四章 失楽園

アレス十五歳、レナータ八歳

「――おい、レナータ! どこだ」


 ――楽園の外に出たあの日から、もう八年近い歳月が経っていた。

 十五歳になったアレスは、八歳になったレナータの姿を捜し求め、木々が生い茂る森の中を彷徨っていた。

 とはいえ、レナータが森の中で迷子になったわけではない。なんてことはない、レナータと家の近所にある森の中でかくれんぼをしている真っ只中だからだ。


(昔、レナータが俺のことをなかなか見つけられなかった気持ちが、やっと分かるようになったな……)


 楽園にいた頃、かつてのレナータとかくれんぼをして遊んでいた際、どうしてなかなかアレスの姿を見つけられないのかと、不思議で仕方がなかった。もしかしたら、レナータがわざと手を抜いているのかもしれないとも、思ったものだ。


 だが、答えは簡単だ。身体が小さい子供は、どんな小さな隙間でも潜り込んでしまうから、大人の目には留まりにくいのだ。


(まあ、俺も世間から見れば、まだまだガキだけどな)


 そんなことを考えながら、野草が好き放題生えている土を踏みしめ、さらに森の奥へと進んでいく。


 ここ、第三エリアの外れは、非常に自然が豊かだ。第三エリア自体が、肥沃な土地を利用した、農業や畜産業が盛んなエリアだからなのか、少し外れたこの場所でも、その恩恵を受けられている。


 しばらく歩いていくと、不意に開けた場所が視界に入ってきた。そして、視線の先には、今の今まで捜していた少女の後ろ姿があった。


「レナータ、見つけた」


 アレスがそう声をかけた途端、その場にしゃがみ込んでいたレナータが、弾かれたように立ち上がり、こちらへと振り向いた。その拍子に、肩の上で切り揃えているダークブロンドの毛先と、春らしい淡いピンクのワンピースの裾が、ふわりと揺れる。


 驚いたように見開かれた、垂れ目がちの大きな翡翠の瞳がアレスを捉えるなり、柔らかく笑み崩れた。


「えへへ、見つかっちゃった」

「……お前、隠れる気、全然なかっただろ。かくれんぼ、飽きたのか?」


 だだっ広い場所で蹲り、何かを熱心に眺めていたらしいレナータにそう訊ねると、ふるふるとダークブロンドに覆われた小さな頭が揺れた。


「ううん、そうじゃないよ。ただね、クローバー畑を見つけたから、四つ葉のクローバーを探していたの!」


 つまり、飽きたわけではないものの、別の遊びに興味が移り、そちらに夢中になっていたということか。


 アレスをにこにこと見上げてくるレナータの横に並び立てば、確かにそこにはクローバー畑が広がっていた。想像以上に多くのクローバーが密集しており、ここから四つ葉のクローバーを見つけ出すのは、至難の業だろうと思う。


「で? 見つかったのか?」


 アレスも昔は好奇心旺盛な子供だったから、珍しいものを見つけ出してみたいと思うレナータの気持ちは、よく分かる。


 先程のレナータみたいに、その場にしゃがみ込みつつ問いかければ、途端に翡翠の瞳が陰った。


「ううん……まだ、見つかってない。お父さんと、お母さんと、アレスと、私の分を見つけたかったんだけどなあ」

「お前……欲張りだな。一つ見つかれば、御の字だろ」

「だって、四つ葉のクローバーは、幸せを運んでくれるんだよ? 私、みんなに幸せになって欲しいもん!」


 もう一度蹲ったレナータは、薔薇色の頬を緩め、それこそ幸福の象徴のような笑顔を向けてきた。


「お母さんのおかげで、私は今ここにいるし、優しいお父さんのことは大好きだし……それにね、いつも私と一緒にいてくれるアレスには、たくさんありがとうって言いたいから、四つ葉のクローバーを見つけて、あげたかったの」


 ――レナータには、かつて自分が人工知能だった頃の記憶がある。人格も、あの頃とほとんど変わらないように見受けられる。だから、ほぼ間違いなく、エリーゼが行った記憶と人格データの移植手術は成功したのだろう。


 記憶があるとはいえ、今のレナータはアレスと過ごした二年間の思い出しか覚えていないみたいだ。しかも、アレスと両親に纏わる記憶しか残っていないという。おそらく、記憶を思い出す取っ掛かりになる人物が、レナータの周りにはその三人しかいないから、それしか思い出せないのだろう。


 しかし、アレスからしてみれば、それだけで充分だった。


 アレスが初めて赤ん坊となったレナータに対面した際、確かにかつての面影を色濃く残した顔で、にっこりと笑いかけてくれたことは、今でもはっきりと思い出せる。その時から、ああ、レナータはここにいるのだと、実感を噛み締めることができた。


 そして、その頃からアレスに懐いてくれた。レナータが歩けるようになると、いつもアレスの後ろをとことことついて回るようになった。今では思い出話を共有することもできる。


「……感謝するのは、こっちの方だろうが。レナータは馬鹿だな」


 相変わらず愛くるしい笑顔を振りまいているレナータのダークブロンドを一房掬い、右耳にそっとかける。


 レナータは、アレスが自分の傍にいてくれていることに感謝していると言ってくれたが、一緒にいてくれて救われているのは、こちらの方だ。


 ――あの日、アードラー一家の荷物に紛れ込み、共に楽園から脱出してから、アレスはなし崩し的にレナータたちと家族同然に暮らすようになった。


 でも、当然といえば当然のことかもしれないが、最初のうちはエリーゼがアレスを楽園に連れ戻そうと躍起になっていた。オリヴァーも、アレスの将来を考慮し、エリーゼほど強引ではなかったものの、楽園に帰るべきではないかと、諭してきた。


 だが、その話が出る度に、まるでタイミングを計ったかのごとく、レナータが声を張り上げて泣き出したのだ。そして、そういう時は決まって、アレスがあやさなければ、レナータは泣き止んでくれなかった。


 この地に踏み止まることができたのは、時々アードラー夫妻と接触し、楽園の情報を提供している母が、交渉してくれたおかげであるのは間違いないが、レナータがアレスにひどく懐いていたというのも、大きな要因の一つに違いない。


 そういう経緯があり、現在へと至るわけだが、それでも尚、アレスとエリーゼの間には、そう簡単には埋められそうにない溝が横たわっている。


 オリヴァーは、親の同意を得た上で、自分の意志でここにいるのならばと、最終的にはアレスの存在を受け入れてくれた。今では、本当の父親みたいにアレスを導いてくれる人であり、心の底から尊敬している。アレスには実の父親の記憶がないから、進んで父親代わりになってくれているオリヴァーには、感謝の念が尽きない。


 しかし、エリーゼは表面上、アレスを受け入れているものの、内心では疎んでいることくらい、些細な言動で読み取ることができる。


 何年も一緒に暮らしてきて分かってきたことなのだが、エリーゼは非常に賢い反面、自分の思い通りに物事が進まないと、気に入らないのだ。だから、アレスという想定外の存在を、今でも認められずにいる。

 それなのに、夫も娘も、アレスを家族の一員として柔軟に受け入れているから、余計に面白くないのだろう。


 そのため、アードラー家では時折、微妙な空気が流れることがあるのだが、そういう時は必ずといっていいほど、レナータがその場の雰囲気を和ませてくれるのだ。あるいは、さりげなくアレスをその場から連れ出してくれるのだ。レナータがいるからこそ、アードラー家の平穏は保たれているといっても、過言ではない。


 でも、本人にはその自覚はあまりないらしく、アレスの言葉にきょとんと目を瞬かせている。


「ふーん……?」


 小首を傾げながらの相槌は、やはりかなり曖昧なものだ。


(本当に、何にも分かってなさそうだな)


 触り心地のいい、艶やかなダークブロンドをくしゃりと撫でつつ、微かに苦笑いを浮かべる。

 表情がくるくると変わるレナータとの一緒の生活のおかげか、幼少期の頃よりも格段にアレスの表情は豊かになってきた。

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