三章 黄昏の願い
先手必勝
「へえ。リックは、演劇に興味があるんだね。その歳ですごいなあ。観ていて、眠くならない?」
「観劇は、母の趣味ですから、俺も弟もよく連れていかれるんです。……面白いと思えるようになったのは、本当につい最近の話ですよ。ついこの間までは、退屈で仕方がなかったです」
「台詞回しが独特だし、役者さんが突然歌い出したりすることもあるもんね。ここ最近で観て、面白いって思った作品って、ある?」
「そうですね……個人的には、シェイクスピアのハムレットが面白かったです」
「シェイクスピア! その歳で、シェイクスピアのよさが分かるなんて、リックは感受性が豊かだなあ」
「……そうでしょうか? 主人公の行動原理が、とても分かりやすかったので、感情移入がしやすかっただけですよ」
「確かに、いつの時代でも、どんな人でも、大切な人を失うのは、辛いことだもんね。共感しやすいよね」
「ちなみに、レナータさんのおすすめとか、あります?」
「もうっ、私にさん付けなんて、しなくていいのに。……うーん……シェイクスピアの作品だと、ロミオとジュリエットかなあ」
「え? あれ、好きなんですか?」
「うん。ロミオもジュリエットも、馬鹿だなあって思うところは、あるにはあるんだけどね。なんていうのかなあ。あそこまで馬鹿になれるような恋をできるって、ある意味幸せだなあとも思うの」
「そうなんですね……今度、機会があったら、もう一回観てみようかな」
「じゃあ、その時は感想教えてね」
「はい、もちろん」
――レナータの誕生日から、数週間が経過していた。今日も晴天が広がり、清々しい空模様だというのに、アレスの心の中には暗雲が立ち込めていた。
(なんで、リックとばっかり話しているんだよ……)
リヒャルトが現れるまで、アレスはいつものように、レナータと長椅子に並んで腰かけ、楽しく雑談をしていた。
だが、まだ明るい時間帯だというのに、兄はアレスの迎えにきたと、この大聖堂に訪れたのだ。そして、せっかくだからとレナータに誘われ、リヒャルトも会話の輪に加わったのだが、先程からレナータと二人で話し込んでいる。
演劇のよさなんて、まだ六歳のアレスには分からない。だから、二人の話に入ることができない。
(レナータに深入りするなって、俺には言ったくせに……)
それなのに、あれ以降、兄もこうして時折、レナータのところに足を運ぶようになった。十一歳のリヒャルトは、士官学校に通っているから、アレスほど頻繁ではないものの、レナータと交流を持つようになってしまったのだ。
じっとレナータを見つめても、マリンブルーの眼差しは兄に注がれたままだ。ちらりとも、アレスを見ようともしない。
そのことが、非常に悔しくて、隣に座っているレナータの腰にぎゅっとしがみつく。
「わっ! びっくりした……アレス、どうしたの? もしかして、今日は甘えたい気分なのかな?」
こちらへと振り向いたレナータは、驚きに目を見張ったのも束の間、すぐにふわりと柔らかく微笑み、腰にしがみついているアレスの頭を、優しく撫でてくれた。
「こら、アレス。何やっているんだよ」
「いいよ、このくらい可愛いものだよ。アレス、どうする? 今日も、膝枕してあげようか? それとも、ぎゅってして欲しい?」
リヒャルトの咎めるような声をレナータは軽くあしらい、アレスに甘い誘いを持ちかけてきた。レナータの、少しふっくらとした柔らかそうな唇に浮かぶ微笑みも、アレスを捉えるマリンブルーの眼差しも、蕩けそうなほど甘い。
膝枕か抱擁かなんて、究極の二択だ。どちらもとせがんだら、さすがにレナータを困らせてしまうだろうか。
「……どっちもって、言ったら?」
試すように問いかければ、レナータの唇から軽やかな笑い声が零れ落ちてきた。
「もう、アレスは甘えん坊さんで、欲張りさんだなあ。よし! 今日は特別に、リクエストにお応えしちゃおう! まずは、どっちがいい?」
「じゃあ、膝枕」
「はい、いつでもどうぞ」
レナータがスカートの皺を伸ばし、整え終えたところで、迷わずそこに頭を乗せ、長椅子の上で仰向けに寝転ぶ。レナータの足は決して太いというわけではないのに、太ももは弾力があって柔らかく、布越しでも触り心地がいい。
「寝心地はいかがですか?」
レナータに顔を覗き込まれた拍子に、白銀の長い髪がその華奢な肩からさらりと零れ落ち、アレスの頬をくすぐる。
「うん、最高」
「それは、よかった」
レナータは安心したとでも言わんばかりに、にっこりと微笑み、アレスの頭が落ちないように左手を添えてくれた。それから、右手でアレスの頬をぷにぷにと突いてくる。
レナータの意識を兄からアレスへと完全に移行させることに成功し、満ち足りた気持ちで現状を堪能していたら、不意に強い視線を感じた。
一旦、レナータの手から逃れ、身体を反転させてうつ伏せになると、凄まじい形相でアレスを睨み据えてくる兄と、目が合った。
「なに?」
兄の心情は薄々と察しているが、レナータを渡すつもりは微塵もない。しれっと嘯くアレスを目の当たりにした兄が、奥歯を噛み締める音が、今にも聞こえてきそうだ。
「あ、そうだ。あのね、アレス。アレスがプレゼントしてくれたブーケの中に、菫の花が入っていたでしょ? しばらくは部屋に飾って楽しんでいたんだけど、お花が枯れる前に菫の砂糖漬けを作ってみたの。初めて作ったんだけど、結構おいしくできたから、よかったら食べない? お湯に入れて飲んでも、おいしいって聞いたから、ちょっとティーセットの用意をしてくるね」
レナータは、兄弟の間に流れる不穏な空気を、敏感に察したのだろう。場の空気を変えようとしているのか、いつも以上に明るい声を出し、お茶にしないかと提案してきた。
レナータからの誘いは魅惑的だったが、アレスのプレゼントで作ったものを、兄にもあげるつもりなのかと思うと、気に入らない。
むっと眉根を寄せていたら、レナータが膝からアレスを下ろそうとしてきた。
「アレス、ちょっとごめんね。お茶の用意をしたいから、退いてもらってもいいかなあ?」
ここに兄がいなければ、喜んで退いていた。それだけではなく、自分にも何かできることはないかと、レナータの周りをうろついていたかもしれない。
しかし、このままでは三人でお茶という、アレスにとって不本意な時間を過ごす羽目になってしまう。どうにかして、現状を打開できない かと、思考を巡らせる。
(……そうだ)
ふと、ある妙案が脳裏に閃いた直後、困ったように眉尻を下げたレナータがアレスの肩を軽く揺さぶってきた。
「アレス、お願い」
「うん、分かった」
アレスが素直に頷くと、レナータはほっと安堵に表情を緩めた。自分からレナータの膝から下りたアレスは、その流れで立ち上がる。そして、アレス同様、長椅子から腰を上げたレナータの右手首を素早く掴み、急いでその場から駆け出した。
「え? ちょっと、アレス?」
「おい、アレス!」
戸惑うレナータにも、怒声を発した兄にも構わず、アレスは大聖堂の扉を目指して走っていく。そっと背後を見遣れば、アレスに手首を掴まれたままのレナータが、困惑しながらもついてくる姿が視界に映る。
兄を含めた三人で過ごすのが嫌ならば、強引にでもアレスとレナータの二人きりになればいいのだ。どうして、そんな簡単なことがすぐに思いつかなかったのか、我ながら不思議で仕方がない。
一刻も早く二人きりになるためにも、大聖堂の扉を開け放ち、レナータを外の世界へと引っ張り出した。
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