昔語り
「――この家はね、つい最近まで若い男女が暮らしていたんだけどね、何でも借金をこさえちまったみたいで、夜逃げしたのさ。だから、今はまだ誰も使っちゃいないよ」
「……ろくな物件じゃねえな」
老婆が案内した先にあった家は、見た目こそ普通だ。外装はそこまで汚れておらず、内装もどちらかといえば綺麗な方だと思う。しかし、随分と訳ありだ。
呆れて老婆を半眼で見遣れば、何故か溜息を零された。
「これでも、随分とマシな方さ。中には、こんなもんじゃない事故物件もあるからねえ」
つまり、スラム街にある空き家というものは、事故物件しかないのだろうか。その上、自殺した人間が暮らしていた家や、殺人事件が発生した家なども、この口振りだと、ごろごろあるのだろうか。
「まさか、俺たちのところに借金の取り立てが来ねえだろうな」
「来たら、兄ちゃん。その凶悪な目つきで追い返してやりな。あんた、顔だけは堅気っぽくないからねえ」
「うるせえよ、婆」
否定しないということは、可能性は皆無ではないのだろう。
舌打ちを零し、レナータに目を向ければ、何やら家の中を探索していた。アレスたちがいるダイニング兼リビングから、時折、姿を消していたものの、真剣な面持ちで家中を隈なく見て回ってきたらしいレナータは、やがてぱたぱたと駆け戻ってきた。
「アレス。この家、少し掃除して、片付けすれば、すぐに使えそうだよ! 残っていた荷物は、使えるものは使わせてもらって、いらないものはさっさと捨てちゃおう!」
スラム街に入ってから、ずっと不安そうに表情を曇らせていた少女とは思えないほど、レナータは目をきらきらと輝かせ、元気よく家の状態を報告してきた。この切り替えの早さと、神経の図太さは、一体何なのか。
呆気に取られているアレスに構わず、老婆は口を大きく開け、けらけらと笑った。その拍子に、不揃いな歯並びが顔を覗かせた。
「お嬢ちゃん、あんた、見た目に似合わず、結構強かだねえ。そうだ、その勢いだ。女は度胸だよ」
「うん!」
老婆に向かって大きく首を縦に振ったレナータは、再びアレスへと向き直った。
「でもね、ベッドは大きいのが一つしかなかったから、そのうちどこかで調達してこよう」
「……そうだな」
ここで暮らしていたのは、年若い男女だったという話だから、大きいベッドが一つしかないというのも頷ける。でも、幼いレナータの口からそうはっきりと言われると、何とも複雑な気持ちにさせられる。
「ねえねえ、アレス。どうせなら私、二段ベッドがいいなあ。そうしたら、そんなに場所取らないし、私、上で寝たい!」
「見つかったらな」
今のレナータが、どこまでそういうことを理解しているのか、アレスには分からない。そもそも、知りたいとも思わない。
だから、天真爛漫に見えるレナータに合わせ、相槌を打っていると、しわがれた声が割り込んできた。
「それじゃあ、あたしはこれで退散しようかね。また困ったことがあったら、あたしに言いな。多少は融通を利かせてやれるかもしれないからね。……ああ、そうそう。名乗るのを、すっかり忘れていたね。あたしの名前は、ジャンヌ。あんたたちは?」
「……アレスだ」
「レナータです。今日はありがとうございました、ジャンヌおばあちゃん」
僅かな逡巡の末、ファーストネームだけを伝える。向こうもそうだったのだから、別に不自然ではないはずだ。レナータも、アレスに合わせて答えると、礼儀正しく深々と頭を下げ、礼を告げた。
すると、ジャンヌの目がひどく優しいものに変わった。同時に、どこか切なさも孕んでいるように見える。
「……そうかい。二人とも、いい名前だね」
それだけ言うと、ジャンヌはこちらに背を向けた。
「ジャンヌおばあちゃん、またね!」
玄関に向かっていくジャンヌにレナータが無邪気に別れの言葉を投げかけた刹那、その背がびくりと震えたのが見て取れた。そんなジャンヌの反応に、レナータはきょとんと目を瞬かせている。
「――レナータ、お前はここで待っていろ。俺は、あの婆さんを見送ってくる」
アレスが眉間に皺を刻み、そう告げると、レナータは何かを察したに違いない。ふわりと微笑んだかと思えば、素直に頷いてくれた。
アレスがジャンヌの後を追い、家の外に出るなり、目の前の老婆は億劫そうにこちらを振り返った。
「何だい。こんな姿を追いかけても、いいことなんざ、ひとっつもないよ」
「だろうな。だから、用件だけ済ませたら、さっさと家の中に戻る」
「あんた、ほんっとうに可愛くない子だねえ……」
不機嫌そうに表情を歪めたジャンヌを余所に、すかさず口を開く。
「――婆さん、あんた、本当になんで俺たちに親切にしてくれたんだ。あんたは、あいつを――レナータを通して、何を見ている?」
――最初は、疑ってかかっていたものの、話しているうちに、物好きで世話好きな老婆なのだろうと、アレスなりに結論を出した。
だが、レナータに「おばあちゃん」と呼ばれた途端、明らかに纏う雰囲気が変わったように思えてならなかった。レナータを通し、ここにはいない誰かを見ているのではないかと、直感が働いたのだ。
アレスがそう疑問を投げかけた瞬間、ジャンヌははっきりと息を呑んだ。それから、数拍の間を置いた後、苦笑いを浮かべた。
「……兄ちゃん。あんた、勘が鋭いねえ」
「レナータほどじゃねえよ」
そう、アレスはレナータはど、勘が鋭いわけではない。ただ、今のレナータに昔のレナータを重ね合わせて見た経験が、アレスには幾度もあったから、気づけただけの話だ。
「そうかい。あの子は度胸もあるみたいだし、大した子だねえ」
しみじみと呟くように言葉を零したジャンヌは、ふと遠い目をした。
「……昔、あたしにもね、あのくらいの年頃の孫娘がいたんだよ。あのお嬢ちゃんほど美人じゃなかったけどね、綺麗な顔をした子だったんだよ」
唐突に始まった昔語りから察するに、ジャンヌはレナータに自分の孫を重ねて見ていたに違いない。玄関の扉にもたれかかり、適当な相槌を打ち、視線で続きを促す。
「あんたも、この街の様子を見て、分かっただろうが、ここは治安が悪い。その上、選べる職種にも限りがある。だから、女に産まれた人間の末路は、ここでは大抵決まっている」
話が薄々読めてきたアレスに、口を挟む余地など欠片もない。だから、沈黙を貫くしかなかった。
「あの子は、家族の暮らしを少しでもマシにするために、娼婦になったのさ。まあ……あの子の場合、それだけじゃなかったんだけどね」
そこで、ジャンヌの苦い笑みがまた一段と深まっていく。
「あの子はただ綺麗なだけじゃなくて、上にのし上がってやりたいっていう野心と、自分の顔を武器にするだけの強かさがあった。自分の野心を満たしてくれる相手を見極め、その懐に入り込めるだけの賢さと器用さがあった。そうやって、少しずつ上に上り詰めていって、ついには身請けされて、この街から出ていった。……だからこそ、自分を過信しちまったんだろうね」
不意に、ジャンヌは頭上に広がる空を仰ぎ見た。ジャンヌが語る昔話とは対照的に、今日の空はやはり青く澄み渡っている。
「今まで、何のかんのといって、家族に連絡を入れてくれていたんだけどね。ある時を境に、あの子の消息がぱったり途絶えちまった。娼婦は、体力が要る仕事だからね。無理をして、身体を壊しちまったのかもしれない。客から、病気をもらっちまったのかもしれない。身請け先が、ろくでもないところだったのかもしれない」
娼婦という職業柄、ジャンヌが挙げた可能性はどれも当てはまる。だからこそ、話を聞けば聞くほど、ジャンヌの孫娘の生存が絶望的なものに思えてくる。
「だから、今となっては、あの子が生きているのか死んでいるのか、それすらもう分からなくなっちまったんだよ。……だからなのかねえ。ここに流れ着いた娘を見ると、どうしても手を貸しちまう。あたしは、それが自分にできる、罪滅ぼしだとでも思っているのかもしれないねえ」
「……だから、俺たちに親切にしてくれたのか」
ジャンヌの話を聞き終えた今、目の前の老婆が取った行動の理由に、深く納得していた。
罪悪感という感情は、ひどく厄介なものだ。自分自身で制御できず、自分でも気づかないうちに突き動かされてしまうこともある、面倒極まりない代物だ。
しかし、それは必ずしも悪いものだとは、思わない。現に、アレスたちはジャンヌが抱える罪悪感に助けられたのだ。アレスたちに、どうこう言う筋合いなどない。
「婆さん、ありがとうな。おかげで、助かった」
玄関の扉から背を離し、感謝の言葉を述べると、ジャンヌが不可解そうな目を向けてきた。
「純粋な善意で助けたって言われるより、自分のためにやったことだと言われた方が、よっぽど納得できる。これ以上、あんたを疑わずに済むしな」
思ったことをそのまま口に出した直後、ジャンヌが盛大に笑った。
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