番外編

最愛の娘、あるいは罪の象徴 前編

 ――オリヴァー=ベルンシュタインという男は、本当にどこにでもいるような、平凡な男だった。


 楽園という、特権階級の人間しか居住権を与えられないエリアで暮らしていたものの、楽園内では平均的な家庭に生まれた。そして、オリヴァー自身も、特別人より劣っているところはないが、特別人より秀でているわけでもなかった。


 だが、一体何の因果なのだろう。オリヴァーは物心がついた頃に、楽園における最高権力者の一人娘の許嫁として、遺伝子によって選ばれた。


 楽園の中では、ありふれた話だ。楽園内では、遺伝子によって選ばれた相手と婚姻を結ぶのが通例であり、恋愛結婚など以ての外だ。


 しかし、オリヴァーの場合、相手が相手だ。両親からは、幼い頃から、オリヴァーの将来の結婚相手である、エリーゼ=アードラーに少しでも恥をかかせないように努力しなさいと、散々言い聞かせられて育った。周囲は、常にオリヴァーを値踏みするような目で見ていた。


 その結果、分かったことがある。

 オリヴァー=ベルンシュタインという人間は、エリーゼ=アードラーの隣に並び立つのに、相応しい人間ではない。


 そう判断したのは、なにもオリヴァー自身だけではない。周りも、表立って口に出すことこそなかったものの、そう考えているのは何となく雰囲気で分かった。


 でも、オリヴァーは何故かエリーゼの母親であるアマーリエに気に入られていた。しかも、オリヴァーのどこがいいのか知らないが、エリーゼからはいつしか恋心を寄せられるようになっていた。アードラー一族がそんな調子だからか、周囲もエリーゼとオリヴァーという組み合わせを、次第に認める空気が出来上がっていったのだ。


 だから、オリヴァーは自分自身に誓ったのだ。


 こんな自分でも誰かに求められているのならば、その想いに報いるためにも、努力を続けよう。こんな自分に恋をしてくれたエリーゼに、誠実であろう。それはなにも、そんなに難しいことではないはずだ。


 ――そう、信じて疑いもしなかった。



    ***



 ――オリヴァーの眼前には、幸福を絵に描いたような光景が広がっていた。


 色とりどりの花々が咲き乱れる花畑に、一人の少年と幼い少女が座り込んでいる。少年は器用な手つきで花冠を編んでいき、少女はその様子を食い入るように見つめている。


 やがて、多種多様な花々で作られた花冠が完成すると、少女の大きな翡翠の双眸が、きらきらと輝く。そして、少年が恭しい手つきでダークブロンドに覆われた小さな頭に花冠を乗せれば、耳に心地よい軽やかな歓声が、少しふっくらとした柔らかそうな唇から零れ落ちてきた。


「――アレス、ありがとう! ねえねえ、今の私、お姫様みたいかな?」


 少女――オリヴァーの娘であるレナータはおもむろに立ち上がると、その場でくるりと一回転した。すると、スカイブルーのワンピースの裾が、ふわりと揺れる。


「ああ、そうだな」


 琥珀の瞳を穏やかに細めてアレスが頷けば、レナータの笑顔は一段と輝きを増していく。


「えへへ……それにしても、アレス。アレスはやっぱり、手先が器用だね。しかも、昔、私が教えた時よりも、上手に花冠作れるようになってるし」


「上手く作れたら、どこぞのお姫様がたくさん褒めてくれるからな。やりがいがあれば、自然と上達するだろ」


「褒めちゃうよ! 私、アレスが好きなだけ褒めちゃうよ!」


 ――だが、唐突に聞こえてきた言葉たちが、油断だらけだった胸に容赦なく突き刺さっていく。そして、不可視の血と共に、罪悪感がどろりと流れ出す。


 娘もアレスも、どこまでも無邪気に会話を続けていく。そこには、憂いも罪の意識も、微塵も見受けられない。ただただ、目の前にいる相手と一緒にいられる幸せだけが、こちらにまで伝わってくる。


 しかし、オリヴァーは気づけば、娘たちから目を背けていた。震えそうになる息を何度も飲み下し、痛む胸に気づかないふりをしながら、ゆっくりと吐息を零す。


 そう――オリヴァーの娘は、普通の子供ではない。その脳に、かつて人類の守り神と呼ばれた人工知能の記憶と人格データを移植された、特異な存在だ。


 妻が、自らの娘の脳に人工知能のデータを植え付けると初めて言い張った時から、オリヴァーはずっと反対し続けた。あんなにも互いに声を荒げて口論をしたのは、後にも先にもあの時期だけだ。


 でも、ある時を境に、エリーゼは一応オリヴァーの言い分を受け入れる姿勢を見せた。そして、それ以降は、科学の力によって成り立つ、人類の守り神の生まれ変わりについて、一切口にしなくなった。


 だから、オリヴァーはエリーゼが納得してくれたのだと、心の底から安堵した。

 きっと、妻はようやく母としての自覚を持ってくれたのだろう。自分の子供に何をしようとしていたのか、理解してくれたに違いない。


 だが、その考えはオリヴァーの思い込みに過ぎなかったのだと、娘が産まれた直後に思い知らされた。


 エリーゼは無事出産を果たして間もなく、周囲の目を盗んであらかじめ準備しておいたレナータのデータを、娘の脳に移植してみせたのだ。それから、傲然ごうぜんとした笑みを浮かべ、娘に人類の守り神と同じ名を授けた。


 娘にレナータと名付けようと提案された時点で、嫌な予感に支配されたオリヴァーに、妻はにっこりと微笑みかけてきた。


「――ね? 絶対に諦めないって、言ったでしょ?」


 娘を――レナータを腕に抱きつつ、そう言い切った妻に、オリヴァーは言葉を失い、頬を引きつらせることしかできなかった。


 一体――何が、こんなにも妻を歪ませてしまったのか。


 元々、エリーゼは自分の思い通りに事が進まないと、感情を爆発させる性質だった。天才故に、大抵の物事は自分の思い通りにコントロールできたからなのか、そうではない状況に直面した場合、プライドが許さなかったのか、もしくはパニック状態に陥ってしまうのか、取り乱す姿を幾度か目撃したことがある。


 しかし、今までは時間が経てば、自然と自身を抑制できていた。持て余した感情を落ち着かせることが、できていたのだ。


 そして今回も、平静を取り戻すことに成功した。――自分が思いついた、荒唐無稽な計画を実現させるという、最悪の形で。


 妻の魔女めいた微笑みを目の当たりにした途端、どうしてもっとエリーゼと話し合いの場を設けなかったのかと、全身が焼かれるような後悔に襲われた。何故、もっと妻の動向に気を配ることができなかったのかと、迂闊うかつな自分自身を呪った。


 妻は、何も納得などしていなかったのだ。 その身体に命を宿し、産み落としても尚、真の意味で母親になることはできなかったのだ。


 だから、自分の血を受け継ぐ娘を、平然と道具のように、自らの目的のために利用した。誰かの犠牲を強いてまで延命措置を施して欲しくないと訴えた、レナータの意思を蹂躙じゅうりんした。


 でも、妻や自分を責め続けることは、オリヴァーにとって都合が悪かった。

 だから――いつしか、あの日あの時、涙を流したロボットを呪うようになっていったのだ。


 どうしてあの時、まるでただの人間の娘みたいに泣いたのか。三千年という途方もない時の間、稼働し続けていたのだから、もう終わりを迎えてもいいではないか。


 何故――ロボットでしかないくせに、使う側である人間に都合よく動いてくれないのか。


 そう思い至った瞬間、自分自身の考えに愕然とした。そして同時に、妻がどうしてあのような暴挙に出たのか、ようやく腑に落ちた。


 エリーゼもオリヴァーも、レナータを人間の少女に接するような態度を取っておきながら、その実、ロボットとしか認識していなかったのだ。


 だから、レナータが自分の死が目前に迫っているのだと悟った直後、静かに泣き出したことが信じられなかった。レナータならば、人間側の都合を笑顔で物分かりよく聞き入れてくれるだろうと、無意識のうちに妄信していた。


 そのことに気づいてしまえば、もうレナータに責任転嫁をすることは難しくなってしまった。だが、かといって、妻や自分自身に責任を問い続けるのも、苦しい。


 だから、レナータを内心なじるのをやめた代わりに、自分にとって不都合なもの全てから、目を逸らしたのだ。


 もう二度と、妻を心から愛することはできない。――ならば、愛情を注ぐふりをすればいい。一人の女性として愛することが不可能だとしても、家族としてならばまだ大切にできるはずだ。


 何もできなかっただけではなく、その責任を罪のない他者に押しつけていた自分の胸の内に巣食う罪悪感を、どうしても打ち消すことができない。――ならば、罪の意識を上回る感情で上書きしてしまえばいい。


 その結果、オリヴァーは基本的に妻に対して従順に振る舞いつつも、適切な距離を取るようになった。娘を溺愛することにより、罪悪感を心の奥底に沈めることに成功した。


 ――しかし、娘は成長していくにつれ、こうして無自覚に、何度も何度もオリヴァーの罪を突きつけてくるようになったのだ。


 娘の脳にレナータのデータを移植することに成功したと聞かされたとはいえ、正直半信半疑だった。赤子だった頃から、娘の翡翠の瞳に女神の幻影が過っても、目の錯覚に違いないと自分を騙し続けていた。


 でも、こうして娘が流暢に話せるようになってからは、もう自分を誤魔化し続けることはできなくなってしまった。時折、逃げ出してしまいたくなるほどの罪の意識に、窒息してしまいそうになる。


 オリヴァーとエリーゼの娘の脳には、確かに人類の守り神が宿っている。完全な形ではないものの、それでも女神の欠片は息づいているのだ。

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