兄と弟

「……アレス。ちょっとだけでいいから、ぎゅって抱きしめてもいい?」


 レナータは至極真面目な顔で、真剣に問いかけてきた。そんなレナータを、兄は唖然と眺めている。


「うん、どうぞ」

「やったあ! じゃあ、さっそく」


 レナータはアレスのすぐ目の前までやって来ると、その場で膝をつき、ぎゅっと抱き寄せてきた。


「ぎゅー!」


 ちらりと横目でレナータを見遣れば、蕩けそうなほど甘い笑顔が視界に映った。元々薔薇色に染まっていた頬はさらに赤みが増し、その熱がアレスにも伝わってくる。


「ああ……アレス、可愛い。その格好、本当に可愛い」


 傘を差すのは、まだ危ないからと母に言われ、雨の日に使う雨具がレインコートしかなかったから、大人しくそれを着用してきたのだが、その姿がレナータの心を射止めたらしい。幼児のレインコート姿なんて、別に珍しくも何ともないと思うのだが、レナータが喜んでいるなら、それでよしとしよう。


「本当はね。アレスが来てすぐにこうしたかったんだけど、あの時のアレス、雨に濡れていたでしょ? だから、早くレインコートを脱がせて、乾かさないとって思って、できなかったんだけど、乾いた状態ならお願いしてもいいかなあって思ってね」


 アレスの身体をぎゅうぎゅうと抱き竦めてくるレナータの声も、常よりずっと甘くて幸せそうだ。アレスが抱きしめ返せば、頬を擦り寄せてきた。くすぐったさに、ついアレスが微かに身じろぐと、レナータの軽やかな笑い声が耳朶を打つ。


(レナータにぎゅーってされるの、好きだな)


 こうして抱きしめてくるレナータの身体は、柔らかくて気持ちがいい上、何だかいい匂いがするのだ。母のほんのりと甘い香りとは違い、どこか爽やかな香りはレナータらしくて、アレスは密かに気に入っている。


 レナータに抱きしめられたまま、こっそりと兄の様子を窺うと、リヒャルトは愕然と目を見開いていた。レナータに気づかれないように気 をつけつつ、勝ち誇った笑みを浮かべれば、兄の頬が確かに引きつっていく。


 思う存分アレスを抱き竦めたレナータは、やがて満足げな顔で解放してくれた。


「ふー……満足、満足。アレス、ありがとうね」

「別にこのくらい、いつでもいい」

「本当? じゃあ、またお願いしちゃおうっと」

「――ほら、アレス。さっさと帰るぞ」


 レナータと和やかに会話を交わしていたら、渋面を作った兄がもう一度割り込んできた。兄の眉間にはそれはもう深い皺が刻まれ、機嫌の悪さが嫌というほど伝わってくる。

 レナータも、兄の不機嫌さに気づいたのだろう。申し訳なさそうに眉尻を下げ、苦い笑みを零した。


「ごめんね、リック。私のせいで待たせちゃって」

「……いえ、それほど待たされていませんので。お気になさらず」


 先刻とは比べものにならないほど、兄の棘がある言葉に、レナータはますます表情を曇らせた。


「あと、勝手にニックネームで呼んで、ごめんなさい。多分、これからは呼ぶ機会はないだろうけど、次会った時には気をつけるよ」


 レナータは、自身の気さくな態度が馴れ馴れしいと思われ、より一層不興を買ったのかもしれないと、考えたに違いない。心の底から申し訳なさそうに謝罪したレナータに、全くの見当違いな考えだと指摘した方が親切なのだろうが、アレスがそこまでする必要はない。先程の兄の様子から察するに、アレスが何も口を挟まなければ、ろくに弁解もできないだろうと踏み、黙って二人のやり取りを眺める。


「いえ……あの、リックのままで構いません。みんな、そう呼ぶことが多いですから……」


 でも、アレスの期待を裏切り、兄はしどろもどろではあったものの、しっかりと愛称で呼ぶ許可をレナータに出していた。


「本当? 嫌じゃない?」

「い、嫌じゃ、ないです」


 しかも、それで機嫌を悪くしたわけではないのだとも訂正してみせた兄に、舌打ちを零したい衝動に駆られた。


「よかったあ。じゃあ、次に会った時も、リックって呼ばせてもらうね」


 そんな機会は永遠に訪れなければいいと、心の中で強く願う。


「はい。……それでは、これで失礼します。ほら、アレス。行くぞ」


 今は兄と口を利きたくない気分だったから、無言で頷く。兄に続いて歩き出すと、後ろからレナータがついてきた。きっと、せめて扉のところで見送ろうとしてくれているのだろう。


「それじゃあね、アレス、リック。またね」

「うん、また」


 案の定、大聖堂の扉のところで立ち止まったレナータは、こちらに手を振って再会を約束した言葉を口にした。レナータの挨拶の言葉に、力強く首を縦に振るアレスの横で、兄は黙ったまま軽く会釈をする。


「レナータ、明後日も遊びにいっていい?」


 明日は母の仕事が休みで、一緒に出かける予定があるため、明後日に会う約束を取り付けようと訊ねれば、レナータは笑顔で頷いてくれた。


「うん。特に予定は入っていないから、大丈夫だよ。アレスが遊びにきてくれるの、楽しみに待っているね」

「うん、待ってて」

「――アレス、早くしろ」


 そう念押しすると、いつの間にか先に歩き出していたのか、アレスたちから離れた場所で、傘を差している兄が立っていた。


「今、行く! ――じゃあな、レナータ」

「うん、明後日に会おうね」


 互いに手を振ると、アレスは兄の元に向かって駆け出した。こっそりと後ろを振り返れば、レナータがまた手を振ってくれていた嬉しさに、ほんの少しだけ表情が緩んだ。



 ***



「――なあ、アレス。もう、あの人に深入りするのはやめておけよ」


 兄と並んで橋を渡っていたら、不意に頭上から雨粒と共にそんな言葉が降ってきた。咄嗟に隣を振り仰いだものの、兄は前を見据えたままだ。


「……あの人って、レナータのこと?」


 アレスがレナータの名を口にすれば、兄の眉がぴくりと動いた。


「……そうやって、馴れ馴れしい呼び方をするのも、やめろよ」

「なんで?」

「なんでって……アレス。あの人は人類の守り神だって、お前も知っているだろ?」

「知っているけど、なんでそれでレナータの名前を呼んじゃいけないのかは、分かんない。レナータが駄目って言ったわけじゃないんだから、別にいいだろ」


 レナータは、アレスに呼び捨てにされても、嫌な顔一つしない。いつも、笑顔でアレスを迎え入れてくれる。


「レナータは、嫌なことは嫌ってちゃんと言うし、駄目なことも駄目って言うから、そう言われないってことは、レナータは嫌とも駄目とも思っていないと思う」


 どうして、兄にわざわざそんなことを言われなければならないのか、欠片も理解できない。正直、余計なお世話以外の何物でもないと思う。


 アレスにしては饒舌になり、真っ向から兄に言い返すと、リヒャルトの横顔が苦々しく歪んだ。


「そうだとしても……あの人はAIで、お前は人間だ。ずっと一緒にいられるわけじゃない」


 ――ずっと一緒にいられるわけではないという兄の言葉が、アレスの耳を穿つ。


 アレスの、ずっと一緒にいようという言葉に対し、レナータは頷いてくれなかった。ずっと一緒にいられたらいいねと、どこか苦しそうな顔で無理矢理笑い、願望を口にしただけだった。


「……だから、今から会うのをやめろって?」


 突如として吹きつけてきた風が、全身に雨を叩きつけてくる。兄が手に持っている傘が今にも飛ばされそうになり、アレスと同じ濡れ羽色の髪が風に煽られている。


「――そんなの、やだ!」


 やはり、アレスがレナータに会いにいくことを、何故兄が反対するのか、よく分からない。納得もできないし、反発も覚える。


「ずっと一緒にいられなくても、今、一緒にいたい!」


 あの時のレナータには伝えられなかった想いが、喉の奥から迸る。

 これ以上兄と一緒にいたら、また小言を聞かされそうだったから、急いでその場から走り出す。


「おい、アレス!」


 兄の声が背を打ったが、一度も振り向かず、そのまま居住区を目指す。


 ――そうだ、レナータとずっと一緒にいられなくてもいい。レナータが、アレスの花嫁になってくれなくても、構わない。


 レナータが笑ってくれて、その隣にアレスがいられれば、それでいい。そんな時間が永遠に続かなくても、今レナータと一緒にいられるのならば、それだけでよかった。

 兄に何と言われようとも、知ったことか。レナータが約束してくれる限り、アレスはあの美しい大聖堂に行くだけだ。


(レナータは、確かにAIだけど……)


 それでも、アレスにとっては、レナータはお姫様みたいに可愛い女の子だ。それ以上でも、それ以下でもない。


 ふと、頭上に広がる暗い空を見上げる。その拍子に、アレスの頬を雨粒が叩く。頬に落ちた雨粒が、まるで涙みたいに顎を伝い落ちていく。


 雨に濡れながら、明後日は晴れればいいなと、心の底から願った。

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