アレスの職場
――アレスたちがスラム街に辿り着いてから、三カ月近くが経過しようとしていた。
あの後、アレスはスラム街にある工場で、修理工として働くことになった。
オリヴァーに機械の知識や技術を叩き込まれていた間、技術者としての資格を取得するように勧められ、可能な限り、資格を取っておいたのが功を奏し、就職活動は拍子抜けするほどあっさりと終わった。
しかも、アレスの勤め先は何かと鷹揚で、幼いレナータを連れていき、工場の片隅で仕事が終わるまで待たせていても構わないと、許可までくれたのだ。
だから、その日もレナータを連れ、仕事先に行こうとしていた。
***
「アレス、出かける準備できたよ!」
必要なものをショルダーバッグに詰め込み、デニムのキャスケットを目深に被ったレナータが、笑顔でアレスへと向き直る。
本人は自信満々だが、レナータがすっかり忘れているものに気づき、つい眉間に皺を寄せた。
「おい、レナータ。出かける時はこれをつけろって、いつも言っているだろ」
アレスの言葉に、レナータはきょとんと目を瞬かせていたものの、その華奢な首にあるものをつけると、ようやく何を言われているのか理解したらしく、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「……ごめんなさい、アレス。うっかり、忘れちゃっていたよ」
レナータの細くて白い首に巻き付けたのは、黒い幅広の、飾り気のないチョーカーだ。
だが、これはただのチョーカーではなく、いざという時のための送受信機だ。これも、エリーゼが作ってくれたもので、アレスも全く同じものを持っている。現に今、アレスの首にもチョーカーが巻かれている。
そして、世界に二つしかないこの送受信機は、互いの声紋しか認識できない。また、音声の送信と受信は、それぞれ一度きりしか使えないから、これは本当にどうしようもなくなった時の奥の手だ。
その重要性を熟知しているレナータは、アレスが何も言わずとも、いつもは自分でチョーカーを装着しているから、本当に今日は頭から抜け落ちてしまったのだろう。
「こういう、慣れてきた頃が、一番危ねえからな。ちゃんと気をつけろ」
「うん、気をつける!」
「よし、いい子だ」
力強く頷いたレナータの頭をキャスケット越しに撫でると、薔薇色の頬が幸せそうにふわりと緩んだ。それから、レナータにチョーカーをつけるため、その場にしゃがみ込んでいたアレスが立ち上がれば、すぐさま小さな手が伸びてきた。すかさず、アレスがその手をきゅっと握った途端、レナータはますます嬉しそうに笑った。
アレスも工具箱とその他の荷物を持ち、家の外に出るなり、施錠をした。この家の鍵はどこにも見つからなかったから、鍵穴の形状を調べ、アレスが自作したのだ。今のところ、問題なく鍵としての機能を果たしているため、よしとする。
何となく空を仰ぎ見ると、頭上には雲が広がり、青空はほとんど見えなかった。今日は大丈夫そうだが、明日はもしかすると雨が降るかもしれない。
空から視線を引き剥がし、職場に向かうために歩き出せば、レナータもアレスにぴったりと寄り添いつつ、ついてきた。
エリーゼが、万が一の時の避難先として、このスラム街を指定した理由は、二つある。
一つ目の理由はもちろん、楽園が承認したエリアよりも、スラム街の方が楽園の人間の目を掻い潜れるからだ。そして、もう一つの理由は、この第二エリアと第三エリアの中間地点にあるスラム街が、数あるスラム街の中で一番マシだと、エリーゼとオリヴァーが判断したからだ。
しかし、それでも所詮、スラム街はスラム街だ。ジャンヌが言っていた通り、治安は悪い。だから、レナータと一緒に外出する際、アレスから決して離れぬよう、手を繋いで歩くのが習慣と化しつつあった。
「今日は、アレスの仕事場に、私もついていっていいんだよね」
「ああ」
「今度、ジャンヌおばあちゃんの家に遊びにいくのは、いつ?」
あの日以来、アレスは交換条件として提示された、ジャンヌの家の屋根を修理するため、度々足を運んでいた。屋根の修繕はもう終わったのだが、アレスが作業している間に、ジャンヌの話し相手を務めていたレナータは、あの老婆にいたく気に入られてしまったのだ。それならばと思い、時々レナータの子守をジャンヌに頼むようになっていた。
「さあな。まだ、はっきりとは決まっていない」
「ふうん、そっか」
レナータは曖昧な相槌を打つと、アレスから視線を外し、前方を見据えた。
大通りに差し掛かった直後、一気に周囲が騒がしくなっていく。多くの人々が行き交い、喧騒が鼓膜を侵食していく。
万が一にもレナータがはぐれぬよう、繋いだ手にさらに力を込める。視線を落とせば、レナータはキャスケットを一際深く被り直していた。
ジャンヌが危惧していた通り、幼いながらに整った顔立ちをしているレナータは、この辺りでは良くも悪くも目立つ。容貌に恵まれていることは、本来ならば才能の一つだろうに、ここでは誘蛾灯としての役割ばかり果たしているような気がする。
しっかりと手を繋ぎ合わせたまま、歩き続けていくうちに、アレスの職場である工場が見えてきた。外装が薄汚れているから、一見廃工場みたいだが、ここの設備は今日もしっかりと稼働している。
「――おはようございます」
「おはようございます!」
工場の中へと足を踏み入れたアレスとレナータが、声を合わせて朝の挨拶を告げるや否や、賑やかな声が応じてきた。
「おっ! アレス、レナータ、おはよう」
「レナータ、今日も来てくれたのかあ。おじさんたち、嬉しいぞ」
「本当? それなら、来た甲斐があったなあ」
アレス同様、作業着姿の男たちがわらわらと群がってきても、レナータは動じた様子を砂粒ほどにも見せず、にこやかに対応している。レナータが笑顔を振り撒けば振り撒くほど、場の空気が華やいでいくようだ。その空気が伝播していくかのごとく、レナータの周りに集まってきた従業員たちの表情も、自然と笑み崩れていく。
「ほれ、レナータ。飴、食うか?」
「うん! おじさん、ありがとう!」
色とりどりの包み紙に包まれたキャンディを差し出されたレナータは、嬉しそうに受け取った。
「最初の頃は、全然もらってくれなかったから、おじさん寂しかったけど、最近はもらってくれるようになって、嬉しいなあ」
見知らぬ中年男性が幼女に向かって、いきなり飴をあげると言ったら、警戒されて当然だ。
この工場へと足を運び始めたばかりの頃のレナータは、こう言われる度、怯えたようにアレスの後ろに隠れていた。でも、今では相手が害を為す存在ではないと、レナータも分かってきたから、こうして笑顔で受け取るようになっていた。
「おじさん、寂しい思いさせちゃっていて、ごめんね。知らない人からお菓子をもらっちゃ駄目だって、教えられていたから」
両手いっぱいにキャンディを乗せられたレナータは、困ったように微笑んだ。
(いや、レナータは間違ってねえだろ)
ここは何が起きるか分からないような場所なのだから、何事も警戒しておくに越したことはない。むしろ、警戒心を煽るような真似をする方が悪い。
そんなことを考えていたら、不意にレナータがアレスへと振り向いた。
「アレスも飴、舐める?」
「ん。じゃあ、もらう」
「はい、どうぞ」
差し出された小さな両手から、適当にいくつかキャンディを摘まみ上げると、レナータにキャンディを贈った主が、不満そうな声を上げた。
「おい、アレス。俺は、お前にはあげた覚えはねえぞ」
「あげた時点で、これはレナータのもんなんだから、レナータがどうしようが、別にいいだろ」
一応アレスは従業員の中では最年少だから、敬語を使うべきだと、働き始めたばかりの頃は思っていた。だが、敬語を使われると、妙に堅苦しい感じがして疲れると周囲に言われ、今では周りに合わせている。さすがスラム街というべきか、この職場では上下関係があまり厳しくないのだ。
レナータからお裾分けされたキャンディを作業着のポケットに突っ込み、定位置につく。そして、今日の作業の準備を始めていたら、レナータがこちらに駆け寄り、アレスのすぐ傍にしゃがみ込んだ。
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