凶器

(……エリーゼさん。あんた、本当に合理的で、打算的な人だな)


 アレスは、なし崩し的にここにいることを自分は許されていたのだと、ずっと思っていたが、それだけではなかったのだ。


 エリーゼは、内心どう思っていようとも、使えるものは何でも使う人だと、長年一緒に暮らしてきて、理解してきたはずだったのに、どうしてそこに自分が当てはまらないと考えていたのだろう。エリーゼにとって、自分はただの厄介者ではなく、好都合な道具だと、何故気づけなかったのか。


 ここは、怒るところなのかもしれない。だが、アレスにしてみれば、穀潰しと見なされていたよりも、利用価値があると見込まれていたのだと言外に告げられたことに、密かに安堵する。


「――はい、必ず」


 短い言葉でエリーゼの想いに応えたアレスは、アードラー夫妻には振り返らない。そんなことをしている暇があったら、急いでここから脱出しなければならない。


 さりげなくラグに隠されていた、床下にある非常口に続く扉を開け、ぽっかりと口を開けた空間にレナータごと身を滑り込ませる。すると、その直後、どうしてかアレスの頭上にある扉が閉まり、再び扉の在り処が隠される物音が微かに聞こえてきた。

 

 もう、侵入者が来たのだろうか。まだ家の中には踏み込まれていないが、咄嗟に非常口を隠したということは、予想以上に早く危機が身に迫っている証かもしれない。

 そう判断したアレスはレナータを抱えたまま、一段飛ばしに地下道へと続く階段を駆け下りていく。そして、アードラー夫妻が長い時間をかけて造り上げた、森へと続く地下道をひた走っていく。


 アレスの耳には今、土壁に反響する、自分が地下道を走り抜けていく足音と、息遣いしか聞こえない。侵入者は何者だったのか、何の目的でここまでやって来たのか、エリーゼたちは無事なのか、追っ手がかかっているのか、何一つ分からない。ただ、分かっていることは、アレスの腕の中に、守るべきぬくもりがしっかりと納まっていることだけだ。


 地下道を走り続けているうちに、再度階段が見えてきた。今度は、階段を駆け上っていき、森へと目指す。


 ――その時、突如として遠くから乾いた音が耳を穿った。


(まさか……)


 ――銃声だ。その上、音が轟いてきた方向から察するに、アレスたちが八年近く暮らしてきた、あの家の中で発砲されたに違いない。


 愕然と目を見開き、思わず息を呑んだ拍子に、レナータの小さな手がぎゅっとアレスの上着を掴んできた。咄嗟に腕の中にいるレナータへと視線を落とせば、いつもは薔薇色に染まっている頬からは血の気が引き、今は驚くほど白くなっていた。


 レナータの聴覚では、先程の銃声は拾えなかったはずだが、アレスの反応を目にして、嫌な予感を覚えたのだろう。少しふっくらとした柔らかそうな唇はわななき、翡翠の瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。しかし、やはり今は暢気にレナータを慰めている余裕なんて、これっぽっちもない。


 レナータから目を逸らし、階段を駆け上がった先にある森へと出た瞬間、冷たい水の礫が全身を叩きつけてきた。春とは思えないほど、頬を撫でる風も冷たく、まるで皮膚の下にある肉を抉り出そうとしているかのようだ。咄嗟に上着のフードを引っ張り、目深に被る。


 いつの間に雨が降り出したのかは知らないが、これは好都合だ。普段遊び場にしている森は、アレスにとって自分の家の庭も同然だ。目を瞑っていても、大体の場所は見当がつく。暗闇も、今はアレスたちの姿を覆い隠す、味方をしていた。


 雨の森の中を突っ切り、いざという時に逃げ込むように言い渡されていた場所へと向かう。その間にも雨粒は容赦なくアレスたちを襲い、身体の熱を奪っていく。少しでもレナータが濡れずに済むよう、地を蹴る足により一層力を込める。


 そして、ようやく目的地である洞窟が見えてくると、さらに走る速度を上げ、その入口へと駆け込む。


 ここの洞窟はかなり入り組んでおり、内部の構造を覚えるのに、アレスたちも何年もかかった。ここに初めて足を踏み入れた者は、一度道に迷ってしまったら、入り口に戻ることすら難しくなる。実際、アレスたちもそうだった。

 だから仮に、先刻の侵入者があとを追ってきたとしても、地の利を活かして逃げているアレスたちに、そう簡単には追いつけないはずだ。


 頭に叩き込んだ地図を脳裏に広げつつ、一度身を隠す避難先として指定されていた場所へと、一目散に進んでいく。奥に進んでいくにつれ、辺りに漂う闇は一際濃くなっていく。


 ようやくアレスが足を止めた場所は、洞窟の出口が目と鼻の先にある、石壁に空いている穴の中だ。この穴は、アレスとレナータが一緒に隠れていても充分な空間を確保できるし、何かあれば、すぐに洞窟の外へと脱出できる。


 そこに、レナータを抱えたまま、ずるずると座り込む。知らず知らずのうちに上がっていた息を整えようと、何度も深呼吸を繰り返す。


「……レナータ、大丈夫か?」


 呼吸を整えた後に出てきた第一声に、つい苦笑いを浮かべる。この状況で大丈夫も何もないというのに、馬鹿ではないかと、内心自嘲する。

 案の定、レナータから返事はなかった。ただ無言で、じっとアレスを見つめてくるだけだ。


 背負っていたリュックサックの中からタオルを取り出し、水気を含んだダークブロンドを丁寧に拭う。レナータは、未だにテディベアを抱きしめたままだったから、その表面も軽く拭いたが、なるべく雨に濡れないように抱え込んでいたに違いない。レナータ本人に比べて、ぬいぐるみはそれほど濡れていなかった。


「レナータ。とりあえず一旦、荷物を置いて、上着脱げ。そのままだと、風邪引くぞ。……自分で脱げるか?」


 アレスが侵入者の存在を知らせてから、レナータは一度も口を開いていない。物言わぬレナータに、だんだんと不安が込み上げてきたが、アレスが手伝わなくても、自分でリュックサックを下ろし、そこにぬいぐるみが潰れないように仕舞い、上着を脱いでくれた。


 その様子を見届けると、アレスも濡れ羽色の髪と自身の上着をタオルでざっと拭い、上着は脱ぎ捨てる。そこで、ようやく人心地がつき、深く息を吐き出す。


 でも、油断はまだまだ禁物だ。いつ、何が起きるか予測がつかない状況下で、気を抜くわけにはいかない。


 息を殺し、耳を澄ませる。聴覚に全神経を集中させ、周囲の物音を探ってみたものの、雨音以外、特に目立った音は拾えない。洞窟に棲んでいる生物が生む微かな物音も聞こえてくるが、その中に人間が生み出している音は、自分たち以外のものはなさそうだ。


 だが、だからといって、安心できるわけがない。いつ、この平穏が打ち破られるかと思うと、気が気ではない。


 今ここで、不安に駆られたところで、無駄に気力と体力を消耗するだけだと、頭では理解している。しかし、理屈としては分かっていても、感情はそう容易く追いつくものではないのだと、否応なく痛感させられた。


 ずっと、こういった事態に備えてきたつもりだった。覚悟だって、決めていたつもりだった。

 でも、そんなものは現実の前では大して役に立たないのだと、これまでぬるま湯に浸かっているような生活を送ってきた自分に何ができるのかと、アレスたちを取り囲む闇と静寂が、己の甘さと無力さを無情に突きつけてくる。


 もう走っているわけではないのに、自分の脈拍が自然と速くなっていくのが、分かる。気を抜けば、もう一度息が荒くなってしまいそうだ。


 肌にぴりぴりと刺さるような沈黙が流れる中、咄嗟にスラックスのポケットに手を忍び込ませる。すると、そこには確かな質量を持った、硬い感触が指先に伝わってくる。


 今の世の中で、凶器の入手は困難だ。母が送ってくれた教材の中には、拳銃やライフル銃を模した練習道具もあったが、本物なんて一度も触ったことがない。それこそ、軍に入るか、裏の社会に身をやつさなければ、手に入らないだろう。


 だが、それでもナイフならば、手に入れるのにそこまで苦労はしなかった。そして今、アレスの指先に触れているのは、本物のナイフだ。

 護身用にと持ち出してきた、刃渡りの長いナイフは、既にアレスの手に馴染んでいる。もちろん、これで人間を殺した経験はないが、試しに自分の力だけで仕留めた野生動物を、このナイフで捌いてみたことがある。肉を裂く感触も、骨を断ち切る感触も、そこで覚えた。その気になれば、この刃で容易に人間の命だって奪えるに違いない。


 だから、相手と状況次第では、このナイフを抜く。いや、使いこなさなければならないのだ。


 利き手である右手でナイフの柄をぐっと掴んだ刹那、ふと頬に何か押しつけられた。はっと息を呑み、いつの間にか下がっていた視線を上げれば、この場に似つかわしくないほど落ち着き払った、翡翠の眼差しに射抜かれた。

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