漂流の果て

 目的地の最寄りのバス停に到着したため、バスから下車すると、レナータの頭にダークグレーのキャスケットを被せ、アレスは上着のフードを目深に被り、手を繋いで歩き出した。

 本当は、車内でもできれば顔を隠していたかったのだが、そんなことをしていたら、かえって目立ってしまうかもしれないと危惧したため、断念した。


 しかし、こうして外を歩いている分には、怪しくも何ともないから、二人の顔がなるべく見えないように、それぞれの方法で隠す。しかも、今日は昨日までの雨が何だったのかと思うくらい、陽光が燦々と降り注いでいるから、尚更不自然さはない。


「――なあ、レナータ」

「ん?」


 おもむろに名を呼べば、前を向いててくてくと歩いていたレナータが、アレスを見上げてきた。


「バスの中で、俺たちを追いかけてくる可能性は、そんなに高くないと思うって、言っていただろ。その理由を訊いてもいいか」

「うん、いいよ」


 レナータはこくりと頷くと、また前方に視線を戻し、正面を見据えたまま言葉を継いだ。


「もし、私たちの家に侵入してきたのが、楽園の人なら――お母さんと私、それにアレスを狙っていたはず」


 流暢に紡がれていく言葉に、つい眉根をきつく寄せる。

 楽園の人間が、エリーゼとレナータに狙いを定めたのは、よく分かる。でも、何故そこにアレスも入っているのだろう。また、どうしてオリヴァーはその対象にならなかったのか。 そんなアレスの声なき疑問に応えるかのごとく、レナータは静かな声色で言葉を繋ぐ。


「お母さんは、あのアードラー一族の末裔だし、AIの記憶と人格データを人間の脳に移植させることに成功した、唯一の科学者だから、 楽園の人間たちにとっては、喉から手が出るほど欲しい人材だと思う。お母さんが楽園に戻れば、もっと夢みたいな技術だって実現できるは ず。だから、楽園の人たちは、何があってもお母さんを欲しがるんじゃないかな」


 楽園の人間が、エリーゼを楽園に連れ戻そうとしている理由は、わざわざレナータに説明してもらわなくても、嫌というほど理解できるのだが、とりあえず黙って透明感のある柔らかい声に耳を傾ける。


「それで、私はAIの記憶と人格データを移植された、唯一の人間。楽園の人たちは、私の脳を色々調べてみたくて仕方ないはず」


 それは、そうだろう。レナータが実験の被験体として扱われるのは、想像しただけでも不快だが、科学者たちはその脳がどうなっているのか、知り尽くしたいに決まっている。


「それから、アレスは数少ないグラディウス族の生き残り。アレスの遺伝子情報は、過去最高傑作だったから、楽園の人たちも、みすみす逃したくないと思う。だから、できることなら楽園に連れ戻したいって考えるはず。……でも、お父さんは――」


 そう続けようとしたところで、レナータは一旦口を噤んだ。そして、苦悶に表情を歪めたかと思えば、感情を失った声が説明を続けた。


「――お父さんは、お母さんほど優秀な科学者ってわけじゃない。楽園の人間たちからすれば、正直いくらでも替えが利く存在。だから……あの時、何かあったのだとしたら、それはお父さんの身に何かあったんだと思う」


 レナータの唇から零れ落ちた声は、見事なまでに平坦だったものの、その横顔はひどく苦しそうだ。

 無理もない。いくら客観的な判断材料を話すためとはいえ、自分の父親を貶めるような発言をした上、大切な家族の身に降りかかった危険を、示唆しなければならなかったのだから、きっと胸が痛くてたまらないはずだ。


 繋いでいた手に力を込めれば、レナータがもう一度アレスを振り仰いだ。一瞬、翡翠の眼差しが儚げに揺れたものの、レナータは強がるように微笑んでみせた。


「……ありがとう、アレス。それで、話の続きだけど――」


 微笑みを消し去り、再び真剣な面持ちになったレナータは、人工知能だった頃同様、恐ろしいまでの切り替えの早さで、話の本筋へと戻っていく。


「だから、楽園の人たちが取り戻したいって思っているのは、私たち三人の可能性が高い。でも、多分一番優先順位が高いのは、お母さんで、 私とアレスはできればって感じだと思う」

「……俺は分かるが、お前のことはそう簡単に諦めないんじゃねえか」

「そうでもないと思う。私は、AIの記憶と人格データを移植された、唯一の人間だけど、人間の脳が受け入れられるAIのデータの 量なんて、たかが知れているよ。実際、私の頭の中にあるデータは、あの人たちにとって価値のあるものだとは、とてもじゃないけど思えない。向こうも、そのくらいは想定の範囲内のはず」

「だが、さっき、レナータの脳を色々調べてみたくて仕方ないはずって、言ったじゃねえか」

「それは、万が一って可能性もあるでしょ。だから、念のために調べたいだろうけど、お母さんに比べたら、私なんて大した存在じゃないよ」


 そう言って肩を竦めてみせるレナータは、八歳児らしくない。


「アレスに関しても、取り戻せたらラッキーくらいにしか、考えていないと思う。アレスは、確かに期待できる可能性を持った遺伝子の持ち主だけど、グラディウス族は一応、他にもいるからね。リックとか」


 再度アレスから目を逸らしたレナータは、深い息を吐き出した。


「それに……いくらお父さんたちが、そう簡単に見つからないようにって、色々工作していたっていっても、限度があるよ。それなのに、八年も私たちを見つけられなかったってことは、楽園は私たちを捜すための人員も時間も、そんなに割けなかったんじゃないかな。そんな状況で、取り逃がした私たちの捜索を続行するのは、ちょっと難しいと思う」

「……なるほど」


 多少希望的観測も見受けられたものの、レナータの推測はそこまで大きく外れているとも思えなかった。

 だが、やはり油断は禁物だ。気負い過ぎていても、いざという時に動けなくなってしまうが、あまりにも楽観的に構えていても、同様の事態になりかねない。


「それに――私たちが、これから行くところは、スラムだから。もし、私たちのことを捜し続けたとしても、今まで以上に手こずるだろうから、そのうち捜査を打ち切っちゃうかもね」


 そう――アレスたちが今、向かっている先は、様々な事情から、どのエリアにも属さないと決めた者が、最終的に流れ着く、名もなきエリアであるスラム街だ。


 人工知能だった頃のレナータの経年劣化が進むにつれ、また人口が増加していくにつれ、こういったエリアが各地で見られるようになったのだという。

 ここには当然、居住権なんてものは必要がなく、認証IDを登録する必要もない。今までアレスたちが使っていた、エリーゼが偽造した認証IDは、まだいくつか使っていないものが残っているが、使わずに済むなら、それに越したことはない。

 そのため、かつてのレナータでさえも、スラム街の詳細については把握しきれていなかったらしいから、人間に過ぎない楽園の住人が、スラム街に住み着いている人の中からアレスたちを捜し出すことは、藁の中から針を探すことに等しいはずだ。

 とはいえ、楽園の人間の手から逃れられたとしても、スラム街はその性質上、また別の脅威が存在する。だから、やはりそう易々とは気を抜くわけにはいかない。


 そんなことを話しているうちに、第二エリアと第三エリアの中間地点にあるスラム街が見えてきた。そこで、レナータと繋いでいた手を一度放し、目線を合わせるため、その場にしゃがみ込む。


「レナータ。ここからは俺が抱えていくから、大人しくしていてくれるか?」

「どうして? 私、まだ疲れていないよ? 自分で歩けるもん」


 そう主張するレナータは、年相応の子供らしく、こんな状況だというのに微かに笑みが零れた。しかし、すぐに表情を引き締め、不満そうに見つめてくる翡翠の瞳を、まっすぐに見つめ返す。


「いいから、今は俺の言うことを聞いてくれ。頼む」


 アレスが真剣に頼み込むと、レナータが驚いたように目を丸くした。それから、アレスが纏う雰囲気から何かを察したのか、翡翠の瞳にほんの僅かに不安が掠めていった直後、おずおずと頷いてくれた。


「よし、いい子だな」


 やはり、レナータは勘が鋭く、物分かりがいい。


 レナータの両脇に手を差し入れ、そのままひょいと抱き上げれば、小さな手がアレスの服をぎゅっと掴んできた。不安そうにアレスの顔を覗き込んでくるレナータを安心させたくて、小さな身体に回している右手で、その華奢な肩をぽんぽんと叩く。

 レナータの肩から次第に余計な力が抜けていった頃合いを見計らい、スラム街へと歩を進めていった。

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