最愛の娘、あるいは罪の象徴 中編

「――私、大きくなったら、アレスのお嫁さんになるね!」


 オリヴァーが過去に想いを馳せ、罪悪感にのたうち回っていたら、突如としてそんな言葉が耳に飛び込んできて、はっと我に返る。


 慌てて意識を現実へと戻すと、立ち上がったままの娘が座っているアレスの顔を覗き込み、にこにこと能天気に笑っていた。一体、いつの間にそんな話になっていたのだろう。


 アレスはといえば、微笑ましそうにレナータを見つめ返し、娘の頭に乗っている花冠が落ちないように気をつけながらも、艶やかなダークブロンドを撫でていた。


「そうか、それは楽しみだな」


 当然といえば当然なのだが、アレスが娘の言葉に真に受けた様子は欠片もない。あくまで幼子の発言として受け取り、調子を合わせているみたいだ。


 だが、レナータは人類の守り神の記憶や人格を継承した存在とはいえ、まだ五歳の女の子だ。アレスの返事に、ぱあっと目を歓喜に輝かせ、目の前にいる十二歳の少年の首にぎゅっと抱きついた。


「やったあ! アレス、約束だよ! 私が大きくなるまで、ちゃんと待っててね!」


「はいはい」


 明らかに適当な相槌であるにも関わらず、娘にはそれでも充分だったらしい。薔薇色に染まった頬を、これ以上ないくらいに幸せそうに緩め、アレスの首にぎゅうぎゅうと抱きついている。


「レ……レナータ? お、お父さんは?」


 この感情が、父親としての本物の愛情によるものなのか、それとも罪悪感を否定するための偽りのものであるのか、オリヴァー自身にもよく分からない。


 しかし、アレスと娘のやり取りを見せつけられ、ショックを受けているのは確かだ。


 オリヴァーがおそるおそるそう問いかければ、レナータはアレスにしがみついたまま、こちらへと振り向き、驚いたように目を丸くしている。アレスは呆れたように、半眼でオリヴァーを見遣っていた。


 翡翠の眼差しがオリヴァーへとまっすぐに注がれたかと思えば、やがて娘は力なく首を横に振った。


「……お父さん、今もおじさんなのに、私が大きくなったら、もっとおじさんになってるでしょ? 私、おじさんと結婚はやだなぁ……」


 心底嫌そうに放たれた言葉が、心の柔らかい部分を深く抉っていく。


 このくらいの年頃の女の子ならば、「大きくなったら、お父さんのお嫁さんになる!」と言い出してもおかしくはないのに、オリヴァーの娘は実に現実的な思考の持ち主だ。これも、人工知能としての記憶や人格が影響を及ぼした結果なのだろうか。あるいは、娘の元々の性格によるものなのだろうか。


 レナータの無慈悲な答えに、口を開けて茫然としていたら、アレスが突然勢いよくこちらから顔を背けた。


 でも、アレスが必死に噴き出すのを堪えている顔を、オリヴァーは見逃さなかった。その上、こちらから顔を背けていようとも、その肩が小刻みに震えている様は、はっきりと見て取れる。


「アレス、どうしたの?」


 レナータがオリヴァーからアレスへと視線を移し、不思議そうに小首を傾げても、返事はない。すると、娘はアレスから手を放し、顔を覗き込むために駆け足で回り込んだ。


 だが、娘が正面に回り込もうとした矢先、アレスは花畑に腰を下ろしたまま、くるりと素早く身体の向きを変えた。おかげで、オリヴァーの視界にアレスの顔が映る。


 アレスは片手で口を覆い隠していたものの、案の定、声を押し殺して笑っていた。

 アレスに背を向けられ、レナータは不満そうにむうっと唇を尖らせているが、理由は違えども、オリヴァーだって似たような心境だ。


 レナータがきりっと表情を引き締めたかと思えば、もう一度アレスの前に回り込もうと、果敢に挑戦する。しかし、アレスにあっさりと躱されてしまい、娘の奮闘は空振りになってしまった。


 それでも、娘に諦める気配は砂粒ほどにもない。幾度も幾度も、挑戦を繰り返す。アレスの周りを、くるくると走り回る。


 やがて、これではいつまで経ってもらちが明かないと判断したのか、急に娘はぴたりと動きを止めた。そして、何を思ったのか、アレスに向かって突進し、弾むような動きで飛びかかった。すると、ちょうどレナータへと身体を向けたアレスの胸に飛び込む形になり、そのまましっかりと娘の小さな身体は受け止められた。


 アレスの腕の中にすっぽりと納まった娘は顔を上げると、得意げに言い放つ。


「……アレス、捕まえた! やっと、アレスの顔、見られたよ」


 どこからどう見ても、レナータが捕まえられているようにしか思えないのだが、娘としては自分がアレスを捕まえたつもりみたいだ。アレスの背に腕を回し、ひしっとしがみついている。


「はいはい。捕まった、捕まった」


 アレスの返答は相変わらず適当に聞こえるものの、レナータに向けられている琥珀の眼差しは、どこまでも優しい。オリヴァーたちと一緒に暮らし始めたばかりの頃は、表情に乏しい少年だったというのに、レナータと過ごす時間を積み重ねていけばいくほど、柔らかい表情を見せるようになってきた。


 顔を見合わせた二人は、屈託なく笑い合う。


 レナータは天真爛漫な娘だが、両親の前ではあそこまで無邪気に振る舞わない。常に親の顔色を窺い、求められている言動を自然と取る。世の親たちが羨むような、理想の「いい子」を体現してみせる。


 でも、アレスと二人でいる時は、自然体でいるのだ。歳相応の子供らしく、ありのままの自分を遠慮なく曝け出している。今が、まさにそうだ。


 再び、幸せに満ち満ちた光景を見せつけられた刹那、胸の奥が鈍い痛みを訴えてきた。


(もし――)


 もしオリヴァーが、エリーゼやアレスみたいな我の強さと行動力を持ち合わせていれば、あの光景に何の躊躇いもなく混ざることができたのだろうか。あるいは、穏やかな気持ちで見守ることができたのだろうか。


 だが、どれだけ仮定をしてみたところで、目の前の現実を覆すことはできなかった。



   ***



 ――その日の晩。

 オリヴァーが就寝前の読書の時間を楽しんでいたら、不意に夫婦の寝室のドアをノックする音が耳朶を打った。


 この部屋の使用者であるエリーゼは当然、ドアをノックしたりしない。何より、つい先程浴室に向かったばかりだ。


 アレスだろうかと思いつつ、腰かけていたベッドから立ち上がってドアを開ければ、そこにはパジャマ姿のレナータがぽつんと立っていた。


「レナータ、こんな時間にどうしたんだい? もう、寝る時間だろう?」


 レナータは現在、両親とは一緒に寝ない。一人で眠る日とアレスと共に寝る日を、一日交替で繰り返している。


 だから、娘が両親の寝室を訪ねてきた理由が分からず、目を白黒させていると、翡翠の大きな瞳がオリヴァーをじっと見上げてきた。その眼差しはあまりにも澄み渡り、年齢に似つかわしくない聡明さを感じさせた。


「……あのね、お父さんに訊きたいことがあって、来たの」


「うん? 何だい?」


「お父さん……何か、悩み事でもあるの?」


 何の飾り気もない、素朴な言葉で疑問を投げかけられ、咄嗟に息を呑む。

 声が喉の奥で絡み、何も答えられずにいるオリヴァーを見つめたまま、娘は表情を曇らせた。


「今日のお父さん、しょっちゅう考え事してるみたいだったから。それに、辛そうな顔もしてたし……。何か悩み事があるなら、お母さんに 話してみた方がいいよ。話すだけでも、楽になることはあるから」


 娘は心の底から父を案じているらしく、懸命に言い募ってくる。

 しかし、それでも返事ができずにいたら、娘は何か察したのか、どこか悲しそうな面持ちで小首を傾げた。


「もしかして……お母さんに言ったら、お母さんの機嫌が悪くなるようなことで悩んでたの?」


 言い淀む父の様子から、何に思い悩んでいるのか、ある程度見抜いてしまったのかもしれない。娘の、恐ろしく的確な指摘に、余計にぐっと言葉に詰まる。すると、レナータの形のよい眉がますます悲しそうに垂れ下がった。


「お父さん――」


 尚も言葉を続けようとした娘に、はっと正気に引き戻される。


 このまま黙っていては、レナータに心配ばかりかけてしまう。年端もいかない娘に、ここまで心配されておいて今さらだが、これ以上みっともないところを晒してしまったら、父親として情けない。


 娘と目線を合わせるためにしゃがみ込み、不安そうに揺れる翡翠の瞳を見つめ返す。


「……レナータに心配かけちゃって、ごめんね。でも、レナータがそんなに心配しなくても、大丈夫だよ。ただ……お父さんが、お母さんやアレスみたいに強ければよかったって、考えてただけだから。それだけ、だから」


 考え込んでいた内容はそれだけではないが、嘘でもない。


 ――本当に、何故自分はこんなにも弱いのだろう。もっと強ければ、何かを変えることができたのだろうか。


 ぎこちない笑みを浮かべてそう告げると、眼前にある翡翠の瞳がゆっくりと瞬いた。そして、レナータが手を伸ばしたかと思えば、そっとオリヴァーの頭に触れてきた。


 驚きに目を見張るオリヴァーに構わず、小さな手がそのまま優しく頭を撫でていく。


 その仕草は本当に優しく、慈愛に満ち溢れ――不思議と、許されたような心地にさせられる。


 オリヴァーを見つめる娘の、少しふっくらとした柔らかそうな唇に、ふとたおやかな微笑みが浮かぶ。


「――お父さんみたいな人も、世の中には必要だよ」


 ――娘の唇から零れ落ちた、透明感のある柔らかい声は、まるで恵みの雨が降り注ぎ、乾いた大地を癒すかのような錯覚をもたらした。


「お母さんやアレスみたいな人ばっかりだったら、みんな、喧嘩になっちゃうよ。お父さんみたいに、周りに合わせたり、相手を思いやることができる人がいなきゃ、困っちゃうよ」


 鼓膜にじんわりと浸透していく娘の言葉を拒絶するかのごとく、思わず頭を振る。


(……違う、違うんだ)


 周囲の人間の意見に結果的に追随してしまうのは、オリヴァーには譲れない信念がないからだ。主体性に欠けているから、いつも我が強い人に負けてしまうだけなのだ。


 相手を思いやれる、優しい人間というわけでもない。ただ弱いだけなのだ。


「……でも、お父さんみたいな人って、周りに振り回されて、損な役回りを押しつけられちゃうことも多いから、嫌になっちゃう時もあるよね」


 不意に、娘の微笑みに一滴の苦みが混ざっていく。五歳の女の子らしからぬ思考や言い回し、それから表情に、虚を突かれる。


「そういう時はね、お父さん。怒ってもいいんだよ。我慢することや諦めることが当たり前になると、だんだん何も感じなくなっちゃうんだよ」


 それは――かつて、人類の守り神と謳われていた人工知能の、経験から来る忠告なのだろうか。


「だから、お父さん。怒りたい時は、怒って。泣きたい時は、泣いて。それでね――」


 苦笑いを解いた娘は、今度は天真爛漫な笑顔を見せた。


「――たくさん、笑って欲しいな。私、お父さんのことが大好きだから」

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