新生活
「あんた、随分と品性がひん曲がっているねえ」
「あんたは、うるせえ婆だ」
そう言い返せば、ジャンヌはますます声を上げて笑った。何がそんなに愉快なのか知らないが、先刻までのしんみりとした雰囲気を醸し出されるよりは、余程いい。
「……まあ、そういうわけだからね。あんたたち、兄妹だか何だか知らないけど、あのお嬢ちゃんを簡単に売っ払うんじゃないよ。お嬢ちゃん、この辺じゃ珍しいくらい、品のある美人さんだからね。売れば、相当な値が張るだろうけど、家族を売り飛ばすような下種になるもんじゃない。じゃないと、あたしみたいに後悔するよ」
「ならねえよ、婆」
アレスとレナータは兄妹ではないが、ここではそう通しておいた方がいいのだろうか。いちいち訂正するのも、面倒臭い。
「そうかい。なら、いいけど。それじゃあ、婆は今度こそ退散するよ」
「ああ」
アレスが返事をした頃にはもう、ジャンヌはゆっくりと歩き出していた。
もし、この近所に住んでいるのならば、屋根の修繕工事の時以外にも、会う機会があるのかもしれない。その時は、挨拶くらいはしておくかと、胸中で呟く。
腰が曲がった老婆の後ろ姿が見えなくなったところで、アレスは新しい自分たちの家の中へと戻った。
***
「――あ、アレス。おかえりなさい」
アレスが家の中に戻ってくると、レナータはどこから見つけ出してきたのか、台拭きでダイニング兼リビングのテーブルを磨いていた。テーブルの近くには、水が張ったバケツと、バケツの縁にかかっている雑巾もあった。
「あのね。さっき確かめてみたんだけど、水回り、ちゃんと使えたよー。だから、今日使いそうなところの掃除を始めたところだったんだ」
幼いなりに、生活環境を整える準備を始めていたらしい。
でも、レナータの腕力では台拭きを上手く絞れなかったのだろう。レナータが一生懸命水拭きしているテーブルの上は濡れており、お世辞にも綺麗になったとは言い難い。
「レナータ、それは俺がやるから。……それより、水回りが使えたって言っていたな。それなら、風呂掃除してくるから、終わったら、風呂に入るぞ」
「お風呂!? やったあ! さっぱりするね!」
やはり、二日連続で入浴できなかったから、それなりに不快に思っていたみたいだ。テーブルを拭くために乗っていた椅子の上から軽やかに降り立つと、レナータは両手と共に歓声を上げた。その姿は、これまでのレナータと何一つ変わっていないように見える。
素直に喜びを表現しているレナータと目線を合わせるため、その場にしゃがみ込む。
「レナータ」
「ん? なあに?」
アレスが名を呼ぶと、レナータは不思議そうに小首を傾げた。レナータの動きに合わせ、艶やかなダークブロンドがさらさらと揺れる。
「これから、二人での生活が始まるな」
「うん、そうだね」
アレスの言葉に、傾げていた首の位置を元に戻したレナータは、相変わらず怪訝そうにしていたものの、素直に頷いた。
「絶対、お前には今までしなくて済んだ苦労をさせる。使える金も、今までよりずっと少ねえし、環境だってよくねえ。しばらくは、お前を一人で出歩かせることもできねえだろうから、確実に不自由な思いをさせることになる」
エリーゼたちは、いざという時のために逃亡資金を用意してくれていた。さすが元楽園の住人というべきか、これだけあれば、しばらくの間は生活に困らないだろう。
だが、使っていれば、いつかは底が尽きる。そして、生活していく以上、金は欠かせないものだ。
「しかも、俺は働きに出るつもりだ。幸い、今の時代は十三歳から働けるからな。だから、今までみたいにお前に構ってやれる時間は、間違いなく少なくなる」
オリヴァーから、機械に関する知識と技術を伝授してもらえたから、おそらく就職先には困らないだろう。機械の存在が日常生活に溶け込んでいる現代では、機械に強いというのは大きな武器になる。
これで、資金繰りの悩みは解消されるが、その代償にレナータと一緒に過ごす時間は、今までとは比べものにならないくらい、少なくなるのは目に見えている。こうして改めて言葉にしてみると、自分がいかに子供で、無力で、甲斐性がないのか、痛感させられる。
「けどな、俺にできる限りのことは、やろうと思っている。だからレナータ、何か不満があったら、ちゃんと言ってくれ。可能な範囲で善処する。だから、その……これからも、よろしくな」
言葉にして伝えていくうちに、どうしてか徐々に気恥ずかしくなってきた。これまで、家族同然に一緒に暮らしてきたというのに、改めて同居する上での自分の考えを口にすることに、違和感を覚えているのかもしれない。
真面目な表情でアレスの言葉を聞いていたレナータは、急ににっこりと微笑んだ。
「――アレス、ありがとう」
何の前触れもなく告げられた感謝の言葉に、きつく眉根を寄せる。一体、今の話のどこに、感謝する要素があったのだろう。
そんなアレスの疑問を見透かしたかのごとく、レナータは柔らかい笑顔で言葉を続けた。
「だって、アレス。アレスは、ここで私と生活していくために、自分の時間を犠牲にしてくれるんでしょ? しかも、私が少しでも生活しやすいように、我慢だってしてくれるんだよね? アレスは今、確かに私よりお兄さんだけど、それでも十五歳の子供なのに、そこまでしてくれるって、宣言してくれたんだよ? お礼を言って、当然だよ」
レナータの言葉に虚を突かれ、思わず目を見張る。
アレスだけの生活力では、どうしてもレナータに我慢を強いてしまう。アレスが自分の時間を犠牲にするのと同じように、レナータも自由な時間を手放さなければならない。それだけではなく、今まで以上の危険がレナータに付き纏う可能性が非常に高い。
しかし、レナータはそのことには一切触れず、心の底からアレスに感謝をしている。ここで生きていくために、アレスが失わなければならないものを想い、心を砕いてくれている。
「私、まだまだ子供で、できることは少ないけど、できることは一生懸命やるね。アレスも、私にこうして欲しいって思うことがあったら、遠慮なく教えてね。子供二人だけで生活していかなきゃいけないから、お互い、大変なこと、いっぱいあるだろうけど、それでも私は、少しでもアレスと楽しく暮らしていけたらいいなあって、思っているよ」
穏やかに澄んだ翡翠の眼差しが、アレスに一途に向けられる。その眼差しの向こうに、かつてのレナータを垣間見た気がした。
「だから、アレス――こっちこそ、これからもよろしくね!」
レナータの笑みがより一層深まった刹那、小さな手で拳を作ったかと思えば、アレスの眼前に突き出してきた。その意図を読み取ったアレスも笑みを零し、その小さな拳に自身の拳を軽く触れ合わせる。
「――望むところだ」
そう返せば、レナータの瞳が本物の翡翠みたいに、きらきらと幸せそうに煌めいた。
レナータとの二人での生活は、口で言うほど、楽なものではないのだろう。十中八九、予想を上回る苦難が、二人に降りかかってくるに違いない。
でも、何故だろう。レナータの陽だまりみたいな笑顔を見つめていると、何とかなるのではないかと、自然と思えてくる。
だから、今は余計なことはごちゃごちゃと考えたりせず、先程宣言した通り、自分にできることを精一杯やっていこう。
――こうして、アレスとレナータの二人での生活が、幕を開けた。
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