悠久の少女

小鈴莉子

序章

人類の守り神

「――レナータ。君にはどうか、人類の黄昏を見届けて欲しい」

 

 今、レナータの目の前で、時折呼吸が止まってしまうほど衰弱した老人は、まだ喋ることができる余力があるうちに、何度もそう願った。


「……お父さん? お父さん!」

 

 ベッドに横たわっている、老いた父の息が止まる度に、声を張り上げて呼びかける。父の顔を覗き込んだ拍子に、レナータの長い白銀の髪がさらりと肩から零れ落ち、皺の刻まれた頬に触れる。

 そうすると、父――カミルは痙攣しているかのように瞼を震わせながらも、うっすらと目を開けてくれる。そして、レナータと同じマリンブルーの瞳に、娘の姿を焼きつけようとするかのごとく、じっと凝視してきた。

 呼吸は再開されたものの、またすぐにでも止まってしまうのではないかと思うほど、ひどく弱々しい。最早、力が入っていない父の手を、レナータはぎゅっと握り直す。

 

 父の片腕には、点滴が打たれているが、残された時間はもうそれほど長くはないだろう。なにせ、点滴を打ち始めて一週間が経つのだ。父に点滴を打ってくれた医師も、いつ死に至ってもおかしくはないと、レナータと顔を合わせる度に言っていた。

 

 父が、薄く唇を開ける。だが、そこから意味を成した言葉が零れ落ちてくることは、もうない。レナータの耳朶を打つのは、呻き声ばかりだ。

 それでも、カミルが何を言いたいのか、まだここまで衰弱する前の父が聞かせてくれた言葉から、ある程度推測できる。


「レナータ。私のことをお父さんって呼んでくれて、ありがとう」


 レナータは、カミルのことを父として慕っているし、自分はその娘だと思っている。それだけの時間を共に過ごし、本物の親子に負けないくらい、信頼関係も築いていった。

 しかし、カミルとレナータの本来の関係性は、親子ではなく、創造主と被造物だ。カミルはかつて科学者であり、高性能な人工知能を搭載した、バイオノイドを作り上げた。そのバイオノイド――限りなく人間に近い身体を持つロボットが、レナータだ。


 カミルの呻き声に耳を傾けているうちに、父との思い出が生体コンピュータの中を過っていく。


「レナータ。こんな私の傍にいつもいてくれて、本当にありがとう」


 カミルは若い頃に、パンデミックを引き起こすほどのウイルスのせいで、妻子を亡くしている。産まれてくるはずだった娘は、愛する妻と一緒に、この世界からいなくなってしまったのだという。

 だから、父は家族を失った悲しみを紛らわせようと、当時まだ製作途中だった、人工知能を搭載するためのバイオノイドの顔を妻に似せた。さらに、髪と瞳の色素を自分自身のものと同じにして、娘に授けようとしたレナータという名を、人工知能に与えた。


 自らの被造物に実の娘のような姿と名を与え、可愛がるカミルの姿は、周囲からすれば、正気の沙汰とは思えなかったに違いない。父の周りにはあまり人が寄り付かず、こうしていつ命が潰えるとも知れない今も、カミルの傍にはレナータしかいない。

 パンデミックで人類の大半が命を落としたとはいえ、カミルには生き残った親族がいる。その親族が繋いだ命だって、存在している。それなのに、レナータが父の余命が残り僅かだと伝えても、誰も駆けつけてはくれなかった。


「レナータ、私の可愛い娘。どうか……幸せになってくれ」


 娘の幸せを祈る声が耳の奥に蘇ってきた直後、また父の息が止まった。ゆっくりと瞼も下ろされ、マリンブルーの瞳が覆い隠される。


「……お父さん?」


 だから、もう幾度目になるか分からない呼びかけを、レナータも口にする。

 でも、父はついに何の反応もしてくれなくなった。何度呼びかけても呼吸は戻らず、握ったままの手を揺さぶっても、父はレナータにされるがままだ。


 それでも、父の手は未だ温かい。だから、一縷の望みに縋り、カミルの手から自分の両手を放し、心肺蘇生をしようと、膝立ちをやめて腰を上げ、ぐっと父の胸に両手を押し当てる。

 だが、いくら繰り返し心臓の鼓動を取り戻そうとしても、レナータの手のひらには脈が伝わってこない。父の唇の隙間から、か細い呼吸音らしき音が聞こえてくるが、これはただレナータが送り出している空気が行ったり来たりしているだけだ。

 震える両手を、そっと父の胸から離す。そして、父の手首を掴み、脈を測る。しかし、やはり手首からも血液が循環している動きは伝わってこない。最後の悪足掻きとばかりに、父の口元に耳を寄せても、何の音も聞こえてこない。


 ――父は、死んだのだ。


 そう認めるまでに、かなりの時間を要した。人工知能にあるまじき情報処理速度に、愕然とする余裕さえもない。


「……お父さん。貴方は本当に、最後までひどい人」


 すぐにでも医者を呼ばなければならないのに、親族に連絡をしなければならないのに、立っていることさえままならなくなったレナータは、膝から崩れ落ち、力なく床に座り込む。項垂れたレナータの視界には、床に広がる自身の銀髪が映る。


「人間がみんな死ぬまで、見守っていて欲しいって……私の稼働年数は千年もあるんだよ……?」


 父は、いつか人類は滅ぶのではないかと、予想していた。レナータも、今すぐ絶滅することはないだろうが、今の時代の人口を鑑みると、人間という種が絶えてしまったとしても不思議ではないと、可能性の一つとして導き出した。


 今までだって、パンデミックを引き起こすほどの猛威を振るうウイルスが、幾度となく様々な国に出現したのだ。一定の条件下で感染するものであれば、対処のしようもあるが、変異してさらに強力なものになってしまったら、今の時代に生き残っている人類だけでは、対抗できない可能性が高い。

 それに、人間の敵はウイルスだけではない。人災も天災も、起こり得る可能性は充分にある。そして、そのどちらもが、現在生存している人類を絶滅へと至らしめる、引き金となる危険性を秘めている。


 つまり、この地球上に人類が一人残らず消え去った後、レナータは途方もなく長い時の間、存在し続けなければならないのかもしれないのだ。


「それなのに、どうして……私に人の心を教えたの……?」


 分かっている。父が、自らの孤独を癒すためだけに、レナータを創り出したのだと、嫌というほど理解しているつもりだ。父にとって必要だったから、そうした。それだけの話だ。


「お父さんが、私を人間に近づけようとしなければ……大切な人が死ぬのは、こんなに悲しいことだって、知らなくて済んだのに!」


 俯いたまま、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいくうちに、いつしか感情が爆発した。

 そう叫んだ途端、喉がかっと熱を帯び、目頭も熱くなっていく。唐突に視界がたわんだかと思えば、雨垂れのように、レナータの目の縁から生温い滴が零れ落ちていく。

 ロボットであるはずの自分が、初めて涙を流したのだと理解すると同時に、くしゃりと表情が歪む。


「……幸せに、なれって……どうしろっていうの……」


 ――悲しい、苦しい、誰か助けて。

 そう叫び出したくてたまらないのに、声が喉に詰まって出てこない。涙があとからあとから溢れ出し、頬を濡らしていく。


 しばらく、声を押し殺して泣き続けていたレナータは、ゆっくりと顔を上げた。視線の先には、相変わらずベッドの上に横たわり、穏やかな死に顔を見せている、父の姿があった。


「……分かったよ、お父さん」


 込み上げてきた涙を手の甲でぐいっと拭い、まっすぐに父を見つめる。


「私は、人類が死に絶えるまで見守り続ける」


 ロボットは、人間の命令に逆らえない。そのことを、科学者だった父が、知らなかったとは思えない。

 だから、父が口にした数々の言葉は――願いであり、命令なのだ。


(……本当に、自分勝手な人)


 それでも、カミルの娘であり、その被造物であるレナータは、父の遺言に従わなければならない。


「だから、私は絶対に、お父さん以外に特別な人は作らない」


 大切な人が死ぬことは、ひどく悲しいことだ。でも、それは言い換えれば、大切ではない人が死ぬことは、それほど辛いことではないとも考えられる。


 父の遺言に従うのであれば、レナータはこれから先、多くの死を受け止めなければならない。その度に、いちいち胸を痛めていては、レナータに組み込まれているプログラムが、誤作動を起こす危険性がある。最悪の場合、故障してしまうかもしれない。

 だから、決して大切だと思える人間を作らぬよう、人類とは一定の距離を保つ必要がある。


「あと……ちゃんと、幸せにもなるよ」


 レナータは不老だが、不死ではない。いつか必ず、壊れる時が訪れる。そうしたら――先に、あの世に逝ってしまった父に、また会えるかもしれない。

 人間ではないレナータが、終わりを迎えたところで、父と再会できる保証なんてどこにもないが、僅かなりともその可能性があると考えれば、不思議と胸が温かくなっていくような気がする。


「だから……今だけは泣くことを、許して……」


 そう呟いたのも束の間、もう一度視界が涙で曇る。そして、目尻から生温かい液体が流れ出し、頬を伝い落ちていく。


 ――これが、人類の守り神が誕生した瞬間だった。

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