いってきます
あの指輪は、両親の結婚指輪だ。アレスの父親は実験の被験体だったから、別に結婚する必要はなかったのだが、母が父にプロポーズし、籍も入れている。父に、戸籍なんてなかったらしいが、母が楽園政府に交渉し、何とか入籍したのだという。
そして、母は父が亡くなった後も、変わらずに愛している。母の左手の薬指には、入浴時や就寝時を除き、いつも指輪が嵌められている。父に贈った指輪はチェーンに通して、ペンダントとして毎日身につけている。
「――貴方のお父さんがね、亡くなる間際にこう言い残したのですよ。リックもアレスも、産まれた時から既に生き方を決められている。でも、もし決められた生き方以外の道を見つけたなら、全力で応援してやって欲しいって。……自分には、絶対にできないことだからって」
今まで知らされていなかった父の遺言に、思わず瞠目した。
アレスは、父のことを母や兄の話の中でしか知らない。父は、アレスがたったの二歳の時に亡くなったのだから、記憶の中に存在しなくても仕方がない。
でも、母が父の写真を家の中に飾っているから、顔は知っている。顔立ちも色彩も、アレスは全て父親から受け継いだのだと、写真の中の父を通して知ったのだ。母にも、アレスはお父さんにそっくりだと、よく言われる。
「……だから、俺の話を頭ごなしに否定しなかったんだ」
母は、とても愛情深い人だ。愛する夫に、そんな遺言を残されたら、無視することなんてできないだろう。
だが、アレスへと視線を戻した母は、ゆっくりと首を横に振った。
「もちろん、それもありますけど。私は、アレスのお母さんですから。さっきも言いましたけど、私はできるだけ貴方の意志を尊重したい。それが、アレスの背中を後押しする一番の理由ですよ」
微笑みを絶やさぬまま、母がアレスの頭を撫でてくる。
アレスの頭を撫でる母の手は、どこかレナータの手と似ている気がした。優しくて、温かくて、包み込まれているような安心感を覚える。
「それに、ここだけの話ですが……実はお母さん、エリーゼにその計画の協力を依頼されていたのですよ」
本日幾度目になるか分からない、母の衝撃的な発言に、最早どう反応したらいいのかと、困惑してしまう。
「楽園の科学者の中で、私はどの派閥にも所属していませんから、妥当な人選だと思ったのでしょうね。事が事ですから、今まで返事を保留にしておきましたけど……こうなったら、話は変わってきますね」
母はどこまでも楽しそうに、にこにこと笑う。果たして、自分の母はこういう人だったのだろうかと、呆けた頭で考える。
「お母さんも、共犯者になりましょう。アレス、貴方には何もできないってのたまったエリーゼに、目にもの見せてごらんなさい。それで、もし辛くなったら――いつでも帰っていらっしゃい。何があっても、お母さんはアレスの味方です」
アレスの頭から母の手が離れていくのとほぼ同時に、理解する。
母は、アレスの行く道を全力で応援しつつ、逃げ道まで用意しようとしてくれているのだ。アレスが精神的に追い詰められてしまわぬよう、手を打ってくれようとしている母の愛情が、全身にじんわりと染み渡っていく。
「……そうならないように、できるだけ努力する。でも、その時は……もしかしたら、レナータも一緒かも」
「あら、それは楽しみですね。その時は、レナータをお母さんに紹介してくださいね」
母の方が先にレナータの存在を知っていたのだから、今さら紹介も何もないだろうと思ったものの、あまりにも楽しそうな笑顔を向けられたものだから、とりあえず頷いておいた。
***
「――アレス、早く降りなさい」
母の愛車が空港の一角に滑り込むや否や、降車を促された。
母の指示通り、シートベルトを外して車のドアを開けると、素早く降りる。それから、近くに停めてあった小型飛行船へと駆け寄っていく。
母は、エリーゼの協力要請に応じたものの、アレスがアードラー一家の逃避行に同行することまでは、向こうに知らせていない。言ったところで、きっと受け入れようとしないだろうから、最初から強行策に打って出ることにしたのだ。
アレスの後から続いてやって来た母は、急いで飛行船に乗り込み、貨物室までつかつかと進んでいく。そして、あらかじめ積み込まれていた、エリーゼたちの荷物を跨ぎ、たった今持ってきた真っ黒なボストンバッグを、最奥に置いた。
「アレス、急いでこの中に入りなさい」
――そう、アレスは荷物のふりをして、楽園からの脱出を図ることにしたのだ。
これならば、アードラー一家が目的地に辿り着くまで、アレスの存在を気取られることはないはずだ。
アレスは小さく頷き、母が用意したボストンバッグの中に身を滑り込ませる。バッグはちょうど、アレスがすっぽりと納まるサイズだが、他にも大きな荷物が積まれているから、そんなに目立ちはしない。
アレスがボストンバッグの中に潜り込んだ刹那、母がジッパーを上げていく。アレスが酸素を確保できるよう、しっかりと隙間を作った母に向かって口を開く。
「母さん、ありがとう。――いってきます」
母がいなければ、おそらくアレスはここまで来ることができなかっただろう。レナータが楽園から連れ去られていくところを、指を咥えて見ていることさえできなかったかもしれない。
だから、感謝の気持ちと共に、いつか「ただいま」と言える日が来ることを願いながら、今のアレスが口にできる精一杯の言葉を伝える。
すると、母は何故か一瞬ぐっと押し黙った。しかし、すぐに何事もなかったかのように、綺麗に微笑んだ。
「……どういたしまして。気をつけていってらっしゃい、アレス」
母はボストンバッグの隙間に手を滑り込ませると、アレスの頭をそっと一撫でした。それから、バッグの中から手を抜き出すなり、即座にアレスへと背を向け、飛行船から降りていった。
たった一人取り残された荷物置き場で、息を殺して身を潜めてから、どれほどの時間が経過したのだろう。唐突に、母の他に、エリーゼとオリヴァーの話し声や物音が、微かに聞こえてきた。そして、飛行船に乗り込んでくる二人分の足音が、鼓膜を震わせたかと思えば、エンジンがかかって船体が僅かに振動した。そこで、母の助言を思い出し、パーカーのポケットからキャンディを取り出し、口の中に放り込む。
その直後、飛行船が滑走路を前進し、ふわりと浮遊感を味わう。飛行船はそのままぐんぐんと上昇していき、ある一定の高度に達したところで、上に向かっていく感覚が徐々に消えていった。
アレスが飛行船に乗ったのは、これが初めてだ。自分が今、空の上にいるのだと、体感としては分かっても、貨物室からは外の景色は見えない上、そもそもアレスはボストンバッグの中に押し込められているのだから、上空の様子を窺えるはずがないのだ。だから、自分の生まれ故郷を空の上から見下ろし、目に焼きつけておくこともできない。
(それでも……俺は行く)
――これから先も、レナータとずっと一緒にいるために、後ろを振り返らずに楽園の外へと出るのだ。
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