黄昏の空の下で

 アレスの衝撃的な発言を受けた後、大聖堂の長椅子に二人並んで座り、しばらくお喋りに興じていた。


 レナータは当初、アレスを母親のところまで連れていこうとしたのだが、もう少し一緒にいたいと腰にしがみつかれてしまえば、陥落されるまで、さほど時間はかからなかった。どうして、子供とはこんなにも愛くるしい生き物なのか、不思議でたまらない。


 今日は、科学者たちは楽園政府との重要な会議があり、レナータの元に顔を出せないと事前に聞かされていたため、心置きなくアレスと言葉を交わしていた。

 アレスは年齢の割には口数が少なく、表情も乏しい。どちらかといえば、大人しい子供だが、歴史の重みと美しい芸術、そして科学の粋が集まっている古城を探検することが趣味なだけあり、年相応に好奇心旺盛で、レナータの話にも熱心に聞き入っていた。


 とはいえ、いつまでも幼い子供をレナータの元に留めておくわけにはいかない。暗くなる前に家に帰らなければ駄目だというレナータの言葉を、アレスは素直に聞き入れてくれた。


 アレスと手を繋ぎ、古城の敷地内を出て、丘をゆっくりと下っていく。

 てっきり、アレスは親と一緒に帰るものだとばかり思っていたのだが、大抵一人で帰っているのだという。さすがに、そのまま見送るのはどうかと思い、古城が建つ丘と居住区を繋ぐ橋のところまで、アレスに付き添うことにしたのだ。


「それにしても、アレスはすごいね。一人でお家まで帰れるなんて。お城からお家まで、結構離れているでしょ? 歩いて帰るの、大変じゃない?」


 繋いだ手の先にいるアレスに問いかければ、前を向いていた琥珀の眼差しが持ち上がる。レナータと目が合うと、アレスは首を横に振った。


「ううん、平気。今から運動はちゃんとしておきなさいって、母さんに言われているし、歩くの嫌いじゃないから」

「そっか。アレスは頑張り屋さんだね」

「……そうかな」

「うん、そうだよ。私がアレスくらいの歳だったら、多分途中で疲れて、座り込んじゃうと思うなあ」

「そうしたら、俺がおぶって帰る」

「そう? それは、頼もしいなあ」


 そうこうしているうちに、橋の入り口が見えてきた。古城から橋までの距離も、結構あったはずなのだが、アレスと話していたら、あっという間だった。


「アレス。あとはあの橋を渡れば、居住区まですぐだけど、どうする? 私も一緒に橋を渡ろうか?」


 あれほどレナータの傍にいたがった、アレスのことだ。また、もう少し一緒にいたいと言われるのではないかと思い、先回りをして問いを投げかけたのだが、アレスは再び首を左右に振った。


「ううん。橋の入り口のところまでで、大丈夫。橋を渡ったら、レナータ、帰りがもっと大変になるだろ?」


 一旦立ち止まり、後ろを振り返ったアレスに倣い、レナータも足を止めてその視線の先を辿れば、丘の上にそびえ立つ古城が視界に映る。下り坂で楽だった行きとは異なり、帰りはあの上り坂を上って帰らなければならないレナータを、どうやら気遣ってくれているらしい。


(アレス……やっぱり、将来有望だ……)


 アレスには、やや歳の離れた兄がいるから、その影響を受けているのだろうか。それとも、母親の教育方針なのだろうか。アレスの年齢には見合わない、レディファースト精神に、感嘆の吐息を零しそうになる。


「気を遣ってくれて、ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えて、橋の入り口のところまで一緒に行くね」

「うん」


 しかし、そんな会話をして歩みを再開させたのも束の間、すぐに橋の入り口に辿り着いてしまった。アレスと繋いでいた手をそっと解き、中腰になって琥珀の瞳を覗き込む。


「――アレス、今日はありがとう。アレスくらいの歳の子と話すのは、本当に久しぶりだったから、とっても楽しかったよ。……帰りは、気をつけるんだよ? 寄り道したら、駄目だからね?」


 本当は、「またね」と言いたかった。でも、特別な人間は作らないと、三千年前のあの日に決めたのだから、これ以上深入りするべきではない。

 それに、今日一日でアレスの好奇心も充分に満たされたはずだ。一度離れてしまえば、また会いたいなんて、向こうは微塵も思わないかもしれない。


 レナータが年上らしく注意を促すと、アレスは素直に頷いた。


「うん、分かった」

「よし! 偉いぞ、アレス。それじゃあ――」

「――またな、レナータ」


 ――さよなら。

 そう続けようとしたレナータの声を遮り、アレスが再会を約束する言葉を口にした。驚いて目を見張ったレナータを、アレスはまっすぐに見つめてくる。何もかも見透かしてしまいそうな琥珀の眼差しにたじろいでいると、アレスが言葉を継いだ。


「……また明日も、会いにいっていい?」


 夕日のせいか、アレスの頬がほんのりと赤くなっているように見えた。表情は限りなく無に近いものの、光の加減で黄金色に染まった琥珀の瞳は、縋るようにレナータを見つめ続ける。


 ――特別な人は、作らない。三千年もの間、実際にそうしてきた。

 だが、レナータは終わりを迎えつつあるのだ。この世界から消えていなくなるまでの、ほんの僅かな間だけなのだから、特別を作ってもいいのではないかという想いが、胸に込み上げてくる。


(これで最後、だから……)


 冷静になれと、自分の立場を思い出せという声と、最後くらいどうか許して欲しいという声が、胸中でせめぎ合う。どうするべきかなんて、結論はとっくに出ているというのに、人工知能らしくない感情が、胸の内でみっともなく足掻き続けている。


 葛藤するレナータに、何を思ったのか、突然アレスが抱きついてきた。


「レナータが嫌だって言っても、明日、会いにいくから」


 ――だから、レナータが悩む必要なんてない。

 暗にそう言われた気がして、何だか自分が情けなくなってきた。


(こんな小さな子に、気を遣われちゃうなんてなあ……)


 自然と唇に苦笑いが浮かび、一度ぎゅっとアレスを抱きしめ返してから、その小さな身体を自分からそっと引き離す。


「――うん。それじゃあ、また明日。アレスが来てくれるの、楽しみに待っているよ」

「うん。じゃあ、レナータ。また」


 アレスは大きく頷くや否や、身を翻して走り出した。その小さな後ろ姿に向かって、こっそりと手を振っていたら、不意にアレスがこちらへと振り向いた。それから、アレスが立ち止まり、レナータに手を振り返すと、再度前を向いて駆けていく。


(これで、最後だから――)


 ――だから、特別を作ることを、自分に許そう。

 黄昏の空の下、胸に両手を当ててアレスの後ろ姿を見送るレナータの唇に、先刻とは違い、穏やかでありつつも切なさが滲んだ微笑みが浮かんでいた。

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