絶対に、その手を放してやらない

「何、それ……私、お姫様じゃないし、なれないよ」

「でも、レナータは神様でもない。……神様になんて、ならなくてよかったんだ」


 アレスの言葉に、レナータは再度目を見張った。


「……そんなこと言ったの、アレスが初めてだよ」


 レナータは、三千年という途方もない時間の中を生きてきたというのに、どうして誰もそう言わなかったのだろう。ただ一言、誰かがそう言ってくれれば、レナータはここまで苦しまなくて済んだかもしれないのに。――一人の女の子として、生きることができたかもしれないのに。


「レナータ」


 でも、もしレナータをただの女の子として見ることができるのは、アレスだけなのだとすれば。アレスだけが、レナータを特別な存在ではなく、一人の女の子として幸せにすることができるのだとすれば。


「もし、レナータが人間の女の子に生まれ変わることができたら――俺が、ずっと一緒にいる。絶対に、その手を放してやらない」


 ――あの子のためだけに、家族を、故郷を捨てることなんて、貴方にはできないでしょう?


 もう一度、魔女の囁きが脳裏に木霊した。


 確かに、それだけの重い決断を下すには、アレスはあまりにも幼い。きっと、自分が捨てなければならないものの重みを、ほんの少しも理解できていない。

 だが、アレスが一緒にいると約束することで、レナータが泣き止んでくれるのなら。あの笑顔を見せてくれるのなら、その白くて華奢な手を掴み取りたいと、強く思う。


 アレスがそう宣言した途端、レナータは再び目を丸くした。しかし、それは一瞬のことで、また泣き出しそうな顔になってしまった。


「私……今と違う姿になっちゃうんだよ?」

「それは、そうだろうな」

「……お姫様みたいに可愛いって思うような、女の子じゃなくなっちゃうかもしれないよ?」

「中身がレナータなら、自然と可愛くなると思う」

「そんなの、無茶苦茶だよ! それに、それに……アレスのこと、忘れちゃうかもしれないよ?」

「そうしたら、俺がレナータとの思い出を教えてやる。写真も動画もいっぱい撮ったから、それを見せてやる」

「えっと、それなら……私、アレスよりずっと年下になっちゃうよ?」


 レナータは、どうにかしてアレスの決心を揺らがせたいらしい。アレスを諦めさせようと、懸命に言い募ってくるレナータの顔は、次第に困惑が色濃くなっていく。


「なら、俺がレナータの兄貴になる。小さいレナータも、絶対に可愛いと思う。それに――」


 今のレナータは、三千年の時を生きた人工知能で、今のアレスは六歳なのだ。今の方が、余程年齢の釣り合いが取れていない。


 それに、ずっと年下といっても、話を聞いた限りでは、来年の春にはエリーゼの子供が産まれてくるのだ。そうすると、アレスとはたったの七歳しか違わない。そちらの方が、釣り合いが取れていることに、レナータは気づいていないのだろうか。それとも、レナータは自分が年上だから、アレスに懐かれていると思っているのだろうか。


「――俺が大人になったら、レナータを嫁にもらうって、約束しただろ? それに、レナータとのもう一つの約束も嘘じゃなくなる」


 両手で包み込んでいた薔薇色の頬を、するりと撫でると、アレスと交わした約束を思い出したのか、レナータがはっと息を呑んだ。


 ――もし、アレスが大きくなって、大人になった時……私が困っていたら、助けてくれる?


 先刻、これ以上多くを望まぬように吐いた嘘だと、レナータは言っていた。でも、レナータが人間の女の子に生まれ変わったら、嘘の約束を本物に変えることができる。アレスとの結婚の約束も、実現できる。


 アレスが満足げにレナータの頬を撫でていたら、その目の縁にみるみるうちに涙が溜まっていく。そして、あっという間に涙が頬を伝い落ちていく。


「アレス、ほんっとうに滅茶苦茶だよ……っ! そんなの、できっこないでしょ!?」

「やってみなければ、分からないだろ」


 何故、否定から入るのかと、むっと眉根を寄せる。


「アレスは、全然分かってない! 自分がどれだけ貴重で大切なものを手放そうとしているのか、分かってない!」


 確かに、レナータの言う通りだ。先程も思ったが、アレスが自ら手放そうとしているものの重みを、真に理解するのは、間違いなくずっと先のことになるのだろう。何があっても後悔しないとは、断言できない。


「だから、レナータのこともらうって、言っただろ。それで、責任取ってもらうから、大丈夫」


 だがアレスは、人間に生まれ変わったレナータの一生をもらおうとしているのだ。自分が捨てようとしているものの代償に、レナータの未来をもらい受けることができるのならば、アレスとしては何の問題もない。むしろ、等価交換にならないのではないかと、不安を覚えるくらいだ。


「それ……普通は、女の人が言う台詞だよ……」


 先刻までの勢いは失われているものの、レナータは尚もアレスを諦めさせようと、言葉を探す素振りを見せる。


 だから、それ以上の余計な言葉を封じ込めるため、再度レナータの唇を奪う。何度も何度も唇を重ねていくうちに、レナータの身体から力が抜けていく。マリンブルーの瞳を覆っていた涙も、ゆっくりと消え去っていく。


 これならば、もうあれこれと説得を試みようとはしないはずだと確信し、アレスが唇を離した隙に、唐突にレナータに抱き寄せられた。ぎゅうぎゅうと抱き竦められ、息苦しいほどだったが、突き放そうとは微塵も思わなかった。


「アレスの、ばかあ……馬鹿、馬鹿、ばかあ!」


 アレスの肩に顔を埋めたレナータが、掠れた声で罵ってきた。しかし、馬鹿としか言えないとは、六歳児であるアレスと大差ないではないかと、驚きと呆れが入り交じった心地になりつつも、左手をレナータの背に回し、右手で白銀の髪に覆われた頭を撫でる。


 レナータがよくやってくれているような、優しい手つきを心がけて頭を撫で続けていると、その華奢な肩が微かに震えた。もう涙を流している気配はないが、もしかしたらこうしてアレスに縋りつきたい気分なのかもしれない。ならば、レナータの気が済むまで、好きにさせよう。


 ステンドグラスの光を浴びながら、アレスに縋りつくレナータからは、人類の守り神としての威厳は欠片も感じられない。でも、ぞっとするほど穏やかで、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた時よりも、遥かに美しいと心の底から思った。

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