得手不得手
アレスに頭を撫でられ、嬉しそうに笑うレナータから視線を外し、空を仰ぎ見る。
レナータの遊び相手を始めた頃は、澄んだ青空が広がっていたのに、もう黄昏時を迎えようとしていた。森の中は暗くなるのが早いから、いい加減家に帰った方がいいだろう。
「ほら、レナータ。帰るぞ」
「うん!」
アレスが立ち上がりながら声をかければ、レナータも素直に腰を上げ、スカートの裾を両手で伸ばした。それから、アレスが手を差し伸べると、小さな手を伸ばし、きゅっと握ってくる。
「森の中でその格好は、歩きにくくないのか?」
ワンピースの裾を見遣りつつ、問いを投げかければ、レナータがぷうっと頬を膨らませた。
「このワンピース、結構動きやすいから、平気だもん。それに、ワンピースの下にレギンス穿いているし、靴もスニーカーだから、大丈夫だもん。それにね――」
頬を膨らませるのをやめたレナータは、満面の笑みを浮かべた。
「――今日は、私の誕生日だから、お気に入りの服を着たかったの! これ、可愛いから、大好きなんだあ」
ひらひらと揺れるワンピースの裾に視線を落としたレナータは、一際足取りが弾んでいく。幼くとも、こういうところはしっかりと女の子だ。
「おい、調子に乗って転ぶなよ」
「はーい!」
相も変わらず素直な返事をしたレナータは、再びアレスを振り仰ぐ。
「ねえねえ、アレス。明日、一緒に四つ葉のクローバー探ししてくれる? 私、もうちょっと頑張って探してみたい!」
「はいはい、訓練が終わったらな」
「アレス、明日訓練するの?」
「ああ、その予定だ」
並みの人間よりも遥かに強化された肉体を持つアレスは、本来、楽園の軍の特殊部隊に配属されるべく、士官学校に通わなければならなかった。
だが、あの日、楽園の外に逃げ出したため、アレスはその学校に約一年の間しか通っていない。だから、アレスは基礎を叩き込まれるところにさえ至っていなかったのだ。
アードラー一家のお世話になり始めたばかりの頃は、そんなことを考える余裕なんて微塵もなかったのだが、次第にここでの生活にも慣れてきたアレスに、オリヴァーが提案してきたのだ。
もし、アレスが望むのならば、学校で学ぶはずだったことを、可能な限り教えると。そして、その中には軍人になるために必要なプログラムも含まれていた。
幸い、未だ楽園の人間にアレスたちは見つかっていないが、いつ逃亡を余儀なくされるか、分かったものではない。その時、誰か一人でも武術の心得があれば、追っ手から逃れられる可能性も、生存率も、ずっと上がることは目に見えている。知識だって、ないよりはあった方がいいに決まっている。
だからアレスは、オリヴァーの厚意に甘え、勉強にも戦う術を覚えることにも、今でも励んでいた。
エリーゼもオリヴァーも、勉学は得意中の得意分野だが、戦闘に関しては素人であるため、母が送ってくれた教材を使い、ほぼ独学になっているが、今のところ、問題なく戦術を吸収することができていると、自負している。
(実戦を経験できないところが、難点だが……)
そんな機会がなければ、ないに越したことはないのだが、念には念を入れておきたい。自分の思い上がりではないのだと、目に見える形で証明したい。
アレスが首肯した瞬間、レナータはぱあっと目を輝かせた。
「じゃあ、大人しくしているから、見学していてもいい?」
「別に構わないが、よく飽きないな」
レナータは物心がついた頃から、アレスの訓練の様子を何故か毎回のように熱心に見学している。時には、アレスの動きを真似てみることもあるほど、意欲的だ。
「だって、訓練している時のアレス、格好いいんだもん! こう、ビュッ、シュババって!」
擬音語に合わせ、レナータはアレスと繋いでいない方の手で拳を作り、前に突き出したり、意外と鋭い蹴り技を披露してみせた。
「なんだ、それ」
レナータの無邪気な様子に、思わず心が和む。
しかし、歩いている真っ最中に蹴り技を披露したものだから、前につんのめりそうになってしまったレナータと繋いでいた手を引っ張り、転倒を防ぐ。
「ったく……だから、調子に乗るなって、言っただろ」
「……はーい、ごめんなさい」
素直なレナータはすぐに謝り、しゅんと項垂れた。でも、またすぐに顔を上げたかと思えば、天真爛漫な笑顔を見せてきた。
「……アレス、本当にお兄ちゃんらしくなっちゃったね。昔は、あんなに甘えん坊で、やきもち焼きで、欲張りさんだったのにねえ。今は、私が見上げなきゃいけないくらい背も伸びちゃったし、格好よくなったね!」
事情を知らない人間が聞けば、何ともカオスな発言だ。
「だから、その調子で勉強ももっと頑張ろう!」
「そこで、なんで『だから』に繋がるんだ」
「だってアレス、身体を動かすことは、誰にも言われなくても一生懸命やっているけど、勉強はそこまでじゃないでしょ? お父さんも、アレスの成績はムラが大きいって、言っていたよ?」
「机に向かっての勉強は、あんま好きじゃねえんだよ」
「得意分野の成績はすっごくいいのに、勿体無いね」
レナータの指摘通り、アレスは得意分野と不得意分野では、かなりの成績の差がある。
だが、嫌いなものはどうしても嫌いなのだから、得意分野を伸ばしていけばいいと、アレス自身は思っている。勉強面の教師役を務めてくれているオリヴァーも、その方向で納得してくれていたはずだ。
レナータもやや困り顔を見せていたものの、やがてこくりと頷いてくれた。
「……それもそうだね。身体を動かすことと、機械いじりが得意なら、今の生活で困らないだろうし。……私なんて、元AIなのに、機械いじりは苦手だし」
「レナータは、手先が不器用な上に、そっちのセンスは皆無だからな……」
「うう……」
自分から言い出しておきながら、自らの心を抉ってしまったらしく、レナータはがっくりと肩を落とした。
エリーゼは頭脳明晰だが、壊滅的に手先が不器用なのだ。特に、掃除や整理整頓以外の家事をやらせたら、大惨事になるくらいだ。その娘であるレナータも、母親ほどではないものの、手先の不器用さを受け継いでしまっている。
その上、かつては人工知能だったのに、どういうわけか、機械に関するセンスが著しく欠如している。知識もなかなか頭に入ってこないみたいで、両親が子供にも分かりやすいように教えても、いつも唸ってばかりいるのだ。
今は、アレスに教えられるほど理解を深めているものの、昔のオリヴァーは機械いじりが大の苦手だったというから、レナータが機械を苦手としているのは、十中八九父親の遺伝によるものに違いない。
天才と謳われるほど優れた頭脳を持つ母親からは、手先の不器用さを受け継ぎ、掃除や整理整頓以外の家事は完璧にこなす、料理上手で手先が器用な父親からは、知能と要領の悪さを引き継いでしまったのだから、レナータは運が悪いと思う。
(逆だったら、よかったのにな……)
そう上手くはいかないのだから、世の中というものは理不尽だ。
「私、人間になった途端、アレスの言う通り、馬鹿になっちゃった気がする……。私、AIだったから、昔は頭がよかっただけだったんだね……」
先刻の比ではないほど、しょんぼりと項垂れてしまったレナータの表情は、ここからは窺うことができない。しかし、きっとひどく悲しそうな面持ちをしているのだろう。
「AIと人間じゃ、比べ物にならなくて当然だろうが。そんなことで、いちいち落ち込む必要はねえだろ。……それに、レナータは、その歳で義務教育課程は終わっているんだから、もっと自信を持て」
そう、レナータは今日八歳になったばかりだというのに、既に義務教育課程は修了している。先程、本人が言っていた通り、不得意分野ももちろんあるが、それでも義務教育中に吸収するべき知識は、レナータは獲得してしまっている。
学業面における遺伝的要素はそこまで恵まれているわけではないのに、人工知能だった頃の記憶が大きく影響を受けている頭脳と、優秀な両親に施された教育が、今のレナータの知能を信じられないところまで底上げしたのだから、末恐ろしい。
(自信を持てとはいったが、ここまで来ると、化け物だな……)
レナータは、特殊な遺伝子の持ち主である、アレスやリヒャルト以外の子供と、あまり交流を持ったことがなかったみたいだから、一般的な子供というものがどういうものなのか、よく理解できていないのだろう。
だから、レナータが落ち込む必要はどこにもないのだと告げると、伏せられていた顔が持ち上げられ、再度翡翠の瞳がアレスを捉える。ぱちぱちと忙しなく瞬きをした直後、レナータはふわりと微笑んだ。
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