女神の幻影

「――うん! そうだね!」


 素直で、いつまでも負の感情を引きずらないところは、レナータの長所だ。先刻まで悲壮感を漂わせていたくせに、今では鼻歌を歌うくらい、上機嫌だ。


「ねえねえ、アレス。一回だけでいいから、高い高いして!」


 森を抜け、家が見えてきたところで、突然レナータがアレスの手を振り解いたかと思えば、前に回り込み、無邪気にせがんできた。


「……いきなり、どうした」


 幼い子供は、急に何の脈絡もないことを言い出すものだと、この数年間でこれでもかというほど思い知らされたが、それにしても随分と唐突だと思う。


「……駄目?」


 アレスにぎゅっとしがみつき、期待に満ちた眼差しを向けていたレナータが、小首を傾げてお伺いを立ててきた。


 ここでアレスが駄目だと答えれば、レナータは間違いなく大人しく引き下がるのだろう。レナータは素直であるだけではなく、驚くくらい物分かりもいいのだ。だから、決して相手を困らせるような真似はしない。


「駄目とは、言ってないだろ。突然過ぎて、驚いただけだ」


 そう返答しつつ、レナータの両脇に手を差し入れる。そして、その小さくて軽い身体を持ち上げれば、ワンピースの裾がふわりと揺れた。

 アレスと同じ目線のところまで抱え上げ、勢いをつけて上に向かって放り投げると、レナータの身体が宙に舞う。

 でも、それはほんの僅かな間だけで、興奮に満ち溢れた歓声を上げたレナータが、アレスに向かって落ちてきた。夕暮れに染まる空を背景に落ちてくるレナータはどこか幻想的で、人工知能だった頃の姿と、一瞬だけ重なって見えた。


 ――不思議なことに、レナータの顔立ちは人工知能だった時のものと、全く同じだ。あの頃のレナータが、髪や瞳の色彩が変わり、そのまま幼くなっただけの外見をしている。

 あのバイオノイドは、エリーゼの祖先をモデルにして創られたらしいから、今のレナータが母親に似た結果、あの顔立ちになったとしても、不思議ではないのかもしれない。しかも、父親に似て垂れ目がちだから、完璧にかつての顔の造形を再現している。


(遺伝子の奇跡だな)


 落下してきたレナータをしっかりと受け止めながら、胸中で呟く。


 アレスの腕の中に納まったレナータの両手が、首に回されたかと思えば、ぎゅっとしがみつかれ、頬を擦り寄せられた。


「アレスにだっこされると、安心するなあ」


 まだまだあどけないものの、透明感のある柔らかい声が、耳に心地よく響く。


 アレスの首にしがみついていたレナータが少し身体を離し、翡翠の眼差しに顔を覗き込まれる。琥珀の眼差しと翡翠の眼差しが交差した刹那、レナータは心の底から幸せそうに、ふにゃりと笑った。

 その陽だまりのような笑顔が視界いっぱいに映った直後、微風に煽られ、さらさらと澄んだ音を奏でるダークブロンドに覆われた小さな頭のてっぺんに、気づけばキスを落としていた。くすぐったそうに身を捩るレナータの動きが、頭に触れている唇に直に伝わってくる。自然とレナータの頭に鼻先を埋める形になったアレスの嗅覚を、あの爽やかで懐かしい香りがくすぐっていく。


 アードラー一家と一緒に暮らすようになってから、今も昔もレナータから香る匂いが、ヴァーベナと呼ばれる植物の香りとよく似ていることを知った。エリーゼが愛用している香水がヴァーベナの香りだったから、気づけたのだが、アレスとしては、香水の匂いよりも、レナータの身体から発せられる自然な香りの方が、ずっと好きだ。


(……この感情は、なんていうんだろうな)


 幼い頃のアレスは、かつてのレナータに恋をしていたのだと思う。アレスのことをもっと気にかけて欲しいと願ってやまなかったし、あのマリンブルーの瞳にいつまででも見つめて欲しいと思っていた。


 だが、今はあの頃みたいに、レナータに対して熱を帯びた感情は抱いていない。

 レナータのことは今でも可愛いと思うし、アレスの後ろを一生懸命に追いかけてくる姿はいじらしく、微笑ましい。しかし、今のレナータには、ああして欲しい、こうして欲しいと求めることがなくなった。

 ただ、日々成長を重ねていくレナータの姿を、見守りたい。人間の業により、人間として生まれ変わらざるを得なかったレナータに、何の憂いもなく幸せになって欲しい。


(もしかして、昔のお前もこんな気持ちだったのか? レナータ)


 かつてのレナータは、アレスに何の見返りも求めず、限りなく無償に近い愛情を注いでくれていた。もしかすると、今の自分は当時のレナータと同じ心境に立たされているのかもしれない。そう思ったら、自然と笑みが零れた。


「もうっ! アレス、くすぐったいよ!」


 レナータの抗議の声が、耳朶をくすぐっていく。


 レナータの頭から顔を離し、今度はアレスの方から顔を覗き込めば、薔薇色の頬がぷっくりと膨れた。

 でも、レナータが本気で怒っているわけではないことは、ずっと傍で見守っていたアレスにはお見通しだったから、その小さな身体を片腕で抱え直し、遠慮なく膨れた頬を空いた手の指先で突く。

 すると、怒ったふりをやめたレナータの、蕩けそうなほどに柔らかく滑らかな頬が、あっという間に緩んでいく。そして、軽やかな笑い声が耳朶を打つ。


 レナータの頬を突くのをやめ、もう一度両腕でその身体を抱え直すと、そのまま家路につく。


「アレス? 私、下ろしてくれれば、一人で歩けるよ?」

「……今日は、お前の誕生日だろ。特別に、家まで運んでやる」


 アレスが特別と告げた途端、すぐ近くにあるレナータの顔に笑みが広がっていった。それから、さながら本物の翡翠のごとく目を輝かせたレナータは、再びアレスの首に抱きついてきた。


「――やったあ! アレス、大好き!」



 ***



 アレスがレナータを抱えたまま帰宅すると、自宅であるログハウス脇にある畑に、ちょうどオリヴァーの姿があった。


「お父さん、ただいま!」

「ああ、おかえりなさい、レナータ、アレス。もう帰ってきたんだ――」


 畑で栽培しているハーブを取っていたらしいオリヴァーは、娘の声に導かれるようにして立ち上がり、こちらへと振り向いたのだが、レナータがアレスにしっかりと抱きかかえられている姿を目の当たりにした瞬間、笑顔のまま固まってしまった。


(またか……)


 すっかり見慣れてしまったオリヴァーの反応に、内心溜息を吐く。


 オリヴァーは、アレスのことを実の息子同然に可愛がってくれている。そして、実の娘であるレナータのことは、溺愛している。つまり、かなりの親馬鹿だ。

 そのため、娘がアレスと仲が良過ぎることに関してだけは、オリヴァーは大変複雑な感情を抱いているみたいだ。


 現に、今も柔和な笑みが消えたのと同時に、みるみるうちに情けない表情へと変わっていった。よくも、うちの可愛い娘を取ったなと、愛憎入り交じったヘーゼルの瞳が、言外にアレスを詰っているかのようだ。


(家に着く前に、レナータのこと、下ろしておけばよかったな)


 だが、視線を落とした先にいるレナータは、アレスの服を小さな手でしっかりと掴んでいる。その様子から察するに、アレスが下ろそうとしたら、間違いなく落ち込ませてしまっただろう。


「見て見て、お父さん! 今日は私の誕生日だから、アレスに特別に家まで運んでもらうんだあ」


 レナータは父親の気持ちに気づいていないのか、それとも気づいているのに、素知らぬふりを決め込んでいるのか、無邪気にオリヴァーに話しかけた。


「へえ……そうなんだ……よかったね……」


 オリヴァーの目の温度が、徐々に失われていく。闇に堕ちた人間は、こういう目をしているのではないだろうか。そして、その目は、そこを退けと、アレスに強く訴えかけていた。


「……オリヴァーさん、何か手伝うことはありますか」


 オリヴァーの手伝いをするとなれば、レナータは素直にアレスの腕の中から下りてくれるに違いない。


 しかし、アレスがそう質問した刹那、オリヴァーははっと我に返ったらしい。目に光が戻り、自分の大人げない態度に恥じ入ったように、慌てて首を横に振った。

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