終章

ここではない、どこかで

「――お父さん。薔薇が綺麗に咲いていたから、摘んできたよ!」


 カミルがベッドの上で上体を起こし、ぼんやりと窓の外を眺めていたら、寝室の扉が開く音と共に、透明感のある柔らかい声が聞こえてきた。

 声の主へと視線を移せば、愛娘が両腕に白い薔薇の束を抱え、にこにこと微笑んでいた。薔薇の葉や棘は丁寧に取り除かれており、娘の肌を傷つけることはなかった。

 レナータはカミルの元に近づいてくると、ベッドのすぐ脇にあるサイドテーブルの上に鎮座している花瓶に、手際よく薔薇の花を活けていく。


「今年も、本当に綺麗に咲いてくれたの。あとで、車椅子を持ってくるから、お父さんも一緒に見ようね」


 加齢に伴って発症した神経系の病気のせいで、カミルは去年から、ほぼ寝たきりに近い状態に陥っている。

 短い時間ならば、こうして座っていられるのだが、すぐに疲れてしまう。歩くことなど以ての外だ。以前は、歩行器を使えば、一人でも出歩けたのだが、今はレナータに車椅子に乗せてもらわなければ、どこにも行けない。


「部屋にこもってばっかりじゃ、気が滅入っちゃうもんね。外の空気も吸わないと」


 レナータは相変わらず微笑んだまま、水差しから花瓶へと水を注いでいく。そして、水差しをサイドテーブルの上に置くと、カミルにマリンブルーの眼差しを向けた。

 レナータは、カミルの自慢の娘だ。こうして嫌な顔一つせず、進んで父親の介護をしてくれている。かつてカミルが大好きだと語った白い薔薇を一年中見せるため、様々な品種の薔薇を集めては、年間を通して懸命に育ててくれている。今では、ちょっとした薔薇園と呼んでも差し支えがないくらい、庭には薔薇の花が咲き乱れている。


(昔は、あんなにロボットらしいロボットだったのになあ……)


 完成したばかりの頃のレナータは、本当にロボットらしいロボットだった。ほとんど無表情で、声のトーンも平坦で、理に適っていないと判断したら、「それは、必要なことなのですか」と、淡々と問いかけてきたものだ。最初は、カミルを父と呼ぶことさえ、必要なことなのかどうか訊いてきたほどだ。

 だが、カミルが根気よく人間の情緒について教えていくうちに、人間よりも遥かに優秀なレナータは、ディープラーニングを繰り返していき、いつしか普通の人間と見分けがつかないほど、表情豊かで心優しい娘になった。


 ――私は多分、お父さんの喜ぶ顔が見たかったんだと思う。

 初めて育てた白い薔薇の花をカミルに差し出し、戸惑いながらも自身の胸に芽生えた想いを吐露する姿を目の当たりにした時には、思わず涙ぐんでしまった。


 しかし、時折思うのだ。レナータをここまで人間に近づけてしまったことは、カミルの最大の罪ではないのかと。

 レナータがいくら献身的に尽くしてくれたところで、自分はもう何も返せない。そう遠くない未来、この優しくて愛しい娘を置き去りにして、この世界から消えてしまう。気が遠くなるほどの時の中を存在し続けるレナータと、永遠に一緒にいられるわけではないのだ。

 ――いつか必ず、カミルは娘を一人にしてしまう。


 身体が不自由になり、ベッドの上で過ごす時間が増えると、自然と考える時間も増えていく。そして、考えれば考えるほど、娘の行く末が気がかりになっていく。


「……お父さん?」

 何も言わない父を怪訝に思ったのか、レナータが心配そうにカミルの顔を覗き込んできた。

 心の底からカミルを案じているのだと、ありありと伝わってくるマリンブルーの瞳を見つめているうちに、次第に喉の奥から熱いものが込み上げてきた。それに伴い、目頭も熱くなっていき、視界がたわんで目の前にいるレナータの顔がよく見えなくなっていく。


「お父さん、どうしたの? どこか痛いの? それとも、苦しい?」


 唇からは嗚咽が漏れるばかりで、娘の問いに答えられない。だから、まるで幼子みたいに首を横に振ることしかできない。

 案の定、レナータは困惑しているみたいだったが、カミルの背にそっと手を添えたかと思えば、ゆっくりと撫でてくれた。何度も、何度も、カミルが落ち着くまで、背を擦ってくれた。


「……レナータ。君にはどうか、人類の黄昏を見届けて欲しい」


 ――レナータ、すまない。

 本当は、娘にそう詫びたかった。

 でも、ここで謝罪しては、レナータが人間らしくあることを、他ならないカミル自身が否定することになってしまう。


(どうして……もっと早く気づけなかったんだろうなあ……)


 自分がいかに娘に残酷な仕打ちをしていたのか、もっと早くに自覚していれば、レナータを苦しめずに済んだのかもしれない。だが、過ぎ去ってしまった時間は、もう取り戻せない。

 だから、謝罪の代わりに愛する娘に存在意義を与えよう。カミルの娘という役割以外の、生きる意味を与えよう。


「レナータ。私のことをお父さんって呼んでくれて、ありがとう」


 感謝の言葉を捧げよう。


「レナータ。こんな私の傍にいつもいてくれて、本当にありがとう」


 ――私の可愛いレナータ。


「レナータ、私の可愛い娘。どうか……幸せになってくれ」


 ――どれだけ長い時間がかかったとしても、いつか君を一人の女の子として見て、心から愛してくれる人が現れることを、ここではないどこかでずっと祈っているよ。

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