女神と少年

 少年の歳の頃は、五、六歳くらいだろう。まだまだ可愛い盛りで、思わずぎゅっと抱きしめたくなるほど、少年を構成する何もかもが小さい。濡れ羽色の髪は、幼子特有の艶を持ち、羨ましいほどの瑞々しさを放っている。

 そして、狼の目を連想させる琥珀色の虹彩が、レナータをまっすぐに射抜く。切れ長の三白眼は、幼いながらに鋭い印象を与えてきた。

 

 その外見の特徴から、少年が誰なのか見当がついた。いくら今のレナータは大したデータを保有していないとはいえ、この大聖堂を含めた古城に流れている噂くらいは、把握している。


「――もしかして、貴方がアレス?」

 

 長椅子から腰を上げ、黒髪の少年――アレス=ヴォルフへと向き直る。

 柔らかく微笑みかけ、小首を傾げると、アレスは警戒したように一歩後退った。

 

 これまでにも、大聖堂で生活している、「人類の守り神」の異名を持つ人工知能がどんな存在なのか確かめようと、まるで度胸試しか何かのように、ここに無断で足を踏み入れてきた子供は、数えきれないほどいた。その度に、レナータが一応出迎えると、彼らは一目散に逃げ出したものだ。


(全体的に色素が薄いから、幽霊か何かと勘違いさせちゃうのかな……)

 

 その上、白銀の髪は膝に届きそうなくらい長い。それに、レナータが身に纏っているのは、フリルやレースをふんだんにあしらった、純白のドレスだ。時代錯誤な服装もまた、異様な雰囲気を醸し出しているのかもしれない。


 だが、アレスは一歩後退したものの、身を翻して逃げようとはしなかった。ただただ、レナータをじっと見つめている。


 アレスを怖がらせないよう、その場に突っ立ったまま動かずにいると、薄く形のよい唇が開かれた。


「なんで……俺の名前を知っているんだ?」


 そう問いかけながら、アレスはおずおずと大聖堂の中に入ってきた。どうやら、このアレス少年は、なかなか肝が据わっているらしい。


「だって私は、『人類の守り神』だもの。そのくらい、知っているよ」


 少年を試すように、にっこりと笑みを深めて答えれば、アレスの目が驚愕に見開かれた。てっきり、レナータの姿を一目見ようと、ここまで来たのかと思っていたのだが、この様子だと違うのだろうか。


(アレスは最近、 お城の探検に夢中みたいだったから、迷ってここに来ちゃったのかな?)


 旧時代の人間ならば、神への冒涜だと声高に非難しただろうが、現代の科学者の多くは、レナータが暮らす古城を研究施設として利用している。そして、アレスの母も科学者の一人で、その息子が最近城内の探検をしていると、小耳に挟んだのだ。


 研究施設内を幼子がうろつくなんて、危険極まりないが、大人に迷惑をかけるような真似も、危ない真似も、アレスは今までしていないため、今のところは目を瞑ってもらえているみたいだ。


「じゃあ……お姉さんが、レナータ?」

「うん、そうだよ。私が、レナータ」


 こくりと頷くと、アレスはきゅっと唇を引き結んだ。それから、意を決した面持ちになったかと思えば、レナータの元へととことこと近づいてきた。


(か……可愛い……!)


 本人としては、普通に歩いているだけに決まっているが、幼子が歩行する姿は、レナータの目には非常に愛らしく映った。


 その小さな身体をぎゅっと抱きしめたい衝動をぐっと堪えていると、アレスがレナータのすぐ目の前で立ち止まった。琥珀の瞳は、レナータの全身をしげしげと眺めている。

 しばし、アレスの好きなようにさせようと、その様子を見守っていたら、不意に腰に抱きつかれた。五歳児とはいえども、男の子の突進してくる力はなかなかのもので、アレスに抱きつかれたレナータは、少しよろめいてしまった。


「ア、 アレス?」

「……やっぱり、ちゃんとここにいるんだ」

「……なあに? 私のこと、幽霊だとでも思ったの?」


 安心したかのような声音に、むっと唇を尖らせる。

 確かに、レナータは人間ではないから、人ならざる者であるという点においては、幽霊と同じだ。しかし、面と向かって幽霊扱いされたら、さすがに複雑な気分になる。


 三千年もの時を生きてきたバイオノイドとして、もっと威厳のある態度で接した方がいいのかもしれないが、父の教育のせいなのか、レナータに組み込まれている人格を構成するプログラムが元々そうなっていたのか、どうも感情が表に出やすいのだ。しかも、感情の揺らぎが外見年齢相応の少女らしく、喜怒哀楽が豊かだ。


(機械的な対応をしてくる、科学者相手なら、それらしく振る舞えるんだけどな……)


 そう考えると、アレスがそれだけレナータを人間扱いしてくれているということだろうか。

 内心戸惑うレナータを、アレスが知る由もない。アレスは顔を上げると、怪訝そうに眉根を寄せた。


「……自分から、神様だって言ったくせに」

「え。じゃあ、神様だって思ったの?」


 相手は五歳児なのだから、レナータの言葉を真に受けて当然だ。大人としか関わらなかった期間が長過ぎたせいで、幼児との会話の仕方を忘れつつあったみたいだ。

 問いを重ねるレナータに、アレスは首を横に振る。


「ううん。レナータは、神様っぽくない。人間の女の子にしか見えない」


 ――人間の女の子にしか見えない。


 父にそうなるように創られ、ずっと人間について学習してきたのだから、当然といえば当然だ。

 でも、実際にそう言われたことは、数えるほどしかない。


 世界各地の人々のために、文明の復興に働きかけてきたレナータを、守り神として崇め奉った人の方が、ずっと多い。そんなレナータに利用価値を見出し、好都合な道具として利用してきた人の方が、さらに多い。


 だから、アレスに抱きつかれ、人間の女の子にしか見えないとまで言われ、自分でも驚くくらい喜びが湧き上がってきた。


「――ありがとう。そう言ってもらえると、すごく嬉しい」


 右手を上げ、アレスの濡れ羽色の髪に覆われた頭を、そっと撫でる。やはり、髪は見た目通り艶やかで、柔らかな感触が指先や手のひらに伝わってくる。それから、左手はアレスの背に回し、ぎゅっと抱きしめ返す。

 すると、アレスは気持ちよさそうに目を細めた。そのあどけない表情が可愛らしく、胸の高鳴りが止まらない。

 思わぬ形でアレスを抱きしめられ、その感触を思う存分に味わっていたところで、ふと我に返った。


「……そういえば、アレス。どうして、ここに来たの? もしかして、迷子?」


 アレスの頭を撫でる手を止め、その小さな身体をやんわりと引き離す。そして、その場にしゃがみ込み、アレスの目線に合わせる。

 幼子との触れ合いに、ほのぼのと和んでいる場合ではなかった。もし、アレスが迷子であるならば、母親の元まで連れていかなければならない。


 幸い、古城を中心とした、世界一美しい水の都と謳われているこの街――楽園は、レナータにとって自分の庭同然だ。その上、長年、世界中の人間の個人情報を把握していただけあり、楽園の住人の行動パターンも熟知している。だから、楽園の住人であるアレスを、親のところまで連れていくことなど、レナータにとっては朝飯前だ。


 だが、アレスはもう一度首を左右に振った。


「ううん、迷子じゃない。人類の守り神って呼ばれている、レナータってAIを見たくて、捜していたんだ」

「そうだったんだ」


 やはり、度胸試しにレナータの姿を捜し求めていたのだろうか。

 レナータが頷くと、アレスも頷き返してきた。


「うん。母さんから、すっごく綺麗な女神様なんだよって、聞かされたから」


 その言葉を耳にした途端、アレスの母であるミナーヴァ=ヴォルフに、クレームをつけに行きたい衝動に駆られた。


(ミナーヴァ、どうしてそんなにハードルを上げるの……!)


 確かに、カミルの妻だったエーファ=アードラーは、大層な美人だったから、彼女と瓜二つの顔立ちをしているレナータも、美人に分類されるに違いない。

 しかし、「すっごく綺麗な女神様」は、さすがに言い過ぎだ。実際、アレスは「人間の女の子にしか見えない」と口にしていたのだから、実物はその印象から程遠いと思ったのだろう。


「……ごめんね。実物は、女神様じゃなくて……」


 子供の夢を壊すのは忍びないが、これが避け難い現実だ。

 自然と項垂れ、つい謝罪の言葉を述べる。


「うん、レナータは女神様じゃない」


 自分が突きつけた現実が、凄まじい勢いで跳ね返ってきて、胸にぐさりと突き刺さる。


(な、なにも、そんなにはっきりと言わなくても……)


 別に、否定して欲しかったわけではないが、まさかここまではっきりと、そうだと告げてくるとも思っていなかった。

 レナータがさらに深く項垂れた直後、小さな両手が頬に触れてきた。そして、そのまま顔を上げさせられる。


「レナータは、お姫様みたいに可愛い、人間の女の子だ」


 琥珀の眼差しとマリンブルーの眼差しが絡み合った瞬間、まるで常識だと言わんばかりに、アレスは涼しい顔でそう言ってきた。レナータはぽかんと口を開け、目の前の少年を凝視する。


 きっと、レナータの髪が長く、ふんわりとしたラインを描くドレスに身を包んでいるから、お伽噺に登場するお姫様を思い起こさせただけに違いない。

 でも、お姫様みたいに可愛いと褒められ、嫌な気分になる少女は、この世に存在しないだろう。レナータだって、悪い気はしない。


 ただ問題なのは、そう言った張本人が、まだ幼い少年だということだ。


(今から、そういうことをさらっと言えるなんて……この子の将来が怖い……!)


 アレスが自らの発言に、照れている素振りは見受けられない。幼いが故に恥ずかしくないのか、そういう性格なのか、いくら高性能な人工知能だと持て囃されてきたレナータでも、判別できない。

 だが、もし元からそういう性格なのだとしたら、成長したアレスはさぞかし女性からの好感度を荒稼ぎすることだろう。


 アレスを凝視したまま微動だにしなくなったレナータを、将来有望な少年は見つめ返し、不思議そうに小首を傾げた。

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