失楽園

 ――もし、避難の際に別行動を取る場合は、この洞窟を合流地点とする。別動隊との合流を待っていて許されるのは、一日だけ。洞窟で一日待機していても、別動隊がやって来なかった、あるいは何の連絡も入らなかった場合は、先に万が一の時のための避難先として指定された、エリアへと向かう。


 レナータのおかげで平静を取り戻したアレスは、ぬるいミネラルウォーターを喉に流し込みつつ、緊急避難時のマニュアルを頭の中で反芻する。


(もし、丸一日待っていても、連絡も来なかった場合は……)


 そこまで考えたところで、眉間に皺を寄せる。


 銃声が聞こえてきたこの状況下で、二人が連絡すら寄越さなかった場合は、命を落としたと判断して間違いないだろう。


 リュックサックから携帯端末を取り出し、時刻を確認すると、既に日を跨いでいた。だが、状況が状況だからか、目も頭も冴え、睡魔が忍び寄ってくる気配は微塵もない。


 そこで、相も変わらずアレスの腕の中に大人しく納まっているレナータに、琥珀の眼差しを注ぐ。

 レナータはアレスの服をぎゅっと掴み、沈黙を保ったまま穴の外の様子を窺っているみたいだ。しかし、表情こそ硬いものの、幼いレナータは眠気には抗えなかったらしく、視線はぼんやりと宙を彷徨っている。


「……レナータ、寝ていていいぞ」

「……こんな時なのに?」


 緩慢とした動作でこちらへと振り向いたレナータは、やはり眠そうだ。元々、レナータは夜更かしが苦手だ。状況が状況とはいえ、一睡もさせなかったら、酷だろう。


「こんな時だからこそ、だろ。今のうちに寝ておかなかったら、いざという時、どうする。 俺が周りの様子を見ておくから、お前は寝ていろ」

「……なら、アレスこそ、寝ておいた方がいいんじゃない? 私より、アレスの方が、いざという時が来たら、大変でしょ」

「俺はお前が起きてから、仮眠を取る。だから、ごちゃごちゃ余計なことを考えていないで、さっさと寝ろ」


 アレスはレナータはど眠らなくても平気な上、必要に迫られれば、すぐに寝入ることができる。そのことは、レナータもよく知っているはずなのだが、睡魔に支配された頭では、考えが回っていないのだろう。


 問答無用にレナータの頭を自分の胸元に押しつけ、拍子をつけて小さな背を軽く叩いていると、瞬く間に寝息が聞こえてきた。この状況でも眠れるレナータの胆力に感心する反面、それだけ精神的にも肉体的にも疲労が溜まっていたに違いないと考える。


(たった数時間前までは、のんきにレナータの誕生日を祝っていたのにな……)


 それなのに、突然の侵入者の登場により、アレスたちの日常は脆くも瓦解してしまった。アレスでさえ、あれだけ動揺したのだから、幼いレナータはその比ではないに決まっている。それでも、アレスを落ち着かせるための行動に出たのだから、レナータの強靭な精神力には驚かされる。


(いや……もしかしたら、強がっていただけかもしれねえな)


 いくら三千年に渡る記憶を取り戻したとはいえ、その器であるレナータの肉体年齢は、たったの八歳だ。本来ならば、到底受け入れられるものではない。もっと取り乱し、騒ぎ立てたとしても、何もおかしなことはない。

 それにも関わらず、レナータは冷静に受け止めてみせた。それだけではなく、何を仕出かすか分からないほどの緊張状態を強いられていたアレスの、正気を取り戻させてくれたのだ。本当に、大したものだと思う。


 アレスにしがみついたまま、すやすやと眠るレナータのつむじを眺めているうちに、雨音はより一層勢いを増してきた。どれだけ耳を澄ませても、アレスの鼓膜に纏わりついてくるのは、やはり雨の音だけだ。誰かの足音が聞こえてくることも、携帯端末に着信が入る気配もない。


 ひたひたと背後から這い寄ってくる不安から、少しでも気を紛らわせようと、眠るレナータを起こさないように気をつけながらも、ダークブロンドに覆われた小さな頭に顔を埋めた。すると、いつものように、ヴァーベナによく似たレナータの香りが、鼻孔をくすぐった。



 ***



 眠りから覚めたレナータと一緒に携帯食を食べたり、少しだけ仮眠を取ったり、周囲を警戒していても、時間はじりじりとしか進まなかった。でも、それでもいつかは終わりがやって来る。


 ついに、家から脱出してから、丸一日が経過した。例の侵入者も、エリーゼもオリヴァーも、とうとう姿を現さなかった。幾度も携帯端末のディスプレイを確認してみたものの、何の連絡も入ってこなかった。


「……レナータ。朝になったら、ここを出発する。いいな?」


 未だ沈黙を守っている携帯端末をパーカーのポケットに仕舞い込み、淡々とそう告げる。昨日の二の舞にだけはなるものかと、自身の感情を抑制する。


 レナータはきゅっと唇を引き結び、素直にこくりと頷いた。だが、その大きな目の縁いっぱいに涙が溜まっている。ほんの些細なきっかけで、涙腺が決壊しかねない様子なのに、レナータは泣き言も漏らさないし、涙も流さない。


「レナータ」


 昨日は、自分のことだけでいっぱいいっぱいで、レナータに気を回す余裕なんて、欠片もなかった。それどころか、守るべき対象であるレナータに気遣われてしまう始末だった。


「――泣きたい時は、好きなだけ泣け」


 昨日と同じように、アレスの膝の上に座っているレナータの頭に、ぽんと手のひらを乗せる。すると、それが合図だったかのごとく、レナータの目尻から大粒の涙が溢れ出してきた。


「……お父さん、お母さん……」


 呟くように両親の名を呼んだ直後、レナータは勢いよくアレスに縋りついてきた。


 レナータは確かに泣いているが、実の両親を失った直後にしては、あまりにも静かな泣き方だった。アレスの肩に顔を押しつけ、声を殺して涙を流す姿は、ひどく痛々しい。

 きっと、万が一にも自分たちが見つからないよう、必死に声を押し殺しているのだろう。悲しくて苦しくてたまらないはずなのに、思う存分泣かせてやれない現状が、もどかしくて仕方がない。


「……昨日は、泣かせてやれなくて、ごめんな。今も……声を出して泣くこともさせてやれなくて、悪い」


 アレスの言葉に、レナータは激しく頭を振る。嗚咽を噛み殺している反動なのか、レナータの小さな身体は先程から小刻みに震えている。


 しかし、今のアレスには、レナータの小さな頭をぐっと抱き寄せ、もう片方の手でその華奢な背を撫でることしかできない。己の無力さを噛み締めるように、奥歯をぐっと食いしばる。


 雨は勢いこそ衰えてきたものの、まだ止まない。明日の朝までには上がっていて欲しいが、今だけはレナータの涙を隠すためにも降り続いて欲しいと、心の底から願った。

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