その瞳に映して

「――ア、アレス! お願い、ちょっと立ち止まって……っ!」


 息を荒げたレナータの声が背を打ち、慌てて後ろを振り返れば、苦しそうな表情が視界に入り込んできた。

 言われた通りに急いで立ち止まると、レナータは前屈みになっていた背を伸ばし、ほっと胸を撫で下ろした。


「……大丈夫?」


 アレスと外で遊んでいる姿を見た限りでは、レナータの運動能力は決して低くない。むしろ、レナータは体力があるし、駆け足も速い方だと思う。


 もしかして、アレスが思っていた以上にスピードが出ていたのかと考えていたら、弾んだ息を整えていたレナータが、苦笑いを浮かべた。


「……ごめんね。腰を屈めた状態で走ると、結構疲れるのが早いんだよね」

「そうだったんだ……。ごめん、どんどん引っ張っちゃって」

「ううん、私には謝らなくていいんだけど……早くあそこに戻って、お兄ちゃんに謝ろう? リック、びっくりしていたでしょ?」

「やだ」


 あそこと、大聖堂を指差し、アレスに戻るように促してきたレナータに、きっぱりと拒絶の意思を告げる。すると、レナータはその場にしゃがみ込み、アレスに目線を合わせて小首を傾げた。


「……アレスは、お兄ちゃんのことが嫌いなの?」

「嫌いじゃないけど、レナータを横取りしようとするリックは、大っ嫌い」

「私を横取りって……」


 アレスの返事に、レナータはもう一度苦い笑みを零す。でも、これがアレスの嘘偽りのない本音だ。

 それに、兄だってきっとアレスと同じ気持ちだろう。


 元々、リヒャルトとの兄弟仲は特別良くもなかったが、特別悪いわけでもなかった。母に頼まれているからというのが大きいだろうが、兄はアレスの面倒をよく見てくれていたと思う。

 だが、兄がレナータと出会ってから、確実に兄弟仲は悪化の一途を辿っている。兄がレナータに会い、うっかり惚れなければよかったのだと、リヒャルトにとって理不尽な結論を出す。


「それに、レナータ」

「ん?」

「俺のプレゼントで作ったものを、リックにあげようとしたのも、嫌だった。レナータが作ってくれたものを食べるのは、俺とレナータだけがいい」


 アレスの言葉に、レナータは目を丸くし、ぽかんと口を開けた。しばらく、まじまじとアレスの顔を凝視していたレナータは、唐突に口元を片手で覆って噴き出した。


「なあに、アレス? お兄ちゃんに、やきもち焼いていたの?」

「うん」


 間髪入れずに首肯すれば、レナータはくすくす笑みを漏らした。


「そっかあ、妬いていたのかあ。それなら、しょうがないね」

「うん。だから、今日はもう大聖堂には戻らない」

「じゃあ、今日は二人でのんびり、お庭の散歩をしよっか。それで、菫の砂糖漬けは明日、二人一緒に食べよう?」

「うん!」


 アレスが力強く頷くのとほぼ同時に、しゃがみ込んでいたレナータは立ち上がる。それから、レナータがアレスに向かって手を差し伸べた途端、今、一番聞きたくない声が耳朶を打った。


「おい、アレス! お前、何を勝手に――」

「――レナータ、逃げるぞ!」


 アレスへと差し出されていた手を咄嗟に掴み、再び全速力で走り出す。しかし、今度は即座に手を振り解かれてしまった。

 驚いて振り向けば、レナータはアレスと手を繋がずとも、並んで走っていた。


「この方が、スピード出せるから、このまま一緒に逃げよう!」


 大聖堂に戻ろうと言い出してきた時とは打って変わり、アレスの隣で走っているレナータは悪戯っぽく微笑んでいる。アレスと二人きりになろうと、努力してくれているレナータの姿が嬉しくて、大きく頷く。


「レナータ、こっち!」

「うん!」


 アレスの先導に従い、レナータは古城の庭を駆け抜けていく。途中ですれ違った研究員に、一体何事かと言わんばかりの奇異の目を向けられたが、二人とも気にせず、追っ手から逃れるためにどんどんと進んでいく。


 すると、緑が生い茂った区画があり、二人は迷わずそこに飛び込む。


「ここに隠れていれば、しばらくは見つからないと思う」


 アレスとしては、もう少し逃避行を楽しんでいてもよかったのだが、さすがにレナータを走り通しにさせるのは、可哀想だ。

 そう思い、隣にしゃがみ込んだレナータを見遣れば、マリンブルーの瞳は真剣に周囲の様子を探っていた。


「……うん、そうだね。リックは、まだこの辺りに来ていないみたい」


 ここは、城の敷地の中でも奥の方に位置している場所だから、もしかしたらリヒャルトは躊躇してここまで来ないかもしれない。

 でも、油断は禁物だ。しばらくは、ここで身を潜めて身体を休ませ、相手の出方を窺った方がいいだろう。


 アレスが深く息を吐き出すと、心配そうな面持ちのレナータに顔を覗き込まれた。


「……アレス、もしかして疲れちゃった? 喉、渇いていない?」

「ううん、疲れていない。喉は……ちょっと渇いたから、もう少ししたら何か飲みたい」

「そっか。じゃあ、もう少しここで休んだら、リックに見つからないように移動しよっか。そうしたら、研究員の人たちがコーヒーブレイクする時に使う場所で、アレスの好きな飲み物を買ってあげる」


 にっこりと微笑んだレナータが告げた言葉により、やはりアレスはまだまだ子供なのだと、改めて思い知らされる。


 もし、アレスがもう少しレナータの外見年齢に近い年頃であったならば、飲み物を買ってあげるという発言は、出てこなかったに違いない。きっと、それぞれ自分の分は自分で購入しただろう。いや、もしかすると、アレスがレナータに奢ったかもしれない。


「……うん、ありがとう」


 そんなことを考えていたから、答えるまでに時間がかかってしまった上、声にも覇気がなくなってしまった。すると、案の定、レナータが再度心配そうに表情を曇らせた。


「アレス?」

「……なあ、レナータ」

「ん? なあに?」

「俺に、何かして欲しいことある?」


 アレスの問いは、レナータにとって予想外のものだったに違いない。目の前のレナータは、虚を突かれたかのごとく、瞠目している。

 だが、レナータは驚きつつも、アレスの質問に真剣に答えてくれた。


「うーん……私は、アレスが毎日のように会いにきてくれるだけで、充分過ぎるくらい、嬉しいからなあ……。これ以上、アレスに何か望む のは、さすがに贅沢だよ」

「そんなことない」


 間髪入れずに否定したアレスに、レナータはもう一度驚きに目を見開く。


「そんなことないから、何でも言って欲しい。そうしたら、レナータは俺だけを見てくれる? 俺のこと、もっと考えてくれる? さっきみたいに――」


 ――アレスの存在をいないもののように扱い、兄との話に花を咲かせることもないのだろうか。


 そう言いかけたところで、咄嗟に口を噤む。さすがにそこまで言ったら、レナータを困らせてしまうだろう。


 突然黙り込んだアレスを不思議そうに見つめていたレナータは、不意に優しい笑顔を見せてくれた。


「……アレスは、やきもち焼き屋さんなだけじゃなくて、独り占めしたい気持ちが人一倍強いんだね」

「……それは、悪いこと?」

「うーん、悪いことじゃないんだけど……人によっては、困っちゃうかもね。受け取り方は、人それぞれかな」

「レナータ、困っている?」

「ううん、私は困っていないよ。むしろ、こんなに一生懸命になってくれているアレスを、可愛いなあって思っているよ」


 にこにこと楽しそうに笑うレナータが、白くて華奢な指先でアレスの頬を突いてきた。ふにふにとアレスの頬の感触を味わっているレナータの頬が、ますます緩んでいく。


「じゃあ、俺にして欲しいことがあったら、何でも言って」


 逸る気持ちを抑えながら、再びレナータの願いを引き出そうとしたら、目の前に迫っている笑顔が急に消え、難しい表情に変わる。同時に、アレスの頬に触れていた指先が、すっと引っ込められた。間違いなく、アレスへの返事を考えてくれているのだろう。


 二人の間に、沈黙が落ちる。風に煽られた植物の葉擦れの音が、静かな空気を震わせる。


 しばしの静寂の末、レナータはまた微笑みを浮かべ、口を開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る