モルテ
「――旧時代を終わらせるほどの猛威を振るった、ウイルスについて、改めて訊きたいことがあるのだけれど、構わないかしら」
アレスと初めて会ってから、一カ月ほど経過していた、ある日の昼下がり。
レナータを自分の研究室に招き入れた科学者――エリーゼ=アードラーが、椅子に腰かけるように勧めながら、そう問いかけてきた。
勧められた椅子に腰を下ろし、レナータが小さく頷くと、エリーゼはてきぱきとお茶の用意をしつつも、言葉を繋いだ。
「人類史上最悪のパンデミックを引き起こしたウイルス――モルテのデータを改めて解析してみたのだけれど、本当に人間以外の動物には無害だったの?」
紅茶を注いだマグカップをエリーゼに差し出され、ありがたく受け取る。
現代の紅茶に使われる茶葉は、旧時代ほど種類が豊富ではないが、エリーゼが淹れてくれた紅茶からは、アールグレイに似た香りが漂ってくる。
レナータは、人間の生活を模倣し、学習するための機能を備えているため、飲食が可能だ。人間とは違い、生命維持のために必要な行為ではなく、あくまで学習の一環でしかないため、こうした嗜好品ばかり口にしている。
紅茶を一口飲んでから、こくりと頷く。
「うん、そうだよ。旧時代の人間――旧人類の大半はモルテで命を落としたけど、他の動物が死亡した例はなかった」
「そんなことが、本当にあり得るのかしら? 旧時代の主なウイルス性人獣共通感染症について、調べたけれど……モルテほどの感染力を持つウイルスなら、ウイルス性人獣共通感染症に該当しても不思議じゃないわ」
「天然痘ウイルスに似た性質を持っていたとも、考えられるよ」
天然痘ウイルスは、かつて世界中でパンデミックを引き起こしたウイルスだ。非常に感染力が強く、致死率も高く、人間しか感染及び発病しなかった点は、モルテとよく似ている。
レナータが完成した頃には、既に天然痘ウイルスは根絶していたため、正確に比較することは難しいが、その可能性はかなり高いのではないかと思う。
「そうだとしたら、今の人類にモルテが効かないことにも、説明がつくし」
三千年前、モルテに対抗するためのワクチン――グレイスが開発され、その後も全く感染しなくなったということは、天然痘ウイルス同様、グレイスによってモルテの撲滅に成功したのではないか。現在では、自然界においてモルテは存在しないとされている点も、やはり天然痘ウイルスと酷似している。
レナータと向き合う形で椅子に座ったエリーゼは、翡翠の双眸を伏せ、デスクを指先でとんとんと叩く。
「そうね……確かに、そういう見方もできるかもしれない。でも、時代を追うごとに、新しく発生するウイルスは、どんどん強力なものになっていっているわ。それなのに、旧時代を終わらせるほどのウイルスの性質が、大昔の天然痘ウイルスに似るなんてこと、あるのかしら」
デスクを叩いていた指先が、ポニーテールの毛先へと移動し、くるくるとダークブロンドを巻きつけていく。
「それに、モルテに唯一対抗できたグレイスのせいで、多くの人間がアナフィラキシー反応で命を落としたとも聞くわ。このワクチンに適応できた人間だけが、あのパンデミックから生き残ることができたとも」
エリーゼの言う通り、パンデミックの最中、何とかグレイスが開発されたものの、臨床実験の段階で、意識不明に陥るほどの呼吸困難を主な症状とした、アナフィラキシー反応を起こし、死亡した事案が相次いだ。
そのため、他のワクチン開発に着手しようとしたものの、その時点で多くの人々が犠牲になり、新しいワクチンを開発するための人員も、確保できなかった。
また、グレイスを打って免疫を獲得した人がいたこともあり、一か八かの賭けで、グレイスを打つしかない状況に追い込まれたのだ。
「うん、そうだよ。それを乗り越えて生き残った人たちが、貴女たち――新人類の祖先だよ」
その新人類の祖先には、レナータの創造主であるカミルも含まれている。今、目の前にいるエリーゼは、カミルが名を連ねていたアードラー一族の末裔だ。
目元を除けば、エリーゼがレナータとよく似た顔立ちをしているのは、カミルの妻であるエーファに瓜二つの容姿の持ち主だった妹が、カミルの親戚と結婚しており、その妹はモルテの感染から免れたためだろう。だから、こうしていると、エリーゼとレナータは、姉妹みたいだ。
(三千年も稼働し続けている私が、二十ちょっとのエリーゼの妹みたいなんて、我ながら、変な感じだけど……)
しかし、レナータは歳を取らない上、外見年齢は十八歳くらいだ。姉妹というならば、どうしてもレナータの方が妹みたいに見えてしまう。
そんなことを考えながら、紅茶を口に含んでいたら、エリーゼはデスクの上で頬杖をついた。
「そのグレイスの適合条件も、未だに分からないのでしょう?」
「……悔しいことに、その通りです」
グレイスの適合者の人種や年齢、性別等々、非常にばらつきがあり、これといった決め手が今でも不明なままなのだ。人工知能であるレナータでさえ、どれだけデータを解析してみたところで、答えを出せなかった。
だから、人類が生き長らえている現状は、奇跡としか言いようがないのだ。
「人類史上最悪のパンデミックだったっていうのに、今になっても本当に分からないことだらけね。ウイルスが発生したんじゃなくて、人間 という種を滅ぼすためだけに作った化学兵器を使った災厄なんじゃないかって、思ってしまうわ」
「……パンデミック中には、そういう陰謀論も流れたみたいだよ」
「あ、やっぱり?」
レナータが完成した頃には、パンデミックは収束していたものの、そういった陰謀論もあったのだと、父が教えてくれた。そして、もしそれが事実だったら、主犯をこの手で殺してやろうかと、父は笑顔で言っていた。
当時のレナータは、まだ感情の起伏が少なかったから、復讐したところで失われた命は戻ってこないと、冷静にカミルを諭したが、今だったら、笑顔でそんなことを言ってのける父に、恐怖を覚えたに違いない。やはり、妻子を失ったショックで、父の心は壊れかけていたのだろう。
両手で包み込むように持っていたカップの中身が空になり、エリーゼのデスクの端に遠慮がちに置く。
「しかも、貴女が言うところの新人類は、ウイルスに感染しても、滅多に死ななくなったというのだから、不思議よね」
「うん。グレイスの影響で、昔の人間とは比べ物にならないくらい、貴女たちの身体には膨大な抗体が含まれているからね」
だからこそ、現在に至るまで、何度も新しいウイルスが発生したものの、一度もパンデミックまで発展しなかったに違いない。感染したとしても、大抵の場合は回復する。おかげで、新人類の中では病死という概念が希薄になりつつある。
「それなら、平均寿命が延びてもいいと思うのだけれど」
「……環境破壊や環境汚染がなければ、そうなっていたかもしれないね」
レナータの声から、確かな棘を感じ取ったのだろう。ずっと悩ましげな顔をしていたエリーゼが、苦い笑みを零した。
「……レナータって、本当は私たち人間が嫌いだったりする?」
「嫌いじゃないよ。どうして、そんなことするのかなって思う時はあるけど」
三千年近く稼働し続けていても、その疑問が尽きたことはない。
パンデミックから生き延びた人類は少数だったし、元々環境破壊や環境汚染が進んでいる土地もあったため、国という領土形態をなくし、 自然環境に恵まれている土地に限定し、人々は生きていくことに決めたのだ。
しばらくは、新しくエリアと名付けられた土地で、人類は慎ましく生活していたが、文明を取り戻していくにつれ、やがて政府と呼ばれる統治機構が作られた。時代に応じた法律も定められ、失われていた科学技術も蘇ってきて、昔みたいな文化的な生活を、また人類が送れるようになり、レナータは純粋に嬉しかった。
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