終わりと始まり

「……それじゃあ、一つだけ約束してくれる?」


 何故だろう。今、アレスの目の前にいるレナータは、確かに微笑んでいるはずなのに、どうしてか今にも泣き出しそうに見えた。


「うん、約束する」


 そんなレナータの顔を見ていたら、約束の内容を聞いてもいないというのに、気づけば力強く頷いていた。


「もし、アレスが大きくなって、大人になった時……私が困っていたら、助けてくれる?」


 そうアレスに問いかけてくる、透明感のある柔らかい声は、微かに震えていた。

 アレスはといえば、想像していた以上に簡単な頼みごとに、思わず目を丸くし、口をぽかんと開ける。


「……そんなことでいいのか?」


 約束という単語や、レナータの声音から、もっと難しいことを頼まれるのかもしれないと覚悟していただけに、肩透かしを食らった気分だ。

 呆気に取られつつも訊ねれば、レナータは小さく頷いた。


「……うん。だから……約束、してくれる?」


 右手の小指を差し出してきたレナータは小首を傾げ、おずおずと問いを投げかけてくる。


「うん、分かった。約束する」


 レナータが本当にそう望んでいるのならば、叶えたい。

 それに、アレスが大人になったらということは、これから先もこうしてずっと一緒にいてくれるに違いない。秋になったら、アレスは兄と同じ士官学校に入学しなければならないから、今みたいにレナータと会うのは難しくなるが、時間が許す限り、あの大聖堂に足を運ぼう。


 レナータの小指に、アレスの右手の小指を絡めると、軽く揺さぶられた。しかし、アレスの小指に絡められていたレナータの小指は、すぐに離れていってしまった。


「レナータ。まだぎゅってしてもらっていないから、今して」


 レナータのぬくもりがあっという間に離れていってしまった名残惜しさから、そう強請れば、何故か僅かに潤んでいるマリンブルーの瞳が一瞬見開かれた後、ふわりと笑み崩れた。


「……うん、そうだったね。今、ぎゅってしようね」


 繊細なレースが飾られた袖に覆われた腕が伸びてきたかと思えば、アレスをぎゅっと抱き竦める。いつもよりもずっときつい抱擁に、つい眉間に皺を寄せてしまったが、何だか今レナータから離れたら、アレスの目の前からいなくなってしまいそうな気がしたから、そっと華奢な背に腕を回し、抱きしめ返す。


 どうして、レナータは泣き出しそうな顔で、無理矢理微笑んでいるのか。自分から約束を持ちかけてきたのに、何故すぐに指切りをやめて しまったのか。どうして――こんなにも、縋るようにしてアレスを抱きしめてくるのか。


 どれだけ考えても、答えなんて出てこない。でも、今はレナータにその理由を訊いてはいけない気がする。

 だから、アレスを強く抱き竦めてくるレナータの背を、宥めるように優しく撫でる。すると、レナータは何故か背を震わせた。そんなレナータの姿は、涙こそ流してはいないものの、まるで泣いているかのようだった。



 ***



「――実はね、私のお腹の中に今、赤ちゃんがいるんですって」


 それは、夏に入ったばかりのある日のことだった。

 レナータは、急にエリーゼから話があると研究室に呼び出された。一体何事だろうと思っていたら、顔を合わせて早々、幸せそうに頬を薔薇色に染めたエリーゼにそう告げられたのだ。


 突然の告白に、すぐには反応できなかったものの、エリーゼの言葉の意味を理解していくにつれ、じわじわと喜びが湧き上がってきた。


「おめでとう、エリーゼ! オリヴァーも、おめでとう!」

「ありがとう、レナータ」


 エリーゼに寄り添うように立っていたオリヴァーにも、祝福の言葉を捧げれば、嬉しそうな、照れ臭そうなはにかみを見せてくれた。


 新しい命の誕生は、喜ばしいことだ。レナータは、数えきれないほどの死を見届けてきたが、同じくらい新しい命がこの世界に誕生する瞬間にも立ち会ってきた。だから、もう慣れてもおかしくないというのに、新しい命が生を授かる度に、自然と嬉しくなってしまうのだ。


「エリーゼ。今、妊娠何カ月目か聞いてもいい?」

「ええ、構わないわよ。今は、ちょうど二カ月目に入ったところよ。だから、三月の上旬頃が出産予定日になりそう」

「そうなんだ。……つわりとかは、大丈夫? そろそろ出始める頃じゃない?」

「うーん……今のところは、そういう症状はないわね。ただ、前より眠くなることが増えたから、自然と睡眠時間が長くなってしまったけれど」

「そっか……」


 レナータの身体は限りなく人間に近いものとはいえ、所詮バイオノイドだ。三千年の時を稼働していても、妊娠の経験は一度たりともない。だから、妊娠というものは知識でしか知らないが、つわりが重い人は相当な苦労を強いられると聞く。今はまだ、エリーゼがその苦しみを味わっていないと知り、内心安堵する。


「それにしても……あんなに小さかった二人が、こうして大人になって、結婚して夫婦になって、子供を授かるなんて……何だか、感慨深い なあ」


 直接的な関わりはなかったものの、レナータは幼い頃からの二人を一方的に知っている。レナータからすれば、人間の成長なんて、本当に瞬き程度の時間で進んでしまうなと、改めて痛感させられた。


 レナータがしみじみと感嘆の吐息を零すと、エリーゼが口元を片手で覆って噴き出した。


「やだ、レナータったら。それじゃあ、まるで貴女が私の母親みたいじゃない」

「気持ち的には、似たようなものだよ」

「……そうね。ずっと人類を見守ってきた貴女からすれば、私たち人類はみんな、貴女の子供みたいなものなのかもしれないわね」

「うんうん、そんな感じ」


 こんな考えは傲慢以外の何物でもないのかもしれないが、エリーゼの言う通り、この時代を生きている人類は、レナータ にとって、我が子みたいに感じられる。


 感傷に浸りかけたところで、ふと疑問が首をもたげる。


「おめでたい話を聞かせてもらったのに、水を差すようで申し訳ないけど……エリーゼ。プロジェクト・黄昏はどうするの? 一旦、手を引くの?」


 プロジェクト・黄昏とは、レナータの廃棄処分計画の名称だ。このプロジェクトは、アードラー一族が主導で行っており、特にエリーゼが先陣を切って進めてきた。エリーゼはいわば、このプロジェクトの最高責任者なのだが、このタイミングで妊娠が発覚したとなると、プロジェクトは一度中断されるのだろうか。


「……レナータ、単刀直入に言わせてもらうわね」


 エリーゼの少しふっくらとした柔らかそうな唇から零れ落ちてきた声は、神経質に尖っているように聞こえた。隣のオリヴァーの表情も、どことなく硬い。


 エリーゼはやや躊躇うような間を置いた後、意を決した面持ちで凛と告げてきた。


「――レナータ。貴女の廃棄処分に必要な作業は、あとは貴女の記憶と人格データをデリートするだけなの。だから……貴女には、できるだけ早く、この世界から消えてもらうことになるわ」


 エリーゼの言葉が鼓膜を貫いた刹那、時間が止まったかと思った。驚愕に目を見開き、息を呑んでいる間にも、皮肉にも理解だけは進んでいく。


(そっか……私の最期は、もうすぐそこまで来ているんだ)


 かつてあれほど望んだ死を迎えられると知っても、嬉しくも何ともない。だが、去年の春の時みたいに、無感動でもいられなかった。


(どうしてかな。先はそんなに長くないって、知っていたはずなのに)


 それなのに、さながら走馬灯のごとく、突如としてアレスと過ごした日々の記憶が生体コンピューターの中を駆け巡っていく。


 アレスと一緒に遊んで、楽しかった。心を震わせるような出来事もたくさんあって、嬉しかった。日々成長していくアレスを、近くで見守ることができて、幸せだった。


 だから、もう充分だと満足しなければならない。幸せで豊かな余生を送れたことに、感謝しなければならないくらいだ。これ以上、多くを望まないように己を戒めるため、アレス相手に慣れない嘘だって吐いたではないか。


「……ふっ……くっ……」


 だというのに何故、目頭と喉に熱いものが込み上げてくるのだろう。じわりと視界が滲んだと思った次の瞬間には、目の縁から涙が溢れ出していた。唇の隙間から、嗚咽が漏れ出していた。


 どうして、他の人間の生涯を見守ることはできたのに、よりによってアレスの未来を見届けることは叶わないのか。この身体は、限界を迎えようとしているのか。


 本当は、アレスが少年から青年へ、大人へと成長し、やがて老い、その生涯を閉じるまで、見守りたかった。本当は、もっとアレスと一緒にいたかった。


 滲む視界の中でも、エリーゼとオリヴァーが驚き、目を見張るのが分かった。

 当たり前だ。ただの人工知能に過ぎないレナータが、自分たちの目の前でいきなり泣き出したのだから、不意を突かれてしまったに違いない。


 だから、早く泣き止まなければならないのに、あとからあとから涙は溢れ、目尻からぽろぽろと零れ落ちていく。声を押し殺すことには何とか成功したが、それでも時々嗚咽が漏れてしまう。

 せめて、これ以上彼らに涙を見られぬよう、咄嗟に俯いて顔を両手で覆う。しかし、指の隙間から涙が流れ落ちていくことは、止められなかった。


 先程までは、あんなにも満たされた空気が流れていたというのに、レナータが突然泣き出してしまったせいで、そんなものはとっくに霧散してしまっていた。早く、早くと急くほどに、涙が止まらなくなっていく。


 レナータがどれだけ必死に噛み殺そうとしても、完全には消しきれなかった嗚咽だけが研究室の空気を震わせてから、どれほどの時間が経ったのだろう。何の前触れもなく、エリーゼの声が静寂を打ち破った。

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