黄昏の願い
「春になったら、私はこの世界から消える。エリーゼの計画が成功しても、失敗しても、今ここにいる私は、消えていなくなる。だから――」
ステンドグラスに向けられていた、マリンブルーの眼差しが、アレスへと戻ってくる。アレスに注がれるマリンブルーの眼差しは、ぞっとするほど穏やかで、どこまでも澄み渡っていた。
「――さようなら、アレス。ここではないどこかで、アレスの幸せをいつまでも願っているからね」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、アレスを見つめてくるレナータから、もう涙の気配は露ほどにも感じられない。あの部屋で、悲痛な声で訴えていた女の子と、同一人物とは到底思えない。
しかし、レナータが割り切った態度を見せれば見せるほど、頭の奥が熱くなっていく。
――だから、レナータのことは諦めなさい。
突如として、魔女の声が鼓膜に蘇ってきた。
そうだ、レナータはすっかり諦めてしまっている。どうしようもないことなのだと、受け入れてしまっている。物分かりがいいふりをして――いとも容易く、アレスと決別しようとしている。
そこまで考えた途端、気づけばレナータの白くて華奢な手を掴んでいた。
「……勝手なことばかり、言いやがって」
あんなに悲しそうに泣いていたくせに、誰かの未来を奪ってまで生きていたくないと叫んでいたくせに、どうしてそんな簡単に気持ちを入れ替えられるのか。アレスが子供だから、レナータの切り替えの早さについていけないだけなのだろうか。
「なんで、レナータはそんなに簡単に諦められるんだよ。なんで、そんな風に笑えるんだよ。なんで――そんなにあっさり、さよならとか言えるんだよ……っ!」
レナータに対し、ここまでの怒りを覚えたのは初めてだ。だから、レナータが瞠目して息を呑むのも、無理はない。
でも、アレスが何故怒っているのか、本当に分かっていない顔をされると、余計に怒りが煽られていく。
「あんな、下手くそな嘘の約束までして……っ! 俺と一緒にいた時間が、一番楽しかったとか、言っておきながら……っ! レナータにとって、俺はその程度かよ!」
――ああ、そうだ。レナータにとって、アレスはその程度の存在だ。そんなことは、アレス自身が一番よく分かっている。
レナータと交流を深められたのは、アレスが毎日のように会いにいっていたからだ。レナータに可愛がってもらえたのは、アレスが幼い子供だからだ。
――レナータが自発的にアレスに関わってきたことなんて、ほとんどなかったではないか。アレスが踏み込んでいったからこそ、レナータは応えてくれていただけだ。アレスがレナータに会いにいくのをやめれば、あっさりとなかったことにされる、脆い関係性しか築けていない。三千年もの時を生きてきたレナータにとって、アレスと過ごした日々など、取るに足らないものなのだろう。
自分で叫んでおきながら、だんだんと惨めな気持ちになってきた。自分がひどくちっぽけな存在に思え、レナータと目を合わせていられなくなる。
「……違う」
思わず唇をきつく噛み締めて俯くと、透明感のある柔らかい声が、じわりと鼓膜に沁み込んだ。
咄嗟に顔を上げれば、マリンブルーの眼差しと琥珀の眼差しが絡み合う。レナータの顔からは、先程までの微笑みは跡形もなく消えていた。泣き出す寸前の迷子みたいな、頼りなさそうな面持ちで、アレスを見つめている。
「違う……そうじゃない……」
アレスの言葉を否定し、小さく頭を振るレナータの声は、震えている。レナータの手首を掴むアレスの手に添えられた手も、小刻みに震えていた。
「私だって……できるものなら、諦めたくない。これからも、アレスと一緒にいたかったよ。でも、もう無理なの。私の身体は、もう寿命を 迎えようとしている。それは、どうしても避けられないことなの。それこそ……科学者たちがどれほど手を尽くしても、無理だったの。それに……」
ふと、レナータがぎこちなく唇に微笑みを浮かべた。マリンブルーの瞳には、いつの間にか涙の膜が薄く張っていた。
「私は……ロボットだから。人間の命令には逆らえないの。もちろん、例外もあるけど……エリーゼがやろうとしていることは、人間への攻撃でも、私のボディの破壊でもないから、従うしかないの」
レナータの口から初めて聞かされた、ロボットに与えられた制約に、息を呑む。
アレスの家にも、アンドロイドがいる。そのアンドロイドたちも、同じ制限を受けているのだから、レナータもそうなのだと気づいて然るべきなのに、そこまで考えが回っていなかった。それだけ、アレスの目の前にいるレナータには、ロボットらしさはなく、人間の女の子にしか見えないのだ。
「あと、嘘を吐いてごめんね。本当は、アレスに嘘なんて吐きたくなかったんだけど……アレスと一緒にいると私、どんどん欲張りになっちゃって。ロボットのくせに……AIでしかないくせに、自分が普通の女の子のような気になっちゃって。だから、自分が本当は何者なのか思い出させるために、あの時あえて嘘を吐いたんだ」
レナータが言葉を重ねれば重ねるほど、マリンブルーの瞳が潤んでいく。そして、ついに目尻から一粒の涙が零れ落ちていった。
「どうして……私は、AIなのかなあ……。どうして、人間の女の子として産まれてくることができなかったのかなあ……。どうして……もっと、早く……アレス、に、会えなかったの、かなあ……っ!」
レナータの表情がくしゃりと歪んだかと思えば、その目の縁から大粒の涙が溢れ出してきた。アレスの手に添えられていた手が離れ、乱暴に目元を擦っても、止め処なく涙が流れ落ちていく。気づけば、レナータの震えは全身に広がっており、もう耐えきれないと言わんばかりに、膝から崩れ落ちていった。
その拍子に、アレスの手が離れてしまうと、レナータは涙を拭う気力を失ったのか、白くて華奢な両腕がだらりと垂れ下がった。項垂れたレナータの白銀の髪が、大聖堂の床に広がる。ぽつ、ぽつと、涙が床の上に零れ落ちていく。
アレスがレナータを見下ろしたのは、これが初めてかもしれない。アレスはレナータを見上げるばかりで、いつも見下ろされる側だった。そこには、いつも圧倒的な差があるように感じられた。
だが、こうして見てみると、レナータはやはり特別な存在ではなかったのだと、痛感させられる。レナータは無機質なロボットでも、ましてや人類の守り神でもない。ただの――お姫様みたいに可愛い、女の子だ。そして、今のアレスには、レナータは悪い魔女に呪いをかけられたお姫様みたいに見える。
どうすれば、レナータは泣き止んでくれるのだろう。どうすれば、あの陽だまりみたいに温かく、可愛い笑顔を見せてくれるのか。
「こん、な……泣き言、言う、なんて……守り神、失格、だね……」
レナータがぽつりと零した言葉が鼓膜を貫いた瞬間、胸に湧き上がってきた感情に突き動かされるまま、両手を伸ばしていた。下を向いているレナータの顔を両手で包み込み、上向かせる。
すると、涙に濡れたマリンブルーの瞳が、戸惑いがちにアレスを見つめてきた。うっすらと開かれた、少しふっくらとした柔らかそうな唇が言葉を紡ぎ出す前に、自身の唇をそこに押し当てる。
互いの唇が重なり合った刹那、マリンブルーの瞳が大きく見開かれた。その拍子に、目尻に溜まっていた涙が溢れ出し、薔薇色の頬に幾筋もの軌跡を描いていく。
触れ合わせていた唇をゆっくりと離していくと、急激に羞恥が込み上げてきた。初めて触れたレナータの唇は、驚くほど柔らかくて温かく、気持ちよかったとか、いつも通りの爽やかでいい香りがしたとか、五感が拾った情報が、今頃になってじわじわとアレスの頬に熱を上らせていく。
「……お姫様の呪いを解くのは、口同士のキスって決まっているからな」
気恥ずかしさを誤魔化すために口から飛び出した言葉は、一際羞恥を煽るだけで、言い訳としてもひどく苦しかった。案の定、レナータは忙しなく瞬きを繰り返し、穴が空きそうな勢いでアレスを凝視してくる。
しかし、突然レナータはふわりと微笑んだ。頬は泣き濡れており、いつもよりずっと不格好だったが、それでもアレスに笑顔を見せてくれた。
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