そう問いかけつつも、そうではないだろうと胸の内で呟く。


 一緒に遊びにいかないかと提案してきたレナータの表情は、非常に生き生きとしており、アレスの目から見ても明らかに外出に乗り気だった。それこそ、アレスがすぐには答えられずにいたら、気落ちしたように肩を落としたほどだ。


 だが、ならば何故、三百年もの間、城の中に引き籠っていたのか。アレスならば、耐えられそうにない境遇だが、人工知能と人間ではその辺りの感覚も異なるのだろうか。


 レナータは少し悩む素振りを見せた後、どこか困り顔で口を開いた。


「えーっと……そういうわけじゃないの。街に行くの、私は好きだよ。ただ、ちょっと事情があって、あんまり人前に出たくなかったという か……」

「今は、もう平気なのか?」

「うん、もう三百年も前のことだからね。アレスも一緒だから、久しぶりにお城の外に出てみようかなって思って」

「そっか」


 レナータにどんな事情があって、三百年間も城の中に閉じこもっていたのかは知らない。しかし、先程の口振りから察するに、下手に詮索をしたら、レナータを困らせてしまうに違いない。


(でも、やっぱり気になる……)


 レナータを困らせたり、嫌な思いをさせたりするのは、嫌だ。でも、何があったら、三百年も人前に出たくないと思ってしまうのかと、気になって仕方がない。


 アレスがうんうんと頭を悩ませていたら、隣からくすりと笑みが零れる気配がした。


「……アレス。私がお城の中に引き籠っていた理由、気になって気になって、仕方がないんでしょ?」


 レナータのからかい交じりの言葉に、はっと意識が現実に引き戻されると、マリンブルーの瞳がアレスを見下ろしていた。その眼差しからは嫌悪も困惑も感じられず、どこまでも穏やかだ。


「いいよ。アレスになら、特別に教えてあげる。その代わり――」


 レナータの白くて華奢な人差し指がこちらへと伸びてきたかと思えば、アレスの唇に触れた。悪戯っぽく微笑むレナータの顔が、すぐそこ まで迫ってくる。


「――秘密にするって、約束してくれる? 今の時代を生きている人たちは、その理由をほとんど知らないから」


 レナータにそう囁きかけられた途端、かっと頬に熱が上った。再び鼓動がどくどくと激しく脈打ち、息苦しささえ覚える。

 それでも、何とか首を動かして頷くと、レナータは満足そうに微笑み、アレスの唇から指先を離した。それから、すっとアレスから少しだけ距離を取り、ステンドグラスへと視線を移した。


 遠い目をしながらステンドグラスを眺めるレナータの横顔を見つめていたら、少しふっくらとした唇から、透明感のある柔らかい声が零れ落ちてきた。


「――昔はね、時々街に出て、視察をしていたの。あ、視察っていうのは、街やそこに住む人たちの様子を見て、問題がないか調べることなんだけどね。私の頭には、生体コンピュータ……アレスたち人間でいうところの脳ね。それが入っていて、世界中の人たちの色々な情報が勝手にそこに入ってくる仕組みになっているから、わざわざ見にいかなくてもよかったんだけど……」


 そこで、レナータはふと苦い笑みを零す。


「それでも、自分の目で見てみたかったの。人間たちが今、どういう風に暮らしているのか、何か困っていることはないか、自分の目で直接見て、確かめたかった。もちろん、世界中を見て回るのは無理だし、周りを困らせちゃうから、楽園とせいぜいその近くのエリアだけだったけどね」


 夏の日差しを透かしたステンドグラスの光を浴びたレナータの横顔は、この世のものとは思えないほど、美しい。普段は、レナータのことを人間の女の子とどう違うのだろうと思うことが多いアレスだが、こうしたふとした瞬間に、人類の守り神と呼ばれるのも納得がいくなと思う。


「それで、ちょうど今から三百年くらい前のことなんだけど……その日も、私は科学者の人に付き添われて、街の様子を見て回っていたの。そうしたら、急に全然知らない男の人に声をかけられて。……私に、一目惚れをしたっていうの」


 アレスには、その男性の気持ちが何となく分かった。


 確かに、これほど可愛らしい女の子を見かけたら、思わず心を奪われてしまっても、無理はない。声をかけられたレナータからしてみれば、いきなり何なのかと驚くに決まっているが、その男の人はきっと声をかけずにはいられなかったのだろう。


「でも、そんなことを言われても、私はその人のことを何も知らないし、それは相手だって同じことだよね。だから、その場でやんわりとお 断りしたんだけど、それから街に出ると、何かと付き纏われるようになって……。何回、はっきりお断りして突き放しても、効果はなかったの」


 そこまで言ったところで、レナータにしては珍しく、ぐっと眉根を寄せた。レナータにとって、その出来事は余程不快だったに違いない。アレスも、レナータ同様、眉間に深い皺を寄せる。


 その男性は、いくら何でも往生際が悪過ぎやしないか。レナータに好意を寄せているのであれば、きちんと本人の意思を尊重するべきではないか。


 アレスがこうして大聖堂に通い詰めているのも、ひとえにレナータが笑顔で歓迎してくれているからだ。レナータがはっきりと拒絶の言葉を口にしたら、さすがにアレスだって、こうして会いにきたりはしない。


「それでね。顔を合わせて、何回目の時だったかなあ。突然、プロポーズされたの」


 プロポーズという単語に、アレスの心臓がどきりと跳ね上がる。レナータの様子を窺い続けるものの、その横顔は相変わらずちっとも嬉しそうには見えない。


「もちろん、すぐにお断りしたよ。私が、その人のことを何とも思っていなかったっていうのもあるけど……相手は、私に一目惚れをしたっていう人だったからね。仮にその人の望み通りに結婚したとしても、その人が不幸になるのは目に見えていたから」

「……なんで、その人はレナータと結婚したら、不幸になるって思ったんだ?」


 レナータの考えがアレスにはよく理解できず、おずおずと口を挟む。


 だって、レナータは不老のバイオノイドだ。その男性が生きている間、ずっと若く美しい姿を保っていられる。レナータに一目惚れをしたという男の人にしてみれば、その美しさが損なわれないということは、幸せなことなのではないか。


 アレスが首を傾げていたら、不意にレナータがこちらへと振り向いた。マリンブルーの眼差しと琥珀の眼差しが絡み合った瞬間、レナータはふっと寂しそうな微笑みを浮かべた。

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