翡翠の瞳

(レナータ、どこに行っちゃったんだろ)


 今日もいつも通り、レナータに会いにきたのだが、橋のところには待ち人の姿はなかった。大聖堂に顔を出しても、その姿は見つからず、あちこち捜し回っているものの、未だにレナータに会えない現状に、歯がゆさを覚える。


 普段、レナータと一緒に遊ぶ場所は一通り見て回ったが、そこには探し人の姿はなかった。


(レナータ、急な仕事が入ったのか?)


 レナータは時々、科学者の研究を手伝うことがあるのだと、前に聞いたことがある。

 ならばと、研究室が並んでいる区画に足を踏み入れる。


 ここは、別に立ち入り禁止区域ではないし、もし早く出ていくように言われたら、その人にレナータの居場所を訊けばいいのだ。以前、オリヴァーという名前の優しそうな研究者が、親切にレナータを呼びにいってくれたことがあるくらいなのだから、そう邪険には扱われないだろう。

 そう思い、なるべく静かに歩いていたら、唐突にどこからかすすり泣く声が聞こえてきた。


(……レナータ?)


 グラディウス族であるアレスの聴覚は、常人よりも遥かに鋭い。それこそ、まるで犬みたいだと、母にからかい交じりに評されたことがあるほどだ。

 それに、毎日のように聞いているレナータの声を、アレスが聞き間違えるはずはない。


 できるだけ足音を立てないように気をつけつつも、レナータのすすり泣く声が聞こえてきた部屋の扉へと駆け寄っていく。それから、その研究室の扉に耳を押し当て、室内の様子を探る。


 本当は、今すぐにでもこの部屋の扉を開けたかったが、研究室の扉は使用者の許可が下りなければ、開かない仕組みになっているのだと、母が教えてくれたことがある。それに、たとえ扉にロックがかかっていなかったとしても、部外者であるアレスが部屋の中に飛び込んだところで、即座につまみ出されてしまうに違いない。


 そんなことを考えながら、逸る気持ちを抑えて耳を澄ませていると、レナータではない女性の声が不意に鼓膜を揺さぶった。


「……ねえ、レナータ。貴女――人間に生まれ変われるものなら生まれ変わりたいって、そう思わない?」


 その言葉が耳朶を打った刹那、咄嗟に息を呑んだ。


 この人は、一体何を言っているのか。まだ子供であるアレスには、欠片も理解できなかった。


 だが、話が進んでいくにつれ、先刻の女性は文字通り、レナータを全く別の人間として生まれ変わらせるつもりなのだと、徐々に理解できるようになってしまった。そして――そもそも、レナータの寿命はもうそんなに長くはなかったのだとも、分かってしまった。


(なにが……俺が大人になったら、助けてくれる? だ)


 アレスが大人になる頃には、レナータはとっくにこの世界からいなくなってしまっているではないか。あの時、嘘を吐いたから、あんなにもレナータに違和感を覚えたのかと、今さらながら気づかされる。


 何故、レナータがそんな嘘を吐いたのか、アレスには知る由もない。どんな思いで、隠し事はしても嘘は吐かなかったレナータが、その言葉を口にしたのか、アレスは知らない。


 しかし、レナータがそう長くは生きられないのだと分かっていたら、最初から教えてくれればよかったのにと思う。


 そうしたら、もっとレナータの願いを聞き出し、叶える努力をしたのに。アレスの欲求ばかり押しつけるような真似は、しなかったのに。

 もっと――レナータが少しでも後悔を残さずに済むよう、協力できたかもしれないのに。


「――私は……っ! 誰かの未来を奪ってまで、自分が生きたいとは思わない! お願い、エリーゼ! 私に……貴女の子供の未来を、奪わせないで……っ!」


 レナータの悲鳴じみた懇願の言葉が鼓膜に突き刺さった途端、ぎりっと奥歯を噛み締めた。


(そうだ……レナータは優しいから、誰かを犠牲にしてまで、自分が生き延びようとは思わないよな)


 レナータが、この世界からいなくなってしまったら、寂しいし、悲しい。でも、本人の望まぬ形で生まれ変わったとして、レナータは幸せだといえるのだろうか。


 そもそも――全くの別人として、生まれ変わってしまったら、その女の子は本当にレナータだといえるのだろうか。アレスがその女の子と会ったところで、レナータだと確信できるのだろうか。


 それに、生まれ変わったレナータが、アレスのことを忘れてしまう可能性だってある。人間の脳にレナータの記憶を入れるといっても、アレスとの思い出が零れ落ちてしまうことだって、考えられる。そうしたら、その女の子はもうアレスが知っているレナータと同一人物とはいえない。


 そこから先も、何やら会話が続けられていたが、よく覚えていない。


 ふと、言葉が途切れたかと思えば、室内からこちらへと近づいてくる足音が聞こえてきた。ヒールの高い靴を履いている女性特有の、硬質で高い音だから、おそらくレナータではない。レナータは毎日ドレスを着ているが、履いている靴はバレエシューズによく似た形のものだから、こんな足音は聞いたことがない。


 ここで聞き耳を立てていたことを知られてしまったら大変だと、すぐさま研究室の扉から離れる。もしも、このことを知られてしまったら、どんな目に遭うか分かったものではない。もしかしたら、母や兄にも迷惑をかけてしまうかもしれない。


 だから、急いでその場から走り去ったのだが、アレスが駆け出してすぐに、先程まで張りついていた研究室の扉が開かれる音が、鼓膜を震わせた。それでも、振り返らずに走り続けていたら、後ろから先刻と同じ足音が聞こえてきた。

 早足で追いかけられていると分かっても、のんきに立ち止まって振り返るわけにはいかない。


 だが、大人と子供では歩幅が圧倒的に違う。瞬く間に追いつかれ、後ろから肩を掴まれた。


「――逃げないで。貴方に……話があるの」


 やはり、背後から聞こえてきた声は、レナータのものではない。


 誰がアレスの肩を掴み、この場に引き留めているのか確かめるため、おそるおそる後ろを振り返る。すると、感情が読めない翡翠の瞳が、アレスを見下ろしていた。


 咄嗟に口を開いたものの、声が喉の奥に絡みつき、何の言葉も出てこなかった。それでも、アレスをひたと見据えてくる翡翠の眼差しから目を逸らしてなるものかと、真っ向から見つめ返す。


 扉越しに聞こえてきたレナータの言葉から察するに、おそらく目の前の女性がエリーゼなのだろう。もう一人分の声も聞こえてきたが、そちらは男性のものだった上、前にアレスに親切にしてくれたオリヴァーという男性の声とよく似ていたから、この予想は外れていないはずだ。


 翡翠の眼差しと琥珀の眼差しが絡み合ってから、どれほどの時間が経過したのだろう。十中八九、それほど時間は経っていないはずなのだが、アレスにとってはやけに長く感じられた。


 すると、突然エリーゼと思しき女性に、右手首を掴まれて引っ張られた。そのまま、近くにあった誰も使用していない部屋の中へと、強引に押し込まれた。


 ここは、きっとミーティングルームと呼ばれる部屋に違いないと、内装から察する。翡翠の瞳の女性は、ようやくアレスの手首を解放し、部屋の灯りも点けないまま、口を開いた。


「……いきなり、ごめんなさいね。初めまして、私はエリーゼ=アードラー。貴方は、アレス=ヴォルフで間違いないわね?」

「……はい、初めまして」


 やはり、この女性がエリーゼだったのかと思いつつも、慎重に頷く。


「さっきの話……聞いていたわよね?」


 何の前置きもなく、単刀直入に訊ねられ、つい言葉に詰まる。

 何のことかと白を切るか、素直に認めるか、一瞬判断に迷ったものの、再びおずおずと首肯する。


 エリーゼは質問という形こそ取っていたものの、その声音は確信めいていた。ここで下手に誤魔化そうとしたら、かえって事態が悪化しそうな、緊迫とした雰囲気が漂う中、言葉を取り繕うほど、アレスは愚かではないつもりだ。


 アレスが正直に頷いた直後、エリーゼの少しふっくらとした柔らかそうな唇が、ふっと綻んだ。きつい印象を与える目元を除けば、エリーゼの顔立ちはレナータにそっくりだと、場違いなことを考える。


「安心して、そのことを咎めるつもりはないわ。もちろん、盗み聞きをしたことは、褒められたことではないけれどね。ただ……そんな貴方に一つ、お願いをしたくて」

「……お願い?」


 言葉を反芻したアレスに、エリーゼは大きく頷いた。

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