魔女の囁き

「ええ、お願い。さっきの話を、誰にも言わないで欲しいの。さっき聞いたことを言いふらしたりしないって、約束できる?」


 エリーゼの言葉を耳にした瞬間、なんだ、そんなことかと、肩から余計な力が抜けていった。


「うん、絶対に誰にも言わない」


 こんなことを知られたら、もしかするとレナータがすぐにでも処分されてしまうかもしれない。正直、エリーゼがどうなろうとも、アレスの知ったことではないが、レナータに何かあったら嫌だ。


 アレスが即座に頷くと、エリーゼはさらに表情を緩めた。


「ありがとう。それと……ちょっと聞かせて欲しいことがあるのだけれど、構わないかしら?」


 ふと、エリーゼの猫みたいな目が、すっと細められた。先程まで唇に浮かんでいた微笑みが消え、冷ややかな翡翠の瞳がアレスを見下ろしてくる。


「貴方が……レナータの未練の正体なのでしょう?」


 アレスが返事をする暇も与えず、エリーゼが氷のごとく鋭く冷たい声で問いを投げかけてきた。いや、質問というよりも、確認といった方が正しいのかもしれない。


 エリーゼの問いに、アレスは咄嗟には答えられなかった。


 レナータがどうして泣いていたのか、断片的にしか話を聞いていないアレスには、分かりようがない。ただ、それでも聞き取った限りの情報から考えると、廃棄処分されることを悲しんだレナータが涙を流し、その姿を目の当たりにしたエリーゼが、先刻の生まれ変わりの話を持ちかけたのではないかと、推測できる。


 しかし、だからといって、アレスがレナータの未練なのかと問われても、やはり確信は持てない。アレスはレナータではないのだから、分からなくて当然だというのに、何故エリーゼはそんなことを訊いてくるのか。


 アレスが押し黙っていると、エリーゼは深い溜息を吐いた。


「貴方と会うようになってからね、あの子……レナータは、前よりずっと明るくなったのよ。元々、明るい性格ではあったけれど、それでも 貴方と一緒に過ごすようになってから、あの子は毎日生き生きとしていたわ。それこそ、本物の人間と見分けがつかなくなるくらい。だから、私もそんなレナータの変化を喜ばしく思っていたのだけれど――まさか、未練を残すくらい、貴方に入れ込むなんてね」


 アレスを見下ろすエリーゼは、よくも余計な真似をしてくれたなとでも言いたげに、忌々しそうに目元を歪めた。アレスを睨み据えてくるエリーゼは、さながらお姫様を苦しめる、悪い魔女みたいだ。


「あの子には、私が子供を産むまでの間、今まで通り、自由にしてもらって構わないって、伝えておいたわ。だから、貴方も今まで通りにしてくれて、構わない。むしろ、貴方が変にあの子を避けたりしたら、何かあったのではないかと、不審がるでしょうしね。あの子、結構勘が鋭いところがあるから。――でもね」


 そこまで言ったところで、エリーゼはその場で身を屈め、アレスに目線を合わせてきた。


 レナータにも、時折こうして顔を覗き込まれることがあるが、それはアレスに歩み寄ろうとしてくれている時だ。アレスと同じ目線に立ち、少しでも理解しようと努力してくれている証だ。

 決して、こうして自分の言葉を無理矢理押しつけようと脅すため、レナータに顔を覗き込まれたことなど、一度たりともない。


「そこで、貴方とレナータの関係は、おしまい。もし、あの子を私たちの娘として生まれ変わらせることに成功したら、私たちはあの子を連れて、ここを出ていく。だから、あの子とこれから先も一緒にいたいなら、貴方もここから出ていく必要があるのだけれど……あの子のためだけに、家族を、故郷を捨てることなんて、貴方にはできないでしょう?」


 底意地の悪い笑みの形に唇を歪め、アレスを何もできない子供だと嘲るエリーゼは、本当に魔女そのものだ。


「だから、レナータのことは諦めなさい」


 嘲笑交じりに告げられた言葉が耳朶を打った刹那、心底腹が立った。眉間に深い皺を刻み、すぐ目の前にある翡翠の瞳を睨みつける。


 アレスを完全に侮った物言いも態度も、癇に障ったが、それ以上にレナータにあんなに悲痛な声を出させておきながら、まるで自分こそが正しいのだと言わんばかりの姿勢を崩さないエリーゼに、怒りが込み上げてくる。


 でも、アレスがここで何を言っても、きっとエリーゼには届かないのだろう。そのくらいは、子供であるアレスでも、何となく分かった。


 だから、その代わり、腹の底から湧き上がってきた怒り全てを視線に乗せ、エリーゼを睨み据える。

 だが、エリーゼは特に表情を変えないまま、ゆっくりと立ち上がった。


「――さあ、話はこれでおしまい。もう出ていって構わないけれど、さっきの約束、忘れないでちょうだいね」


 立ち上がったエリーゼは、まるで何事もなかったかのように、にっこりと微笑む。その笑顔も、やはりどことなくレナータに似ているのに、 可愛いとも、綺麗とも、砂粒ほどにも思えなかった。レナータの笑顔を清純な白薔薇にたとえるならば、エリーゼの笑顔は毒々しく咲き誇る赤薔薇みたいだ。


 エリーゼを無言で睨みつけていたアレスは、翡翠の瞳から顔を背け、薄暗い部屋の外へと飛び出した。


 ――早く、レナータに会いたい。


 ただその一心で、きっとレナータがいるであろう、大聖堂を目指して廊下を駆け抜けていった。



 ***



 大聖堂へと辿り着き、その重厚な扉を押し開ければ、案の定、レナータはそこにいた。アレスがレナータと初めて会った日同様、こちらに背を向けて長椅子に腰かけ、ステンドグラスを見上げている。そして、やはりあの日と同じように、ゆっくりとこちらを振り返った。


「……アレス、こんにちは」


 アレスと視線が交錯したレナータは目を丸くしたのも束の間、すぐにふわりと微笑んだ。しかし、レナータの目元はうっすらと赤くなっており、涙の痕跡を手で乱暴に擦ったのだろうと、窺い知ることができた。


 緩慢とした動作で長椅子から腰を上げたレナータの元に、急いで駆け寄っていく。


 普段ならば、アレスが走り寄っていくと、レナータも早く距離を詰めようと、近づいてくる。でも、今日は走ってくるアレスをぼんやりと眺めているばかりで、レナータの反応も動きも鈍い。


 アレスがレナータのすぐ目の前で立ち止まるなり、どこか虚ろなマリンブルーの眼差しを注がれた。そして、アレスと目線を合わせるため、腰を屈めたレナータに顔を覗き込まれた。


「……あのね、アレス。今日は、アレスに大事なお話があるの。……聞いてくれる?」

「――もう、知っている」

「え?」


 アレスの返答の意味を理解し損ねたらしく、レナータは怪訝そうに小首を傾げた。そんなレナータを余所に、言葉を紡ぐ。


「レナータ……あと少しで、寿命が来るんだろ。それで、人間の女の子に生まれ変わるって話、聞いちゃった。……ごめん」


 勝手に盗み聞きしてしまったことを素直に詫びれば、レナータは驚愕に目を見開いたのも束の間、眉尻を下げて寂しそうに微笑んだ。


「……そっか。エリーゼたちとの話、アレスに聞かれちゃっていたのかあ……。でも、それなら、話は早いね」


 夏の日差しを透かしたステンドグラスの光を浴びたレナータは、やはり美しい。だが、去年の夏とは異なり、今にも消えてしまいそうなほど、ひどく儚げだ。


「――アレス。今まで毎日のように会いにきてくれて、ありがとう。三千年近くこの世界にいるけど、アレスと一緒にいた時間が、その中で一番楽しかったよ。だから、本当にありがとう。……でも、もうお別れしないと」


 腰を屈めていたレナータは、不意に背筋を伸ばし、アレスからステンドグラスへと視線を移した。

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