少年の心、女神知らず
「――レナータって、本当に人間にしか見えない」
――街に下りたレナータと初めてのデートをしてから、数週間後。
今日はいつにも増して日差しが強く、気温も驚くほど高い。外で遊んで熱中症や日射病になったら大変だからと、ひんやりとした空気が心地よい大聖堂の中で、レナータと一緒に過ごしていた。
長椅子に並んで腰かけているレナータの腕にぺたぺたと触りながら、感心してそう告げると、透明感のある柔らかい声が耳朶を打つ。
「人間に見えるように、人間の皮膚に近い素材を使ってるからね。見た目だけじゃなくて、質感にもこだわったらしいよ」
「それに、あったかい」
「コンピュータって、作動してる間は熱を出すから。それと同じ原理だよ」
「……じゃあ、人間みたいに熱が高くなることもあるのか?」
「オーバーヒートしないように、一応システムが組み込まれてるから、大丈夫だよ。夜、寝てる間に熱を冷ましてるし。それでも、高くなり そうな時は、ちゃんと生体コンピュータが警告を出してくれるから、それに従って応急処置をするなり、いっそ寝ちゃったりするの」
なるほど、レナータにとっての睡眠とは、ただ休息を意味するだけではなく、全身を冷却するために必要なことであるらしい。
レナータの剥き出しの腕から手を放し、改めてマリンブルーの瞳を見つめる。
先程も口にした通り、レナータからはロボットらしさが全く見受けられない。本当に、どうやったらこんなにも人間そっくりのロボットが造れるのだろう。
アレスの家にある家事代行アンドロイドも、少しでも人間に近い外見になるよう、特殊な素材が使われている。
だが、レナータほど人間らしくない。やはり表情の豊かさが、両者の間に決定的な違いを生んでいるのだろう。
内心うんうんと頷いていたら、ふと別の疑問が湧き上がってきた。
「そういえば、レナータには心臓があるのか?」
「えっとね、人間の心臓と同じ役割を持つ、動力源っていうパーツなら、あるよ。ちょうど、位置も心臓と同じだね。――ほら」
確かに、家事代行アンドロイドにも動力源が内蔵されていたと、ぼんやりと考えていたら、不意にレナータに手首を掴まれた。それから、アレスが反応する間もなく、レナータの胸へと手が導かれた。
「ね? ちゃんと、人間みたいにどくんどくんって、動いてるでしょ?」
レナータが小首を傾げてそう話しかけてくるが、正直、今のアレスはそれどころではない。
レナータの言う通り、布越しでも分かるほど、手のひらに脈打つ鼓動が伝わってくる。心臓と錯覚してしまいそうなくらい、レナータの体内に組み込まれている動力源は、力強く機能している。
しかし、それ以上に、レナータの胸の、指先が沈み込みそうなくらいふわふわとした柔らかな感触や、アレスの手のひらを程よく押し返してくる弾力に、雷に打たれたかのごとき衝撃を受けていた。あまりじろじろと見るものではないと、頭では理解しているのに、思わずアレスの目の前にある胸を凝視してしまう。
でも、次第に驚愕よりも羞恥が込み上げてきて、じわじわと頬に熱が上ってきた。手を放そうにも、レナータにしっかりと手首を掴まれているため、手が放せない。
おそるおそる視線を上げれば、にこにこと能天気に笑っているレナータと目が合った。
「ね? こういうところも、人間みたいでしょ?」
レナータの純真無垢な笑顔を目の当たりにした途端、
(レナータって……)
レナータにとっては、これもまた高性能なバイオノイドへの造詣を深める勉強の一環という認識に違いない。だから、何の躊躇いもなく自身の胸をアレスに触れさせたのだろう。
だが、相手が大人の男性だったならば、さすがにここまでしなかったのではないか。アレスが子供だから、こういうことをしても何の問題もないと考えているのは、レナータの顔を見れば、すぐに分かる。
そこまで思い至った瞬間、ふつふつと怒りが腹の底から湧き上がってきた。普段は可愛いとしか思わないレナータの笑顔も、今ではただひたすらに憎たらしい。
「アレス?」
アレスが、急に黙り込んでしまったからだろう。レナータが不思議そうに、アレスの顔を覗き込んでくる。
しかし、そこで我慢の限界を迎え、眼前に迫るマリンブルーの双眸をキッと睨み据える。
「――レナータの、馬鹿!」
本当はもっと悪し様にレナータを罵りたかったのに、咄嗟に出てきた言葉は、いかにも子供じみたものだった。
その事実が、ますますアレスの怒りを煽り、ぽかんと呆気に取られているレナータの手を振り解くと、一目散に大聖堂の外へと駆け出していった。
***
――最初は、アレスが何をそんなに怒っているのか、微塵も理解できなかった。
レナータとしては、幼いアレスにも分かりやすいように、このボディの造りを教えただけだ。そこに、アレスの怒りを掻き立てる要素は、一切存在しないように思えた。
でも、レナータなりにアレスの態度を分析し、思考を巡らせているうちに、自分が犯した失態にようやく気づくことができた。
(そっかあ……五歳の男の子は、もうそういうことに興味を持つ年頃になるのかあ……)
今まで、ろくに幼子と接した経験がなかったことが、仇になったみたいだ。額に手を当て、座ったまま項垂れる。
(えええ……でも、さっきは普通に私の腕をぺたぺたと触ってたじゃない……)
それとこれとでは、話が違うのだろうか。
(人間の男の子って、本当によく分かんない……)
レナータが人間ではないから、理解が難しいのだろうか。性別を女性に設定されているから、長年ディープラーニングを続けていても、理解が及ばないところがあっても、仕方がないのだろうか。
だが、そこまで考えたところで、アレスがこの炎天下の中、外に飛び出していったことを、はっと思い出す。
「アレスの、馬鹿……!」
レナータに怒りを覚えたことは、別に構わない。しかし、今日は熱中症になる危険性があるから、屋内で遊ぶように言い含めたのに、その言いつけを破ったことは許せない。レナータへの当てつけだとしても、自らの命を危険に晒すような真似をするなんて、見過ごすわけにはいかない。
急いで長椅子から腰を上げるなり、猛然とアレスの後を追いかけた。
***
「――アレスー? どこー? 私の声が聞こえてるなら、返事しなさーい!」
口の脇に両手を添え、大声で呼びかけつつアレスを捜し続けて、どれほどの時間が経ったのだろう。
それほど時間は過ぎていないはずだが、じりじりと肌を
レナータは人間ではないから、汗はかかない。その代わり、ボディに内蔵されているコンピュータの部品の数々が過度な熱を帯びないよう、外気温が高い時は全身の至るところから冷却水が滲み出てくる仕組みになっている。そうやって、外部から内部の機械を冷やそうという算段なのだ。だから結局、今のレナータは、汗だくになっている人間とほぼ同じ状態に陥っている。
(アレス、どこに行っちゃったんだろ……)
頬を伝い落ち、顎を滴る水滴を片手の甲でぐいっと拭いながら一旦立ち止まり、周囲に視線を走らせる。
一応、これまでアレスと遊んだことがある場所を重点的に捜索しているのだが、未だに探し人の姿は見つからない。
(まさか、どこかで倒れてたりしないよね……?)
その可能性は、十二分にある。もし、大人の目が届かないところで倒れていたらと考えただけで、レナータは汗をかかないはずなのに、冷や汗をかきそうだ。
急いでアレスを見つけなければと、止めていた足を一歩前へと踏み出した直後、くらりと眩暈を覚えた。
『警告、警告。生体コンピュータ内の熱が、許容範囲を超えた温度に到達しようとしています。ただちに、生体コンピュータの熱を放熱して ください。繰り返します。警告、警告――』
生体コンピュータ自身からこの警告メッセージは発されているため、頭にがんがんと響く。視界に異常が生じた時点で、嫌な予感は覚えていたものの、実際にメッセージを受信すると、苦い気持ちが込み上げてくる。
(とりあえず、一旦日陰に移動しよう……)
機械は、直射日光が当たる場所に置いておくと、熱を持ちやすくなる。だから、ひとまず日光を遮断できる場所へと、よろよろと避難する。
アレスとも遊んだことがある、大きな木の下に入り、腰を下ろして膝を抱えていたら、絶えず生体コンピュータ内で鳴り響いていた警告音が、やがて途絶えた。すると、今まで生体コンピュータが忙しない反応を起こしていた反動なのか、収束した後に訪れた静寂が、より際立って感じられる。
(……うん。これで、しばらくは大丈夫かな)
アレスに説明したばかりの応急処置を、まさかこんなにもすぐに行う羽目になるとは、夢にも思わなかった。
できることならば、今すぐにでもアレスの捜索を再開したいところだが、まだ木陰で大人しくしておいた方がいいだろう。下手に動いて、もう一度警告メッセージが流れ出したら、馬鹿みたいだ。
「……アレスー、出てきてよー……」
膝を抱え込んで座った状態のまま出てきた声は、想像以上に情けなく聞こえた。 涙が出てくる気配は欠片もないが、気分的には泣きたい。
抱えた膝に顔を埋め、その場でじっとしていたら、突然近くで微かな物音が聞こえてきた。
慌てて顔を上げ、音の発生源へと振り返れば、そこにはぶすっと不貞腐れた顔をしたアレスが立っていた。
「アレス!」
勢いよく立ち上がり、アレスの元へと走り寄ると、目線を合わせるためにしゃがみ込む。
アレスの顔を覗き込んでみたものの、目の焦点は定まっているし、頬が異様なほど赤く染まっていることもなかった。試しに、アレスの頬に触れてみたが、平熱と呼んで差し支えのないぬくもりだけが指先に伝わってくる。
汗はかいているものの、この暑さならば、当然の生理現象だ。むしろ、汗をかかないと、体内に熱が溜まってしまう。
どうやら、熱中症にも日射病にもなっていないらしいと悟り、ほっと安堵の吐息を漏らす。
でも即座に、ここは厳しく叱っておかなければならないと、気を引き締め直す。
「アレス、あのね――」
「……レナータ、反省した?」
きりっと表情を引き締め、アレスの軽率な行動に注意を促そうとしたら、幼いながらに美しい声に言葉を遮られてしまった。
「した?」
アレスは拗ねたような面持ちのまま、再び問いを投げかけてきた。
アレスの様子から察するに、きちんと答えなければ、レナータの話に耳を傾けてくれなさそうだ。
だから、とりあえずここは一度、アレスの質問に答えた方がいいだろうと判断し、重々しく頷いてみせる。
「……はい、反省しました。ごめんなさい」
「もう、ああいうことしない?」
「しないって、約束します」
それはこちらの台詞だと言いたい気持ちをぐっと堪えつつ、真面目に答えれば、アレスのきつく寄せられていた眉根が、ふっと緩められた。
「……なら、いい」
「はい。――それでね、アレス。確かに、あれは私が悪かったけど、こんなに暑い中、外に飛び出したアレスも悪いよ? 今回は何事もなかったからよかったけど、具合が悪くなって倒れちゃっても、不思議じゃなかったんだから」
本当にそうなっていたら、アレスの身体が心配だし、母親であるミナーヴァにも申し訳が立たない。監督不行き届きもいいところだ。
「だから、アレス。これからは、こういうことをしないって、アレスも約束できる? もし、できないようだったら私、夏の間はここに来ちゃ駄目って、アレスに言わなきゃいけなくなっちゃうよ」
よく言い聞かせるように語りかければ、琥珀の瞳がはっと見開かれた。そして、気まずそうにアレスの視線がレナータから逸れる。
「……ごめんなさい」
「うん。それで、アレス。約束はできそうかな?」
自分が悪いと思ったら、素直に謝罪ができるのは、アレスのいいところだ。
自然と柔らかくなった口調で問いを重ねれば、レナータに視線を戻したアレスは、大きく首を縦に振った。
「うん、約束する」
「よし! アレスは、いい子だねー」
目元を緩め、アレスに向かって手を伸ばすと、濡れ羽色の髪に覆われた小さな頭をそっと撫でる。汗をかいたからか、いつもよりも水分が含まれているように、触れた指先から感じられる。だが、不思議と不快だとは思わなかった。
思う存分アレスの頭を撫で回してから手を引っ込めると、にっこりと笑いかける。
「二人とも、ちゃんと謝ったことだし……これで、仲直りだね」
「うん」
「それじゃあ、大聖堂の中に戻ろっか。そうしたら汗を拭いて、冷たい飲み物を用意してあげる」
今のところ、アレスは体調を崩していないみたいだが、このまま放っておいたら、どうなるか分からない。ひとまず、汗に濡れた身体の不快感を払拭し、水分補給をさせる必要があるだろう。
レナータが腰を上げようとした矢先、アレスがおずおずと上目遣いで見つめてきた。
「……レナータ」
「ん?」
「ぎゅって、して」
そう言いながら、アレスはレナータに向かって手を伸ばしてきた。
もしかしたら、珍しくレナータに叱られ、思っていた以上に落ち込んでいるのかもしれない。そこまできつく言った覚えはないのだが、ここまでしおらしい姿を見せられると、少しだけならば、甘やかしてもいいかもしれないと思ってしまう。
「……しょうがないなあ、ちょっとだけだよ?」
苦笑いを浮かべつつも、アレスの望み通り、ぎゅっと抱きしめる。すると、アレスがレナータの首筋に鼻を埋め、頬を擦り寄せてきた。
(……アレスは、甘えん坊さんだなあ)
しかし、今はこうやってレナータに甘えてきても、いつか自然と離れていく時が訪れるに違いない。それか、レナータがこの世界から消え去る時の方が先に来るのだろうか。
そう考えたら、胸に鋭い痛みが走ったものの、気づかないふりをしながら、再度アレスの頭に手を伸ばして優しく撫でた。
悠久の少女 小鈴莉子 @Kosuzu-Riko
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