最愛の娘、あるいは罪の象徴 後編

 ――その言葉を耳にしたら、もう駄目だった。


 喉の奥から熱いものが込み上げてきて、絡まりもつれていたはずの声が、今にも溢れ出しそうになる。目頭も熱を帯びていき、あっと思う間もなく、視界が歪んでいく。


 今、間違いなく、娘に見苦しい顔を晒している。

 そう認識するや否や、これ以上無様な姿を見せたくなくて、娘の小さな身体を咄嗟に抱き寄せていた。


 オリヴァーの腕にすっぽりと納まった娘の身体は、ほんの少しでも力を込めれば、壊れてしまうのではないかと思うほど、本当に小さくて繊細な造りをしている。悪意を持った人間の手にかかれば、ひとたまりもないだろう。


(……僕は、本当に駄目だなあ……)


 こんなにも幼く、まだまだ庇護を必要とする女の子に、夫婦揃って何を甘えていたのか。これでは、レナータにアレスとは異なる態度を取られても、文句は言えない。


 震える吐息と共に、一滴の涙が目尻から零れ落ちていく。


 せめて、娘に泣いていることを気取られぬよう、目の縁に溜まっていた涙を片手で乱暴に拭い、瞬きを繰り返す。

 それから、こっそりと深呼吸をしてから、口を開く。


「……ありがとう、レナータ」


 こんな、どうしようもない父親を、何のてらいもなく大好きだと言ってくれた娘のために、オリヴァーには何ができるのだろう。


 今すぐには、答えは見つからない。でも、探し出すための努力をおこたらずに続けていきたい。それが、オリヴァーが娘に差し出せる、せめてもの誠意だ。


「僕の娘になってくれて本当に、ありがとう」


 レナータに向ける愛情は、罪悪感の上に成り立つ偽物なのかもしれない。本物の親としての愛情には、もしかしたらこれから先もなり得ないのかもしれない。

 だが、この感謝の念だけは、紛れもなく本物だ。


 そう礼を告げた途端、娘の身体がぴくりと揺れた。そして、オリヴァーのパジャマをきゅっと掴むと、全身が震え出した。そんな娘の背を、涙を拭い去った手であやすように拍子をつけて叩く。


 オリヴァーたちは、歪な親子だ。

 しかし、だからこそ願わずにはいられない。


 ――人間の業によってこの世界に産まれてきた、優しくて可哀想なこの子が、どうか愛によって生かされますように。


 でも、ただ願うだけで終わらせるつもりはない。オリヴァーが望む未来を娘が掴み取れるよう、できる限りの手は尽くすつもりだ。そう何度も、後悔を味わいたくない。


 オリヴァーは相変わらず、弱くて救いようのない人間だ。理想の父親になんて、きっとなれやしない。


 だが、せめて足掻あがき続けたい。少しでも娘のために、何か価値あるものを残したい。


 ずっと周囲の人間や環境に流されて生きてきたオリヴァーの胸に、ようやく決意めいたものが芽生えた瞬間だった。



    ***



 ――あれから少し時が流れ、レナータが八歳の誕生日を迎える前夜、オリヴァーは寝静まった家の中を忍び足で歩いていた。


 目的地である、緊急事態が発生した時のための荷物置き場へと足を運ぶと、アレスの荷物に小型の記憶媒体をそっと忍び込ませる。


 娘のために自分には何ができるのかと考え始めてから、オリヴァーはまず、自分たちが置かれている状況を改めて把握することに専念した。


 その結果、戦闘に適した脳に改造され、限界まで肉体を強化された父親を持つ、アレスに可能な限りの知識や技術を叩き込むことにしたのだ。


 結局、他力本願なのかと、嘲笑われるかもしれない。

 しかし、極力主観を排除し、冷静に状況を分析した末、年齢的にも能力的にも、娘を庇護する上でアレスが最適な人材だと判断したのだ。


 エリーゼ、オリヴァー、アレスの三人の中で、最も多くの知識と技術を有しているのは、エリーゼだ。


 でも、アレスと比べると、身体能力の面では著しく劣る。そちらの方面の素質に恵まれているわけではない上、年齢を考えれば、これからますます身体機能が劣っていくのだから、努力で補えるとは到底思えない。


 オリヴァーに至っては、選択肢に入れることすら、おこがましいくらいだ。


 そして何より、三人の中で最もアレスがレナータからの信頼を勝ち得ているのだ。

 しかも、二人の仲はいつまで経っても良好なままだ。余程のことがない限り、二人の信頼関係と絆は壊れたりしないだろう。


 だからオリヴァーは、娘と共に自身の想いを、アレスに託すと決めたのだ。そのために、オリヴァーの音声を記録した記憶媒体を、二年前からアレスの避難時の荷物に忍び込ませるようになった。


 去年、一昨年と、何事もなく無事に一年が過ぎ去っていった。だから、一年前に録音した音声データは削除し、新しい音声データを記憶媒体に吹き込むという作業を行ったのは、今年で二度目だ。


(今年も、無事に何事もなく終わって欲しいけど……)


 この幸運がいつまで続くのか、オリヴァーには皆目見当がつかない。だが少なくとも、永遠には続かないだろう。


 どうか来年もまた、この作業に取りかかれるようにと祈りながら、寝室へと引き返していった。



    ***



『――だから、アレス。どうか……どうか、レナータを頼む』


 ――二十四歳になったアレスは、もう幾度目になるか数えきれなくなるほど聞いてきた、切実な響きを帯びたオリヴァーの音声データに耳を傾けていた。


 自分の荷物の中に、見覚えのない記憶媒体を発見したのは、スラム街で居を構えてすぐのことだった。


 少しでも早く、できるだけ住み心地のいい空間を作ろうと、レナータと二人でせっせと荷物の整理をしていた際、その存在に気づいたのだ。


 十中八九、エリーゼかオリヴァーが用意したものに違いないとは思ったが、その中身をレナータに聞かせてもいいものかどうか、見ただけでは判断がつかなかった。


 だから念のため、レナータが寝入ってから、一人で中身を確認したのだが、やはりアレスに宛てたメッセージだった。


 オリヴァーの弱さも苦悩も葛藤も、正直なところ、アレスにはよく分からない。いいことなのか、悪いことなのか、人によって受け取り方は様々だろうが、アレスは自分の人生において、迷うという経験をあまりしたことがない。良くも悪くも、自分がやりたいようにやってきた。 だから、オリヴァーの気持ち全てに共感を覚えることは、アレスには不可能だ。


 しかし、オリヴァーの娘への愛情は、本人がどう捉えていようとも、本物ではないかと思う。そして、その想いだけはアレスにも理解できた。


『……アレスとレナータは、今も仲良しなのかな?』


 自室のベッドの上で寝転がりつつ、ワイヤレスイヤホンを通して記憶媒体から流れてくる音声データをぼんやりと聞いていたら、唐突にオリヴァーの問いが耳朶を打つ。


『もし……もしも、アレスもレナータも大人になって、恋人として付き合うことになったり、け、結婚して家庭を持つことになったとしても……僕は、心から祝福するよ。ただ……その代わり――』


 すうっと深く息を吸い込む音が、鼓膜を震わせる。その先で、何を言われるのか熟知しているアレスは、つい深々と溜息を吐く。


『レ、レナータが成人するまでは……十八歳になるまでは……絶対に、手を出さないでくれえええええええええええええ!』


 涙交じりの絶叫が鼓膜を貫いたところで、音声データはぷつっと途切れた。


(最後に言うことが、それかよ……)


 途中までは割といい感じの話だったのに、締めくくりがこれでは台無しだ。その上、はなすするような音までしっかりと録音されているということは、自分から言い出しておきながら、おそらくオリヴァーは本気で泣いていたのだろう。


 再度、溜息を零してからイヤホンを外すと、まるでタイミングを見計らったかのように、自室のドアをノックする音が聞こえてきた。


「アレスー、お風呂上がったよー」


「ん」


 のろのろとベッドから起き上がり、着替えを手にドアを開けるなり、もこもことした、着心地のよさそうなパステルピンクのルームウェアを身に纏った、レナータの姿が視界に入った。


 このルームウェアは、第三エリアに移住してから購入したものだ。スラム街では、こういう手入れに注意を払わなければならない衣類は、滅多に見かけなかった。


 だから、第三エリアでこのルームウェアを見つけたレナータは、その見た目の可愛らしさと生地の触り心地のよさに憧れを抱いたらしく、給料を溜めて買ってきて、アレスに見せびらかしてきたのだ。


 別に、家の中ならば、レナータがどんな格好をしていても、アレスとしては基本的に構わない。見せられた時も、レナータが意気揚々と買ってきたものならば、大切に手入れし、少しでも長く着られればいいとさえ思っていた。


 でも、実際にレナータが身に着けてみて初めて気づいたのだが、一応冬用のルームウェアのはずなのに、ボトムスの丈が異様に短いのだ。


 年頃の娘を持つ父親みたいに、口うるさく言うつもりはないものの、剥き出しの生足に自然と視線が吸い寄せられては、眉根を寄せてしまう。


 湯上りであるため、上気してうっすらと色づいている肌も、濡れているように見えるほど瑞々しい唇も、まばゆいばかりの艶を放つダークブロンドも全て、そこはかとなく漂う色香に拍車をかけている。


 だが、先刻のオリヴァーの懇願する声を思い出せば、自然と疼いていた欲望がすっと鎮まっていく。


(だから、時々あれを聞くんだよな……)


 オリヴァーが必死に哀願してくるあの音声データは、アレスの情欲に対する鎮静剤みたいな作用を遺憾なく発揮している。だから、自分を戒めるために、自主的に時々聞くようにしているのだ。


「アレス?」


 しかめっ面をして、いつまでもその場に突っ立っているアレスを、レナータが不思議そうに見上げてくる。


「何でもねえよ、風呂入ってくる」


「うん、いってらっしゃい」


 ぽんと軽くレナータの頭を叩けば、ひらひらと手を振って送り出された。アレスも手を振り返し、レナータに背を向けて浴室へと向かう。


(……レナータが成人するまでは、最後の一線は越えねえよ)


 オリヴァーの頼みを聞き入れるのであれば、たとえ布越しとはいえ、レナータの肌に触れるような真似はするべきではないのかもしれない。


 しかし、オリヴァーは「手を出すな」としか訴えていない。具体的に、どこまでならば許容するのか、どこからは禁止事項に入るのか、明確に線引きされていない。

 だから、その辺りはアレスの判断に任せてもらおう。


 これでも、アレスにしてはかなり自重している方なのだ。レナータの意思だって、尊重しているのだから、卑怯だと糾弾される謂れはない。


 ――この時、 密やかに笑みの形に歪められた、薄く形のよい唇を、誰も知らない。

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