兄と妹

「う、ううん。大丈夫だよ、アレス。料理に使うハーブがちょっと足りなくなって、取りにきただけだから。もう家の中に戻るよ」

「そうですか。それじゃあ、俺とレナータは先に中に入っていますね」

「お父さん、先に行っているねー」


 相変わらずレナータを抱えたまま、玄関を目指して歩き出すと、オリヴァーの寂しそうな表情が横目に窺えた。レナータはまだ八歳の幼子だというのに、今からこの調子では、娘が年頃になったら、一体どうなるのか。


「ただいま戻りました」

「ただいまー、お母さん!」


 アレスたちが自宅に足を踏み入れれば、リビングでお茶を飲んでくつろいでいる、エリーゼの姿が視界に入ってきた。


 リビングもダイニングも、普段とは異なり、レナータの誕生日を祝うための飾り付けが施されている。アレスたちが外に出かける前は、いつも通りだったから、外で遊んでいる間に、エリーゼたちが飾り付けをしておいてくれたのだろう。それで、料理においては戦力にならないエリーゼは、休憩を取っているのかもしれない。


「あら、おかえりなさい、レナータ、アレス。早かったわね」

「うん。森の中は暗くなるのが早いから、早めに戻ってきたんだー」


 レナータが母親と会話する傍ら、アレスは足早にリビングを横切っていく。

 アレスを疎むエリーゼとは、なるべく同じ空間にいないよう、気をつけている。その方が、互いのためだからだ。


 だから、急いで自室に向かっていたのだが、そこでレナータを抱えたままだったことを思い出す。エリーゼとの接触を回避することに意識の全てが持っていかれていたため、腕の中のぬくもりを忘れていた。


 レナータとエリーゼの親子関係は良好なのだから、なにもアレスの自室にまで連れていく必要はないと、その小さな身体を床の上に下ろそうとした矢先、先程よりも強い力で服を掴まれた。

 改めてその翡翠の瞳を見遣れば、レナータが無言で首を左右に振った。これは、おそらくアレスについていくという、意思表示に違いない。


 だから、何食わぬ顔で、レナータを抱きかかえたまま自室に入ると、そこでようやく腕の中にいたぬくもりを床の上に下ろす。すると、レナータはアレスのベッドの端にちょこんと腰を下ろした。


「……エリーゼさんのところに行かなくて、いいのか? 別に、今は空気が悪くなったわけでも何でもないんだから、俺に気を遣う必要はねえぞ」

「私がアレスと一緒にいたかったから、ついてきただけだよ」


 アレスもベッドの上に腰かけると、レナータが膝の上に乗り上げてきて、じゃれついてきた。


「……それにね、お母さんのこと、複雑に思っているの、アレスだけじゃないよ」


 ダークブロンドを一房摘まみ、意味もなく指先で弄んでいたら、レナータがぽつりと言葉を継いだ。


「私、お母さんのこと、嫌いじゃないけど……時々、すっごく複雑な気持ちになるんだ。私は、本当にお父さんとお母さんの子供になってよかったのかなとか。アレスのこと、好きになれとまでは言わないけど、もうちょっと歩み寄りをしてもいいのにとか……色々考えちゃうの」


 軽く摘まんでいた毛先から指を離せば、まるで逃げるように、するりとダークブロンドが指の隙間からすり抜けていく。


「……お前、そんなこと考えていたのか」

「うん」


 アレスの問いかけに、レナータはこくりと頷く。


 人工知能だった頃の記憶があるからか、レナータは時折、こうして子供らしからぬ一面を垣間見せる。こういう時のレナータも、かつての姿と重なって見える。


 でも、それにしても、たった八歳の子供が気にするようなことではないと、アレスは思う。これは大人の問題なのだ、まだ子供であるレナータが気を揉む必要はない。レナータにはもっと、年相応の子供らしく、自分のことを考えて欲しい。


「……レナータは、本当に馬鹿だな。お前、エリーゼさんとオリヴァーさんの子供として産まれてきたことに、感謝しているって、さっき森で言っていただろ? だったら、エリーゼさんも、オリヴァーさんも、レナータが産まれてきたことに、感謝しているに決まっているだろ」


 本来ならば、この年頃の子供が、自分を産んでもらったことに対し、両親に感謝することなんて、そうそうないだろう。レナータより七歳年上のアレスだって、まだその境地にまで至っていないのだ。レナータがそこまで考える必要は、ないのではないか。


「それに、エリーゼさんが俺のことを受け入れられないのは、仕方がないことだろ。俺がこの家に押しかけたも同然なんだから、迷惑がられて当然だ。追い出されないだけ、マシだ」


 我ながら、本当に身勝手な真似をしたものだと思う。当時は幼かったから、あのような行動に出られたのだと、あの頃の記憶を振り返ってみて、改めて実感する。そう考えると、あの時のアレスの背を押した母は、随分と大物だ。


 だが、アレスがそう口にした途端、レナータはむっと唇を尖らせた。それから、アレスの胸元に顔を押しつけたレナータが、くぐもった声を出す。


「……アレスは、私との約束を守ってくれただけだもん。アレスは、何も悪くないもん」


 レナータが俯いたことで、今度はダークブロンドに覆われた頭頂部が、アレスの胸元に押しつけられた。そして、何度も軽い頭突きが繰り出される。

 そんなレナータの姿を眺めていたら、言葉はなくとも、もしかしたら赤子の頃からそう主張していたのかもしれないという考えが、ふと脳裏を過る。


 アレスの立場が揺らぎそうになる度に、喉がれてしまうのではないかと思うほど、声を張り上げて泣き叫ぶことで、守ろうとしてくれていたのかもしれない。実際、母とレナータのおかげで、アレスは今の居場所を与えられているのだ。考え過ぎというわけでもないだろう。


「――大した奴だな、レナータは」


 感嘆の吐息交じりにそう言葉を零せば、不意にレナータが顔を上げた。きょとんと不思議そうに見上げてくるレナータの頭を撫でると、翡翠の瞳が嬉しそうに笑み崩れた。


「今日はレナータの誕生日なんだから、この話はもう終わりだ。もっと楽しいことを考えろ」

「――うん、分かった! えっとね、それじゃあね……アレス、今年の誕生日プレゼントは何をくれるの?」


 アレスに頭を撫でられ、ご満悦になったレナータは素直に頷き、少し考える素振りを見せた後、期待に目を輝かせた。


(そうだ、それでいい)


 レナータが抱える悩みは、本人の力だけではどうしようもないものだ。永遠に答えなんて出せないのではないのかと思うような悩みや、本人の意思とは関係ないところで起きている問題に、レナータが煩わされる必要はない。


 気にするなというのは難しいのかもしれないが、それでもレナータにはできるだけ笑顔でいて欲しい。今みたいに、年相応の子供らしいことだけを考えていればいい。


「それは、あとのお楽しみだ」

「えー。じゃあ、ヒント! どんなプレゼントをくれるのか、ヒントだけでもちょうだい!」


 レナータの小さな両手がアレスの肩に乗せられ、軽く揺さぶられる。アレスがふざけて、そのまま後ろへと倒れ込めば、レナータの唇から小さな歓声が零れ落ちてきた。


「レナータが喜びそうなやつ」

「ヒント、雑! それじゃあ、分からないよー」


 ベッドの上に仰向けに倒れ込んだアレスの上に乗っているレナータが、不満そうな面持ちで顔を覗き込んできた。その拍子に、ダークブロンドがさらりと零れ落ち、アレスの頬をくすぐる。


「だから、見てからのお楽しみだ」

「ぶー、アレスのケチ!」


 言葉と同時に、恨めしそうに翡翠の瞳が細められ、薔薇色の頬がぷうっと膨らむ。しかし、何を思ったのか、アレスから目を逸らしたレナータは、急にそわそわと期待を滲ませた表情を浮かべ、部屋の扉を凝視し始めた。

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