一章 黄昏の始まり

黄昏の始まり

 ダイニングテーブルの上に、すっかり手に馴染んだペンと、菫の花が描かれた、可愛らしい大きめのメモ用紙を置く。

 レナータに手紙を送る相手はいないし、そもそも今は手紙を書くという手段が廃れてきた時代だ。レターセットなんて、買ったこともなかったが、こんなことなら一つくらい買っておけばよかった。


 内心溜息を吐きながら椅子を引き、その上に腰を下ろす。ペンを手に持ち、お気に入りのメモ用紙に視線を落とす。手紙の内容を思案するふりをしつつ、こっそりと自分の周囲の様子を窺う。

 現在、科学者と数人の軍人が、レナータの周りを取り囲んでいる。先程、窓の外を確認した際には、レナータと恋人であるアレスの住居であるアパートを、家の中に侵入してきた人たちよりも多くの軍人が包囲していたから、おそらく今も状況は変わっていないだろう。


 肩の上で切り揃えられたダークブロンドを右耳にかけ、ペンを持ち直す。翡翠の瞳を何度か瞬かせ、少し間を置いてから、メモ用紙にペンを走らせた。


『愛するアレスへ。

 なんて書こうかしばらく悩んだけど、まずは謝ろうと思う。

 アレス、ごめんね。

 この手紙を貴方が今読んでいるってことは、私はもうこの家にはいないんだと思う。

 いつも私のことを心配してくれて、守ってくれていたのに、私、アレスに結局何も返すことができなかった。最後まで、アレスに心配ばかりかけて、守られるだけの私で、本当にごめん。

 それから、ありがとう。

 アレスとの生活は、本当に楽しくて幸せだったよ。苦労もいっぱいしてきたはずなのに、楽しかったことしか思い出せないや。それくらい、私にとってアレスとの生活は、かけがえのないものだったよ。だから、本当にありがとう。

 これで、お別れ――は、嫌だけど、もしかしたらそうなっちゃうかもしれないから、少しだけ思い出話に付き合って欲しいな。

 アレスも、覚えているよね。

 まだアレスが小さくて、私がロボットだった、あの頃――』


 黙々と、ペンを動かし続ける。文字を綴っていくにつれ、今では少し色褪せてしまった、アレスと初めて出会った日の記憶を思い出していった。



    ***



「――お父さん。お父さんが亡くなってから、もう三千年近くも経っちゃったよ」


 レナータの住まいである大聖堂のステンドグラスを見上げながら、一人呟く。レナータの声は高い天井に吸い込まれていき、すぐに静けさが戻ってきた。長椅子に腰かけているレナータは、純白のドレスの裾から覗く足をぶらぶらと揺らしつつ、美しいステンドグラスを眺め続ける。


 父が亡くなってから三千年近くの時が経過したが、レナータがこの大聖堂で暮らしてからも、同じくらいの時間が流れた。

 カミル=アードラーの遺言通り、レナータは父の葬儀が終わってから、世界各地の人々の個人情報を管理し、人類が平和で豊かな生活を送れるよう、日々最適解を模索していた。いずれ人類が滅びゆく定めなのだとしたら、穏やかな気持ちで終わりを迎えて欲しかったからだ。

 元々、父の傷ついた心を慰めるためではなく、人類の黄昏を見届けるという目的の下、レナータは製造されていたのだ。世界規模のパンデミックが発生する前から、父は人類の滅亡を視野に入れていたみたいだ。だから、レナータの本心がどうであれ、父の望みを叶えることは、性能上問題はなかった。


 だが、父が思っていたよりも、人間という生き物はしぶとかった。いや、人工知能であるレナータでさえ、この展開は想定できていなかったのだ。

 文明レベルが著しく低下していた時代があったものの、人間という種が絶えることはなかった。人類滅亡の一歩手前まで、ウイルスに追い詰められたというのに、絶滅という未来を回避し、現在に至るまで命を繋いできた。


「こういうのを、奇跡って呼ぶんだろうな……」


 膝の上に肘を乗せ、頬杖をつく。相変わらず、視線はステンドグラスに定められたままだ。


 父が亡くなって数年は、長い時を稼働し続けなければならない現実に、絶望していた。自分も早くこの世界からいなくなりたいと、父の元に行きたいと、心の底から願ってやまなかった。

 しかし、時が流れれば流れるほど、死への渇望は薄れていった。今でも、父を愛していることには変わりがないが、会いたいかと訊かれれば、何が何でも会いたいわけではないと、断言できる自信がある。

 とはいえ、死にたくないのかと訊かれれば、そういうわけではない。レナータの稼働年数は元々、千年だったのに、科学者たちの技術により、人間の都合でここまで延命させられただけなのだ。さすがに三千年近くも稼働していれば、いずれ来る終わりに対し、今さら恐れるはずがない。


(私が処分されるまで、あと少しだろうな……)


 科学の粋を結集させ、今までレナータの稼働年数を引き延ばしてきたが、十年くらい前から限界を感じ始めていた。それでも、科学者たちはどうにかしてレナータの寿命をさらに引き延ばそうとしたものの、結局無駄な足掻きに終わった。

 そもそも、パンデミックのせいで文明レベルが著しく低下する以前の時代――旧時代の技術で製造されたレナータを、三千年近くも稼働させられただけでも奇跡だというのに、人間という生き物は本当に欲深い。


 もう、自分たちの力だけではどうしようもないと悟った科学者たちは、二年前からついに、経年劣化が進んだレナータを廃棄処分する計画を始動させた。

 でも、レナータは非常に高性能な人工知能である上、膨大で貴重なデータを蓄積している。しかも、バイオノイドは現代の技術では未だに製造できない。

 だから、十中八九このボディは厳重に保管され、研究材料とされるに違いない。そして、レナータにとって脳の役割を果たしている、生体コンピュータに記録されているデータは取捨選択され、必要なもののみを残し、あとは消去されるのだろう。


(多分、人格データと記憶は消されちゃうんだろうな……)


 レナータに蓄積されているデータやボディは必要でも、人格は残していても何の役にも立たない。記録は貴重でも、レナータの思い出には何の価値もない。実際、今のレナータはほとんどのデータを抜き取られ、その二つしか残されていない。


 だから、レナータにとっての死とは、記憶と人格データをこの世から削除されることだ。

 既に死は受け入れているものの、こうして物思いに耽るということは、レナータなりに思うところがあるのだろう。


 その時、ふと大聖堂の扉が開かれる微かな音が耳朶を打つ。

 最近では、レナータの元に訪れる科学者も次第に減ってきたところだったのだが、精査しているデータの中に、どこか分からないところでもあったのだろうかと、頬杖をつくのをやめて後ろを振り返る。すると、大聖堂の扉を押し開けた格好のまま、固まっている少年と目が合った。

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