五章 約束

束の間の休息

 宣言通り、夜が明けると、アレスはレナータを連れて、洞窟の外へと出た。アレスが願った通りに雨は上がり、洞窟の外に出た途端、美しい朝焼けに出迎えられた。そして、雨露に濡れた草を踏み分けながら、森の中を進んでいく。


 繋いだ手の先にいるレナータに視線を落とせば、泣き腫らした痕は残っていたものの、黙々と自分の足で歩いている。アレスの視線に気づいたらしいレナータがこちらを見遣ると、翡翠の眼差しと琥珀の眼差しが絡み合った。


「レナータ、疲れていないか」


 何となくそう問いかければ、アレスを見上げてくるレナータがふわりと微笑んだ。


「アレス、まだ歩き始めたばかりだよ? 私は平気」


 透明感のある柔らかい声は、もう落ち着きを取り戻していた。もしかしたら、単に虚勢を張っているだけかもしれないが、強がるだけの心の余裕があるのならば、大丈夫だろう。

 レナータの返答にひとまず頷くと、翡翠の眼差しがアレスから逸れ、前方を見据えた。アレスもレナータに倣い、正面に目を向ける。


 現在、アレスたちは森を通り、バス停へと向かっている最中だ。

 公共交通機関を利用するのは、アレスたちだけではない。だから、仮に追っ手がかかっていたとしても、無関係の人間が大勢いるところで問題を起こすとは、考えにくい。というよりも、そうであって欲しい。


 警戒を怠らずに歩いていると、やがて森の出口が見えてきた。それとほぼ同時に、ちょうどバス停にバスが入ってくるところが見えたため、レナータを急いで抱え上げ、全速力でバス停まで駆けていく。

 このバスに乗れなかったからといって、今すぐどうこうということはないだろうが、それでも少しでも早くここから去った方がいいに決まっている。

 レナータを抱えたアレスがバス停に到着しても、乗降客がまだいたため、バスは動かずにそこに停車していた。


(鍛えておいて、本当によかった)


 何食わぬ顔でレナータを下ろし、バスの利用客の列に紛れつつ、内心安堵する。

 今は、少しでも目立ちたくはない。バスに飛び乗り乗車をしたら、少なからず周囲の耳目を集めたに違いないから、本当に間に合ってよかった。


 アレスたちがバスに乗車すると、やはり朝の時間帯だからか、予想以上に席が埋まっていた。それでも、空いている席を確保し、レナータを座席に座らせる。

 窓際の席に腰を下ろしたレナータは、荷物を下ろすなり、窓ガラスにぴとっと張りついた。窓の外の景色を眺めているのか、あるいは近くに不審な人物がいないかどうか確かめているのか知らないが、熱心に窓の外の様子を窺っている姿は、年相応の子供らしく、三千年もの時を生きてきた人工知能の記憶を受け継いでいる少女だとは、傍目には全く分からない。


 レナータの隣に腰かけたアレスはといえば、車内に密かに視線を走らせていた。バスの乗客に扮したアレスたちの追っ手がいない確証など、どこにもないからだ。


(そういえば……結局、あの侵入者は何者だったんだ? 目的は何だ?)


 一昨日の夜に聞こえてきた銃声が、耳の奥に蘇ってくる。

 相手が持っていた武器が、拳銃だろうとライフル銃だろうと、そんなものは今の世の中では軍の人間か、裏の社会の人間しか手に入れられない。どちらの人間にせよ、そこまでしてあの家に襲撃を仕掛けたということは、それなりの動機が必要となる。

 そう考えると、楽園から逃げ出したアードラー一家を連れ戻しにきたという線が濃厚だ。


 だが、エリーゼたちが消息を絶った以上、真相は闇の中だ。だから、今は何もかもが怪しく映り、疑ってかからなければならない状況に陥ってしまっている。

 しかし、いつまでもこの状態が続いていたら、精神が摩耗してしまう。件の侵入者は、少なくとも凶器を手にし、鉛玉を撃ち放ったのだから、敵であることは疑いようもない。でも、正体と目的が分からない以上、どうしてもこちらは後手に回ってしまいかねない。


「――多分、楽園の人間だと思うよ」


 そんなアレスの心を見透かしたかのようなタイミングで、透明感のある柔らかい声が、囁くようにそう答えた。咄嗟に隣へと振り向けば、いつの間にか車内に視線を戻していたレナータが、アレスを見上げていた。


「やっぱり……そう思うか」


 レナータに合わせて声量を落とし、互いにしか聞こえない声で言葉を紡ぐ。


「うん。でも……私たちの行方を捜している可能性は、そんなに高くないと思う」


 少しふっくらとした柔らかそうな唇から零れ落ちた見解に、思わず目を見張る。


 一瞬、レナータの声を自分以外の誰かが拾っていないかと、こっそりと周囲の様子を窺ってみたものの、目視した限りでは、他の乗客たちがアレスたちに意識を向けている気配はない。それでも、油断はできない状況であることには変わりないため、この話は一度中断しようと、レナータに提案しようとした時には、その唇はもうきつく閉ざされていた。


 そうこうしているうちに、バスがゆっくりと動き出した。車体の揺れに身を任せながら、レナータを無言で見つめていたら、その小さな身体を背もたれに預け、目を閉じてしまった。眠る気配はないものの、視界を遮断することで、少しでも身体を休めようとしているに違いない。

 目を瞑ったレナータから視線を引き剥がすと、自然と深い息が唇から零れ落ちてきた。


(多分、俺を落ち着かせるために、わざわざリスクを冒してまで、あんなことを言い出したんだろうな……)


 実際、レナータがああ言ってくれたおかげで、いくらか気が休まった。


 だが、レナータは何を根拠にして、あの結論を導き出したのか。そして、その理由が分からないままだというのに、どうしてアレスはレナータの言葉を信じる気になったのか。

 レナータの推論の根拠は、やはりどれだけ考えても、アレスには知る由がない。しかし、レナータの言葉は信頼に足ると判断した、自分の気持ちだけは理解できた。


 きっと、アレスに向けられた翡翠の眼差しが、微塵も揺らがなかったからだ。レナータが、自身の発言にある程度の確信を持っていることは、あの目を見ればよく分かった。


(一昨日までは、ただ可愛いだけのレナータだったのにな……)


 レナータ自身は、両親やアレスからの愛情を一身に受けた自分が失われたわけではないと、断言していた。でも、この現状が、レナータを無邪気な子供でいることを許さないのだろう。


 レナータが眠っていないことをいいことに、そっとダークブロンドに手を伸ばす。二日続けて入浴できなかったというのに、レナータの髪は艶やかなままで、触り心地がいい。

 アレスに頭を撫でられても、レナータは目を閉じたままだ。だが、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった気がする。

 たとえ短い間だけだとしても、レナータが穏やかな気持ちでいられたらいいと、願わずにはいられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る