望まぬ未来
「……私は、間違えてしまったの?」
エリーゼの言葉にはっと我に返り、両手で覆い隠していた顔を慌てて上げる。レナータの泣き濡れた頬を、アーモンド形の目に映したエリーゼは、茫然とした様子で言葉を紡ぐ。
「私は……カミル=アードラーの愚行を、ずっと許せなかった。これだけ人間の女の子に近づけておきながら、人類の守り神なんて役目を押しつけたことが、許せなかった。そんな貴女を道具としてしか扱わなかった、歴代のアードラー一族の人間だって、そう。だから……せめて、最後くらいは、自分のことだけを考えて余生を送ってもらおうと思っていたのに……私の判断も、間違っていたというの?」
初めて、自らが名を連ねる一族を、エリーゼが嫌悪している本当の理由を知り、愕然と目を見開く。その拍子に、また目の縁から涙が流れ落ちていく。
でも、その衝撃以上に、感情がごっそりと抜け落ちたエリーゼの声に、恐怖を覚える。何故か嫌な予感も覚え、思わず一歩後退る。
「エリー……ゼ……?」
オリヴァーも、妻の異様な雰囲気から、ただならぬものを感じ取ったらしい。オリヴァーの片手が妻の肩に置かれようとした矢先、夫の手から逃れるようにエリーゼは動き出した。つかつかとレナータとの距離を詰めてくるエリーゼから、どうしてか目を離せない。身体も、その場で拘束されてしまったのではないかと錯覚するほど、ぴくりとも動かない。
それでも、レナータを捉えて離さない翡翠の眼差しから逃れようと、どうにか足を動かした直後、エリーゼの両手に肩を掴まれた。
「……ねえ、レナータ」
不意に、エリーゼの唇が笑みを象る。だが、その翡翠の瞳は全く笑ってなんかいなかった。その表情が恐ろしくてたまらず、今すぐにでもレナータの肩を掴む手を払い落としたいのに、凍りついてしまったかのように、目の前のエリーゼを凝視することしかできない。
「貴女――人間に生まれ変われるものなら生まれ変わりたいって、そう思わない?」
「――え……?」
エリーゼが何を言っているのか、すぐには理解できなかった。それは、オリヴァーも同じだったみたいで、瞠目したまま妻を見つめている姿を、視界の端に捉える。
「私ね、貴女の廃棄処分を進める傍ら、趣味で記憶や人格の移植の研究をしていたの。もし、この研究が成功すれば、死にかけの人間が健康な肉体で生き返ることができるかもしれない。クローンを作る技術は既に実現しているのだから、不可能ではないはずよ」
レナータの廃棄処分を行うためには、相応の時間と労力を払わないといけないというのに、その合間に個人的な研究を行っていたなんて、改めてエリーゼの優秀さを突きつけられた心地だ。
「でも、やっぱり人間の脳って、複雑ね。様々なハードルがあって、とてもではないけれど、実現可能にするには、まだまだ時間がかかりそうだわ。……でもね」
レナータの肩を掴むエリーゼの手にさらなる力が込められ、その指先が剥き出しの皮膚に食い込んでいく。普通の人間ならば、痛みに表情を歪めていたところだろうが、痛覚が鈍いレナータには、よく分からなかった。
「既にデータ化されている、貴女の記憶と人格なら……自我が芽生える前の赤ん坊の脳への移植が、可能かもしれない」
そう告げたエリーゼの視線は、自らの腹部へと落とされていた。その仕草だけで、エリーゼが何を言っているのか、否応なく理解してしまう。
レナータが口を開こうとした寸前、エリーゼの翡翠の眼差しがこちらへと戻ってきた。
「もし、私たちの子供が女の子だった場合……貴女の記憶と人格をこの子の脳に移植して、貴女を生まれ変わらせることができるかもしれない」
エリーゼの言いたいことは、薄々と察していた。だが、改めて言葉にされると、悪寒が背筋を撫で上げていく。
「エリーゼ……貴女、自分が何を言っているのか、分かっているの?」
レナータの唇から零れ落ちた声は、自然と恐怖にわなないていた。
「貴女、自分の手で自分の子供の未来を奪うっていうの? 私なんかのために? 私なんかを……延命させるためだけに?」
エリーゼの思惑を確かめるために、疑問を言葉にすればするほど、自分でも制御しきれない感情が胸の奥底から溢れ出してくる。
「――私は……っ! 誰かの未来を奪ってまで、自分が生きたいとは思わない! お願い、エリーゼ! 私に……貴女の子供の未来を、奪わせないで……っ!」
喉の奥から迸った声は、最早悲鳴そのものだった。
レナータがそう叫んだ途端、ようやくオリヴァーも正気を取り戻したらしく、急いでこちらに歩み寄ってくると、勢いよくエリーゼの肩を掴んだ。そして、レナータから強引に引き離し、無理矢理自分に向き合わせる。
「エリーゼ! レナータの言う通りだ! 君は、自分が何を言っているのか、何をしようとしているのか、全く分かっていない! せっかく授かった僕たちの子供を生贄に差し出して、レナータを蘇らせたところで、レナータが喜ぶと思っているのか? そんなもの、ただの君の自己満足だ!」
「……確かに、このお腹の中にいるのは、私たちの子よ。でも同時に、アードラー一族の血を引いた子でもあるわ。たった一人の未来を捧げることで、一族の罪を清算できるなら、安いものじゃない」
「罪を清算などと……馬鹿げたことを! 君がやろうとしていることは、罪に罪を重ねるだけの行為だ! いい加減、目を覚ませ!」
「目を覚ませ……? ……アードラー一族の人間でもない、ただの婿養子に過ぎない貴方に、私の何が分かるっていうの!?」
「ああ、分からないね! 自分の子供を平然と差し出せる女の気持ちなんか!」
怒声を飛ばし合う夫婦の姿を眺めているうちに、次第に感情の波が落ち着いてきた。平静を取り戻すのと同時に、目の前の夫婦が言い争っている原因が、自分にあることに罪悪感を覚え、衝動に駆られるまま手の甲で涙の痕を拭い、二人の間に割って入る。
「……ごめんなさい、エリーゼ。私が、間違っていた。子供を身籠って、精神的に不安定になっている貴女の前で、私は泣くべきじゃなかった。私のことは気にしなくていいから、私の記憶と人格データを今すぐ消して。……そうすれば、もう二人はこれ以上言い争わなくて済むでしょ?」
レナータが冷静な声で淡々と告げると、二人とも口を噤んでくれた。
そうだ、レナータが耐えればいいだけの話ではないか。今までだって、ずっとそうしてきたではないか。ただ、レナータが心を殺した果てに、何もないことだけがこれまでと違うだけで、あとは同じだ。
そう自分に言い聞かせながら、エリーゼをまっすぐに見据える。
「――エリーゼ。もしも、貴女たちの子供が女の子だった場合の話だけど……その子の脳に私の記憶と人格を移植して、成功したら、その後 はどうするつもりなの? 周りは、絶対に貴女と貴女たちの娘を放ってはおかないはず。それこそ、アードラー一族を始めとした、楽園の人間に利用されるだけなんじゃないの?」
人工知能の記憶と人格データを、人間の赤子の脳へ移植することに成功すれば、エリーゼは人類の科学力をまた一歩前進させた科学者として、偉業を成し遂げたといえるだろう。
しかし、きっとそれだけでは済まないはずだ。人間の欲望には、際限というものがない。ましてや、権力欲に溺れているといっても過言ではない、楽園の人間ならば尚更だ。エリーゼもその娘も、おそらく生涯に渡って利用され続けるに違いない。
エリーゼは、楽園の住人を嫌っている。アードラー一族に至っては、憎悪に近い感情さえ向けている。そんな彼らに利用され尽くす人生など、エリーゼは望まないはずだ。
だから、早く目を覚まして欲しいと願い、その可能性を提示したのに、何故かエリーゼは再度うっすらと微笑んだ。翡翠の瞳には、最早狂気に近い光が宿っている。
「……大丈夫よ、レナータ。それなら、母子ともに体調が安定してから、この楽園の外に逃げればいいだけよ。そうよ……そうすれば、いいんだわ。そうすれば……もう、アードラーの名に縛られなくて済む……!」
「罪を重ねるだけじゃなくて、レナータの人生を守ることを免罪符にして、全て投げ出して逃げ出すつもりなのか! エリーゼ!」
また声を荒げて怒鳴るオリヴァーに肩を強く揺さぶられても、エリーゼの唇からは微笑みが消えない。それどころか、譜言のように言葉を続けた。
「諦めない……絶対に、諦めてたまるものか」
その声は、普段のエリーゼのものよりも幾分か低く、さながら呪詛のごとく、するすると耳に纏わりついてくる。
――エリーゼは、本気だ。本気で、我が子の肉体を差し出し、その脳にレナータの記憶と人格を植え付けようとしている。
確信めいた予感が湧き上がってきた瞬間、もう一度背筋に震えが走った。
まさか、レナータが涙を流しただけで、エリーゼがこんなことを言い出してくるなんて、夢にも思わなかった。
(ねえ、エリーゼ……そんなに貴女にとって、アードラー一族の人間として産まれてきたことは、重荷だったの? アードラー一族の人間としての人生は、貴女にとって不幸なものだったの?)
本当はそう問いかけたかったが、今のエリーゼから真っ当な答えが返ってくるとは、到底思えない。だから、問いを口にする代わりに、心の底から切実に願う。
――どうか、エリーゼとオリヴァーの間に産まれてくる子供が、男の子でありますように。
そうすれば、さすがのエリーゼでも計画を実行に移すような真似はしないはずだ。
でも、いつの時代からか、アードラー一族は女系一族になっていった。どうしてか、産まれてくるのは女児ばかりで、一族の後継者となる女性が婿養子を取るのが、慣例になりつつあるほどだ。
「……だから、レナータ。待っていてちょうだいね。私たちの子供が産まれてくるまでの間は、今まで通り、余生を送ってもらっていて構わないわ。そうやって、自由な時間を過ごしながら、生まれ変われる時を待っていて」
男児が産まれてくるのか、女児が産まれてくるのか、その確率は半々のはずなのに、エリーゼは娘を産むのではないかという予感が、どうしても拭い去れなかった。
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