おかえり、ただいま
あまりにも静謐な翡翠の瞳に、驚愕に目を見開く。つい先程まで、今にも泣き出しそうな顔をしていたというのに、一体どうしたというのか。
「アレス、お水飲んで。ずっと走り通しだったから、水分補給はできる時にしておいた方がいいよ」
アレスの頬に押し当てられていた物体が離れると、正体はミネラルウォーターが入ったペットボトルだと判明した。おそらく、自分のリュックサックから取り出したのだろう。
周囲に気を配るあまり、すぐ目の前にいるレナータが何をしているのかも認識できていなかった自分自身に、苦い気持ちが込み上げてくるのと同時に、やはりその異質な雰囲気に呑み込まれそうになる。
本当に、今目の前にいる幼い少女は、レナータなのだろうか。こんな非常事態の中、アレスの体力を温存させておこうと、冷静に水分補給を勧めることが、この歳の少女にできるのだろうか。
そこで、アレスを見据える翡翠の瞳と、かつてこちらを見下ろしてくるばかりだったマリンブルーの瞳が、唐突に重なって見えた。その錯覚は、いつもならばあっという間に掻き消えてしまうというのに、今回ばかりは何故か消えてくれない。
凝視してくるばかりで、一向にミネラルウォーターを受け取ろうとしないアレスに、レナータは怪訝そうに小首を傾げた。
「アレス?」
「レナー……タ?」
互いの名を呼び合う声が、偶然にも重なり合い、闇に溶けていく。
まさかという思いが、胸の奥底から湧き上がってくる。どうしてこのタイミングでという思いが、どうしても拭い去れない。
しかし、そんなアレスの予感を裏付けるかのごとく、不意にレナータがふわりと微笑んだ。
「――久しぶり、アレス」
その言葉を耳にした途端、予感が確信へと変わっていく。
今までのレナータは、部分的にしか人工知能だった頃の記憶を引き継いでいなかった。でも、危機的状況に瀕したからなのか、三千年もの時を生きてきた記憶を、完全に取り戻してしまったみたいだ。
だから、今のレナータは、あの頃のレナータと寸分違わない、同一人物になってしまったのではないか。そうでなければ、アレスに向かって、久しぶりなんて挨拶はしないだろう。
幼いアレスが淡くも確かに恋をした、あのレナータが戻ってきてくれたことは、嬉しい。だが、もし本当に三千年にも及ぶ記憶を取り戻してしまったのだとしたら、本人の意思に関わらず、レナータはもう無邪気な子供ではいられないのではないか。八歳の誕生日を境に、レナータの子供時代が終わってしまったのだとしたら、素直に喜べない。
アレスが言葉を失っていると、レナータが手にしていたペットボトルを地面の上に置いた。そして、アレスに向かって手を伸ばしてきたかと思えば、白くて小さな手が頬に触れてきた。レナータの手のひらはこれまでと変わらず、柔らかくて温かい。
「……びっくりさせちゃったよね。今までずっと一緒に暮らしてきた妹分に、いきなり久しぶりなんて言われたら。……でも、アレスももう気づいているかもしれないけど、私はあの三千年の思い出、全部思い出しちゃった。だから、今の私は多分、アレスが看取ってくれた私と、同じ存在になったんだと思う」
アレスの雨で冷えた頬を撫でながら、レナータは幼い顔に似つかわしくない、苦い笑みを零した。その表情は、やはり人工知能だった頃のレナータと瓜二つだ。
「でもね、アレス。それでも私は、私でしかないよ。――アレスが懐いてくれた私も、アレスが可愛がってくれた私も、ここにいる。あの頃の私が戻ってきたからって、アレスの妹分の私が、消えていなくなったわけじゃない。だから、アレスは何も心配しなくていいんだよ」
――レナータは、レナータでしかない。
他ならない、レナータ本人の唇から零れ落ちた言葉に、はっと息を呑む。
そうだ、レナータはレナータだ。何故、昔のレナータと今のレナータを、分けて考えていたのか。レナータの言う通り、無理に分けて考える必要はなかったというのに、どうしてか別々の存在として受け止めていた。
(AIと人間っていう、圧倒的な違いがあったから? 生きてきた年数が、全然違うから?)
きっと、そのどちらもが、アレスが昔のレナータと今のレナータを分けて考えていた理由に違いない。そして、それは自然なことのはずだ。
しかし、レナータの言葉を信じるとするならば、かつての記憶が完璧に復元したことで、昔のレナータと今のレナータの精神が融合し、共存しているといえるのではないか。
改めて、すぐ目の前にある翡翠の瞳を見つめる。レナータもアレスから目を逸らさず、じっと見つめ返してくる。
たとえそうだとしても、今すぐすんなりと受け入れるのは難しい。こんな不思議な存在には、未だかつて会ったことがないのだから、当たり前だ。
でも、戸惑いと同じくらい、何故か泣き出したいような気持ちが喉の奥から込み上げてくる。悠長にこんなことを考えていられる状況下ではないというのに、アレスの意思に反し、勝手に感情が胸の内で膨れ上がっていく。
アレスが恋をしたレナータは、永遠に失われたのだと、ずっと思っていた。だが、当の本人曰く、アレスが恋い焦がれたレナータも、慈しんできたレナータも、どちらもここにいるのだという。
再び、レナータの小さな身体を抱きしめる。その感触は、先刻までと何一つ変わらない。
「――おかえり、レナータ」
それでも、気づけば、そんな言葉が口から飛び出していた。腕の中のレナータが驚く気配が、触れているところから伝わってくる。
しかし、レナータが驚いていたのはほんの僅かな間だけで、小さな両手がアレスの背にそろそろと回されたかと思えば、そっと抱きしめ返 してくれた。
「――ただいま、アレス。……久しぶりじゃなくて、こっちを先に言えばよかったね」
再度、レナータが苦笑いを浮かべる気配がした。でも、今のアレスにはレナータの表情を確かめるだけの余裕はなく、ただただ、その小さなぬくもりをさらに強く抱き寄せた。
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