おやすみなさい

 ――翌年の三月六日。皮肉にも、自分の誕生日にレナータは永遠の眠りに就くことになった。


 レナータ本人の強い希望により、納棺の立ち会いを許可されたアレスは、白薔薇のブーケを両手に抱え、不思議な部屋の中央に立ち尽くしていた。


 部屋一面が真っ白で、さながら病室みたいだ。部屋の壁にはガラス窓が嵌め込まれており、そこから何人もの科学者の姿が窺えた。その中には、半日ほど前に出産を果たしたばかりのエリーゼと、夫であるオリヴァーの姿もあった。エリーゼは子供を産んだばかりだから、立っていられないみたいで、車椅子に座っている。オリヴァーは、エリーゼが乗っている車椅子を支えていた。


 アードラー夫妻の待望の第一子は、予定日よりも早い、三月六日に日付が変わった直後に産まれたのだという。そして、産まれてきた子供の性別は女の子だったと、この部屋に入室する前に、レナータと一緒に聞かされたのだ。


 産まれてきたのが女児だったと知ったレナータは、非常に複雑そうな面持ちをしていたから、アレスが無言でぎゅっと手を握り締めたら、控えめに微笑んで手を握り返してくれた。


 レナータがこの部屋に入る間際、最後の抱擁を交わしつつ、二人にしか聞こえない声で、互いに再会を約束する言葉を口にした。

 だが、それでもレナータと一時的にとはいえ、離れ離れになる実感など、砂粒ほどにも湧き上がってこなかった。――この部屋の中に、足を踏み入れるまでは。


 レナータは今、飾り気の少ない純白のドレスを身に纏い、真っ白な箱の中で横たわっている。その巨大な箱は、以前レナータの私室で見せてもらったものと、酷似している。そして、レナータの周りには清廉な白百合が敷き詰められていた。


 一歩、また一歩と箱へと近づいていき、中に納まっているレナータの顔を覗き込む。


 レナータは目を閉じており、まるで眠っているだけのように見える。頬も薔薇色に染まったままで、耳を近づければ、寝息も鼓動の音も聞こえてきそうだ。

 しかし、アレスがどれだけじっと見つめていても、レナータはぴくりとも反応しない。寝息なんて聞こえてこないし、胸も上下していない。


(……そういえば、レナータに心臓はないんだっけ)


 心臓はないものの、似たような役割を果たしている動力源というパーツがあるのだと、前にレナータが教えてくれたことがある。だから、レナータの胸に動きが見られないということは、そのパーツがもう機能していないということなのだろう。


 レナータが目を瞑っているところを、こんなにも間近で見たのは初めてだ。瞼を縁取る豊かな睫毛は長く、頬に微かな影を落とすほどだ。髪と同じ色の白銀の睫毛は、どこか神秘的な印象を受ける。


 微動だにせず、箱の中で目を閉じて横たわっているレナータの姿を視界に捉えたまま、その胸元に白薔薇のブーケをそっと置く。今回は、鮮やかな色を入れるわけにはいかないと思い、白い薔薇だけでブーケを作ってもらったのだ。

 だから、去年の誕生日にプレゼントしたブーケに比べると、少々寂しくなったかもしれないが、やはりレナータには純白の薔薇がよく似合っている。


 穏やかな顔で美しい花々に囲まれているレナータを見つめているうちに、少しふっくらとした柔らかい唇に、気づけばキスを落としていた。ガラス越しに、ざわめきが聞こえてきた気がしたが、意に介さずにレナータの頭を優しく撫でる。


「――おやすみ、レナータ」


 先程、再会を約束した言葉は伝えたし、別れの挨拶を口にするつもりは、露ほどにもない。

 だから、三千年もの間、人類を見守り続けたレナータに、労いの言葉をかけたのだ。ほんの僅かな間だけになるだろうが、それでもその間は何にも悩まされず、穏やかに眠っていて欲しい。


 アレスがレナータから離れると、巨大な箱の蓋が自動でゆっくりと閉じていく。蓋に嵌め込まれているガラスから、レナータの顔が見え、まるで白雪姫みたいだと、ぼんやりと思う。


『――人類の守り神たる人工知能・レナータ、機能停止致しました。稼働時間、西暦二二二〇年三月六日から西暦五一二〇年三月六日。今から、保管を開始致します』


 無機質な合成音声が部屋中に響き渡るのと同時に、レナータが眠るガラスの棺が、ぽっかりと口を開けている巨大な機械に自動で吸い込まれていく。


(……レナータ、本当にきっかり三千年、生きてきたんだな……)


 三千年という時の中、この世界で生き続けていた女神の幕引きにしては、あまりにも呆気なく、静かなものだった。そして――アレスの淡い初恋もまた、終わりを迎えた。



 ***



 ――その後、エリーゼは生後間もない我が子の脳に、レナータの記憶と人格データの移植手術を行った。理論上は成功し、脳波を見た限りでも、無事移植完了したと確信できたが、実際に成長してみないことには、本当に成功したとは言い切れない。


 でもエリーゼは、レナータは人間の赤子として生まれ変わったのだと信じ、自分の娘にその名を授けた。周囲には、人類の守り神であるレナータが永遠の眠りに就いた日に産まれてきた子だから、それにあやかって名付けたのだと、その由来を説明していたらしいが、アレスにはその真意はすぐに分かった。


 そして、エリーゼとオリヴァーの娘――レナータ=アードラーが産まれてから半年後の秋、楽園から逃げ出す準備を進めていたアードラー夫妻は、ついに脱出を決行する日を迎えていた。



 ***



 機能性を重視した服装に身を包み、リュックサックを背負ったアレスは、母の寝室の近くで待機していた。自宅とはいえ、真夜中の廊下というものは、何となく不気味だ。


 母と約束していた時間よりも、ずっと早く支度を終えたアレスが、落ち着かない心地で部屋の扉を見つめていたら、ようやく開かれた。姿を現した母は、既に待ち構えていたアレスに驚き、息子たちと同じ琥珀の瞳を見張ったものの、即座にふわりと微笑んだ。


「……お待たせしました、アレス。それじゃあ、早く車に乗りましょう」


 眼鏡をかけ直した母は、眠っているリヒャルトを気遣っているのか、声を潜めてそう告げてきた。そんな母の言葉に、アレスはこくりと頷き、忍び足で玄関まで向かった。


 外に出るや否や、急いで母の愛車へと走り寄り、そのままの勢いで飛び乗る。母も素早く運転席に乗り込み、シートベルトを装着し、エンジンをかけると、すぐに発車した。


 家を出る際、兄を起こさないよう、母もアレスも気を配ったが、今のエンジン音でリヒャルトの覚醒を促してしまっただろうか。


 だが、今さら兄に何かできるとは到底思えないし、そもそもエリーゼの計画を微塵も知らないのだ。たとえ、起こしてしまったとしても、急な仕事が入った母が出かけたとしか思われないだろう。まさか、アレスも一緒だとは夢にも思わないだろう。


 母は見事な運転技術で、深夜の空いている道路を駆け抜けていく。ダークブラウンの髪をシニヨンにしてまとめた、母の後頭部を眺めながら、アレスは一年ほど前の出来事を思い出していた。

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