無法地帯

 スラム街へと足を踏み入れる前から、ざわめきが聞こえていたものの、実際に中に入っていくと、一際雑多な音の洪水が鼓膜に押し寄せてきた。

 これまで、買い出しのために何度も第三エリアへと足を踏み入れたことがあるが、楽園が承認しているエリアと、そうではないエリアでは、全く様相が異なるのだと、改めて思い知らされた。


 第三エリアは、中流階級の人間が数多く居住しているエリアだからか、楽園ほど洗練された空気はないものの、全体的に落ち着いた雰囲気が漂っている。適度に賑わい、適度に静かで、暮らしやすいという表現が最も適したエリアなのではないかと、アレスは思っている。


 でも、このスラム街は、あらゆるものがごった返し、薄汚い印象が強い。通りも整備されているとは言い難く、あちこちにゴミが転がっている。いくつも露店が出ているが、今までアレスが見てきたものに比べると、よくこんなものを商品として売り出そうと思えたなとしか言いようがない。

 それに何より、新参者であるアレスたちを品定めしている、舐めるような視線が全身を這い回り、ひどく不快だ。周囲から突き刺さる視線に怯えたレナータは、より強くアレスにしがみついてきた。


(やっぱり、レナータは他人からの理由のない悪意に慣れてねえな)


 人工知能だった頃から、人間に生まれ変わった現在に至るまで、ずっとレナータを見てきたからこそ分かる。


 人工知能だった頃は、何百年もの間、意図的に他者との接触を避けていたから、良くも悪くも浮世離れしていた。そして、人間に生まれ変わってからは、家族にずっと守られてきたから、やはりレナータはどこか世間知らずだった。


 もし、あのままあの家で暮らせていけたのなら、それでも構わなかった。だが、これからここで暮らしていく以上、少しずつでも慣れていってもらうしかない。レナータはまだ幼い子供だから、きっと大人よりもずっと早く環境に順応していけるはずだ。


 その時、ふと強い視線を感じて周りの様子を窺えば、幾人かの男がレナータを眺め回していた。その目には、明らかに下卑た色が見え隠れしている。

 まさか、まだこんな幼い子供に欲情しているのかと、一瞬身構えたものの、即座にそうではないと気づく。


(ああ……そうだよな。どんな世の中でも、一番儲かるのは、人身売買だよな)


 アレスの腕の中にすっぽりと納まっている、レナータへと視線を落とす。

 レナータは幼いながらに、非常に整った顔立ちをしている。このまま順調に成長していけば、かつてのあの美貌を取り戻すだろうと、容易に想像がつく。事情を知らない他人の目から見ても、将来はきっと美人になるに違いないと思うはずだ。

 あの男たちの魂胆は、将来有望な美少女を、どこぞの変態どもに売りつけたら、どれだけの値になるだろうとか、そんなところだろう。


 レナータの顔を周囲から隠すように、その小さな後頭部に手を回し、アレスの肩にそっと押しつける。そして、周りを牽制するように睨みを利かせれば、すっとアレスたちから視線が逸れていった。


(とりあえず、まずは寝床の確保だな……)


 アレスもレナータも、丸二日、ろくなところで眠れていない。アレスの身体はまだ音を上げていないが、ゆっくりと休めるなら、それに越したことはない。それに、幼いレナータは、口では何も言わないものの、アレス以上に休息を欲しているはずだ。


 どこかに手頃な空き家でもないかと、周囲への警戒を怠らないまま、路上を進んでいく。露店が並ぶ通りを抜けたら、途端に辺りが静かになった。おそらく、この辺りが居住区に違いない。

 不躾な視線を感じなくなったため、アレスの肩に押しつけていたレナータの耳元に囁きを落とす。


「――レナータ、そろそろ降りるか」


 アレスの問いかけに、レナータは肩に顔を埋めたままではあったものの、こくりと頷いた。それから、レナータを地面に下ろすや否や、小さな手が助けを求めるように、アレスの手をぎゅっと握ってきた。


「よし。じゃあ、レナータ。これから俺たちが住む家を探すぞ」


 必要以上にレナータを不安がらせないよう、いつもの口調を心がけて声をかければ、翡翠の瞳がきょとんとアレスを見上げてきた。ぱちぱちと忙しなく瞬きをしたかと思えば、レナータはようやくふわりと微笑んだ。


「……うん! 頑張って、今日中に探そう」


 握り拳を作り、上に向かって突き上げたレナータは、まだまだ本調子を取り戻したわけではないだろう。しかし、空元気を出す精神的な余裕はあるみたいで、内心安堵する。

 レナータと繋いでいる手をきゅっと握り返し、二人並んで歩き出そうとした矢先、思いも寄らぬ方向から声をかけられた。


「――あんたたち、新入りかい?」


 しわがれた老婆の声が耳朶を打った瞬間、咄嗟にレナータを背後に庇った。アレスの上着の裾をぎゅっと掴み、レナータが息を殺して様子を窺っている気配が伝わってくる。


 鋭く視線を向けた先には案の定、顔中に深い皺が刻まれた、小柄な老婆が立っていた。つい先程までは、誰もそこにはいなかったというのに、一体いつ現れたのか。まるで、お伽噺に登場する魔女みたいだ。

 腰の曲がった老婆からは、害意は伝わってこない。たとえ敵に回ったとしても、少年と青年の狭間にいるアレスの相手になれるとは、到底思えない。

 でも、年齢を重ねている分だけ、相手の方が遥かに知恵が回るだろう。相手の目的が分からない以上、警戒を解くわけにはいかない。


「……何の用だ」


 低く威嚇するような声で、問いを投げかければ、アレスたちに声をかけてきた老婆は、鼻で笑った。


「おやまあ、まるで毛を逆立てた猫みたいじゃないか。そんなにぴりぴり殺気立たなくても、何もしゃしないよ。こんな婆に、何ができるっていうんだい」

「そうやって、こっちの隙に付け込むくらいのことはできるだろ」

「確かに、そのくらいのことはできるかもしれないねえ。だが、そんなことをしたところで、あたしに大した得はないと思うね。見たところ、あんたたち、そんなに金持っていないだろ。金目のものもなさそうだしね」

「追いはぎかよ」


 つまり、アレスたちにそれなりの所持金があり、金目のものを持っていたら、この老婆は強奪しようと目論んでいたのだろうか。


 アレスがすっと目を細め、言葉を吐き捨てれば、老婆は大袈裟に肩を竦めてみせた。


「おお、怖い、怖い。兄ちゃん、あんた色男なのに、目つきだけは悪いね」

「余計なお世話だ」

「それも、そうだ」

 ぎゅっと眉間に皺を寄せると、老婆は快活に笑った。

「で? 結局、何の用だ。用がねえなら、とっとと失せろ」

「まったく……最近の若いのは、礼儀がなってないねえ。……なに、あんたたち、どこからどう見ても、ここの新入りにしか見えないからね。お節介な婆が、世話でも焼いてやろうかと思っただけだよ」

「それこそ、あんたに何のメリットもないと思うが」

「あるさ。正直、あんたみたいな生意気な若造がどうなろうが、あたしの知ったこっちゃないけどね、後ろのいたいけな可愛らしいお嬢ちゃんが、その辺の馬鹿な男たちの食い物にされたら、寝覚めが悪いからね」


 そう言いつつ、老婆はアレスからレナータへと視線を移した。ちらりとレナータを見遣れば、驚愕に目を見開いているものの、怯えた様子はなく、おずおずと老婆を見つめ返している。


「だから、あんたたちの住処くらいは、探すのを手伝ってやるさ。今のあんたたちには、必要だと思うけどねえ」


 老婆の言う通り、確かにアレスたちは今まさに、ここでの生活拠点を探す予定だった。だが、安易に助力を乞えるほど、アレスはまだ老婆を信用できない。

 そんなアレスの心境を、見透かしたのかもしれない。老婆はもう一度鼻を鳴らしてから、口を開いた。


「……そんなに、あたしが信用できないってんなら、これならどうだい? あたしは、あんたたちの住処を探すのを手伝ってやる。そうしたら、兄ちゃん、あたしの家の屋根の修理をしてくれ。どうも最近、雨漏りするようになっちまったんだが、自分ではどうしようもできないからねえ……」


 確かに、その曲がった腰では、屋根の上に上り、大工仕事をすることなど、無理難題に決まっている。等価交換となれば、いくらか疑心が和らいでいく。


「……アレス。この人のこと、信じても大丈夫だと思う」


 突然、老婆から引き剥がされた翡翠の眼差しが、アレスをまっすぐに射抜いてきた。澄んだ翡翠の瞳は、恐ろしいほどに揺らがない。


「……分かった。なら、お言葉に甘えて、頼む」


 老婆に視線を戻し、そう告げると、これ見よがしに溜息を吐かれた。


「まったく、最初っからそう言えばいいのにねえ。本当に、可愛くない男だ」

「あんたに可愛いと思われても、薄気味悪いだけだ」

「ほんっとうに、可愛げのない男だね。お嬢ちゃん、この兄ちゃんみたいになるんじゃないよ」

「えっ……と……」


 視線を落とせば、レナータが困り顔で老婆とアレスを交互に見遣っていた。


「真に受けるんじゃねえよ」

「あたしは、本気で言ったんだけどねえ」


 レナータの頭をキャスケット越しにくしゃりと撫でたら、老婆が言葉を被せてきた。本当に、口うるさい老婆だ。


「さて、と。じゃあ、ついてきな。確か、こっちの方に空き家があったはずだ」


 そう宣言するなり、老婆はすたすたと歩き出した。腰が曲がっているというのに、足取りだけはまだまだ若々しい。

 改めてレナータと手を繋ぎ直すと、互いに顔を見合わせ、頷き合う。そして、先導する老婆に続いて、アレスたちも歩みを再開した。

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