少年の決意

 レナータの生まれ変わり計画を知ってから、ちょうど一か月後の夜。アレスは幾度も深呼吸をしてから、母の寝室の扉をノックした。

 すると、すぐに目の前の扉が開かれ、寝る支度を済ませた母が不思議そうにアレスを見下ろした。


「あら、アレス。まだ起きていたのですか? こんな時間に、どうしたのです?」


 母の言う通り、確かに今はアレスくらいの年頃の子供ならば、とっくに寝静まっている時間帯だ。しかし、万が一にも兄に話を聞かれたくなかったアレスは、夜遅くに母の元に訪れたのだ。


「……母さんに、ちょっと話があって」


 アレスがもっと器用で要領のいい性格だったら、もう少しマシな切り出し方ができたのだろうか。そう思いつつも、アレスには単刀直入な言い方しかできなかった。


 息子の口振りから、それなりに重要な話をするつもりなのだと、察したに違いない。母は、迷わずアレスを自室に招き入れ、ソファに座らせた。


「どうかしたのですか、アレス」


 用件を訊ねてくる口調も表情も、どこまでも柔らかい。少しでもアレスが安心して話せるようにとの気遣いが、じんわりと伝わってくる。

 優しい琥珀の眼差しに背を押されるようにして、とつとつと言葉を紡いでいく。


「……母さんは、レナータがもうすぐ処分されるって、知っている?」

「ええ、知っていますよ。楽園の科学者なら皆、知っているはずです。それが、どうかしたのですか?」


 小首を傾げ、続きを促してくる母の目を、じっと見つめる。


 あの魔女は、このことは誰にも言わないようにと、警告してきた。でも、母は口が堅いし、そんなことを誰彼構わず言いふらすような性格の持ち主でもない。

 それに何より、アレス一人で行動を起こしても、上手くいくはずがない。子供のアレスには、協力者が必要だ。それも、信頼に値する人間でなければ、安易に頼れない。

 その点、母ならばアレスの信頼を裏切るような真似はしないと信じられる上、エリーゼの同業者でもあるから、情報を入手しやすいのではないかという打算があった。


 一度深く息を吸い込み、琥珀の瞳をひたと見据えて口を開く。


「じゃあ……レナータの、生まれ変わりの計画は知っている?」


 アレスがそう問いかけた瞬間、虚を突かれたかのごとく、母の目が愕然と見開かれた。予想だにしていなかった事実を突きつけられ、衝撃を受けているのか。もしくは、どうして自分の息子がそんなことを知っているのかと、驚いているのか。母の反応だけでは、どちらなのか判別できない。


 母の表情をつぶさに観察しながら、慎重に言葉を継ぐ。


「エリーゼさんっていう人が言っていたんだけど、その人は今度産まれてくる自分の子供が女の子だったら、その子の頭の中にレナータを入れるつもりなんだって。それで、レナータを人間に生まれ変わらせるつもりなんだって、言っていた。レナータも、そうだって言っていた」


 計画の発案者の名を出し、証言も得られたことを伝え、アレスの妄言ではないのだと説明する。


 驚愕が過ぎ去ったらしい母の顔からは、これといった感情が読み取れない。怖いくらい真剣な表情で、アレスを見つめ返してくる。

 そんな母に負けじと、一際目に力を入れて言葉を繋ぐ。


「それで、計画が成功したら、エリーゼさんたちはレナータをここから連れ出すつもりなんだって。……俺、レナータとずっと一緒にいるって、約束したんだ。だから、俺も一緒に行きたい。だから……母さんに、ここから出る手助けをして欲しい。……お願いします」


 生まれて初めて、母に向かって深々と頭を下げる。緊張のあまり、鼓動が激しく鳴り響き、まるで全身が心臓になってしまったかのようだ。


 計画を知ってから、母にこの話を切り出すまでの間、一カ月もの時間を置いたのは、アレスがただの思いつきで言い出したわけではないのだと、証明したかったからだ。それに、アレス自身、幼いなりに考える時間と心の準備が必要だったからだ。


 何度も何度も、自分の選択に迷いはないかと、自問自答した。まだ子供でしかない自分に何ができるのかと、必死に考えた。

 だが、その度に、やってみなければ分からないという答えしか出てこなかった。それから、ならば、やってみるだけやってみたい、やらない後悔よりもやった後悔をしたいと、強く思ったのだ。


「エリーゼさんには、俺には何もできないって、言われた。レナータには、俺が何をしようとしているのか、何を捨てようとしているのか、全然分かってないって、怒られた。でも……それでも俺は、行きたい。……行かせて、ください」


 頭を下げたまま、もう一度懇願しても、すぐには母からの返事はなかった。アレスが口を噤むと、母の寝室には痛いほどの沈黙が落ちた。


 肌をぴりぴりと突き刺すような静けさに耐えていたら、不意に母の凛とした響きを帯びた声が頭上に降ってきた。


「――顔を上げなさい、アレス」


 母に促されるまま、おそるおそる顔を上げる。すると、相変わらずの真剣な眼差しが、アレスへと注がれた。


「それは、よく考えた上で出した答えですか」

「はい」

 母の問いに力強く頷けば、間髪入れずに次の質問が繰り出された。

「自分が何を言っているのか、理解していますか」

「……そのつもりです」


 理解できていると、はっきりと断言できるだけの自信はないため、そのつもりだとしか答えられない。


「エリーゼやレナータがおっしゃる通り、貴方にできることなど、たかが知れていますし、本当に何も分かっていないでしょう。それでも――レナータと一緒に行くという決意は、変わりませんか」


 母はただの一度も感情的になることはなく、淡々とした口調で冷静に問いを投げかけてくる。


 もし、母が感情に支配されるがままに接してきていたら、アレスも意固地になって自分の意志を貫こうとしただろう。

 しかし、母は冷静に現実を指摘した上で、アレスの意志を確認してくれている。だから、アレスも自分自身の気持ちと改めて向き合うことができた。


「――はい。レナータと一緒にいても、俺には何もできないかもしれないけど、それでも行きたい」


 母から目を逸らさず、自分の嘘偽りのない想いを吐露すれば、アレスの目の前にある琥珀の瞳が、不意にふわりと和らいだ。


「それなら――やれるところまで、やってごらんなさい」


 母が出した結論に、つい息を呑む。


 高確率で、反対されると思っていた。大抵の親ならば、こんな話を聞かされたら、なにを無謀な真似を仕出かそうとしているのかと、子供を叱りつけるところではないのか。


 アレスがまじまじと凝視していると、母は厚みのある唇に穏やかな微笑みを浮かべ、こう訊ねてきた。


「私が反対しないことに、驚いているようですね。なら、逆に訊きますが――アレス。貴方はどうして、反対される可能性が高いと分かっていたのに、お母さんにこのことを話そうと思ったのです?」

「……母さんに、心配をかけたくなかったから」


 衝撃が冷めやらぬ中、それでもぽつりと言葉を零す。


「言っても、心配をかけるだろうし、母さんに何を言われても、俺はレナータについていくつもりだったけど……ある日突然、俺がいなくなったら、母さんは絶対に今以上に心配するだろ。だから……勝手なことを言っているって分かっているけど、俺が何をするつもりなのか、せめて伝えておきたかったんだ」


 ある日、急に息子が何も言わずに消えるよりも、どこにいるのかある程度目処がついている方が、母の心労は軽く済むと思ったのだ。


 アレスがぼそぼそと答えれば、母はにっこりと笑みを深めた。


「ほら。アレスは、ちゃんと周りの人を思いやれるではありませんか。そんな貴方なら、多少の無茶はしても、周りを悲しませるようなことはしないはずです。だから、お母さんは多少の心配はしても、貴方の意志を尊重したいのです。それに――」


 ふと、母の視線がアレスから逸れ、全く別のところに向けられる。母の視線を辿れば、ドレッサーの上に大切に置かれた、本物の琥珀が嵌め込まれている、二つの指輪が視界に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る