不協和音
「ねえねえ、アレス。このくまさんに、アレスって名前つけてもいい?」
「……いや、待て。なんで、そうなった」
先刻までの微笑ましい気持ちはあっという間に霧散し、眉根をきつく寄せる。
何がどうなって、アレスがプレゼントしたテディベアに、贈り主と同じ名前をつけようと思ったのか。レナータの思考回路が、全くもって理解不能だ。
すると、レナータは相変わらず笑顔を絶やさぬまま、答えてくれた。
「特に理由はないけど、アレスの名前をつけたいって思ったの!」
愛くるしいテディベアに自分と同じ名前をつけたいと言われ、素直に受け入れられる男はいるのかと、世の男性に問いたい。
テディベアにもう一度視線を向ければ、つぶらな黒い瞳がアレスをじっと見つめてきた。
「……駄目、かなあ?」
いつの間にかアレスに視線を戻していたレナータが、テディベアを抱きしめたまま、小首を傾げて問いかけてくる。先程までの笑顔は鳴りを潜め、少し不安そうにアレスの顔色を窺ってくる。
レナータとテディベアの、純真無垢な二対の瞳に見据えられていると、どうしてか次第に責められているような心境に立たされてきた。ここで嫌だと拒絶したとしても、そこまで非難されることではないはずなのに、やはり何故か憚られる。
「……レナータの好きにしろ」
アレスが白旗を上げた刹那、再びレナータに陽だまりみたいな笑顔が戻ってきた。
「ありがとう、アレス!」
その笑顔を眺めているうちに、こんなことでレナータがここまで喜ぶのならば、いくらでも好きにさせようと思えてきた。
「ねえねえ、アレス。くまさんの誕生日ってね、名前をつけて、リボンを結んであげた日なんだって。リボンは、最初から結んであったから、しょうがないけど、名前をつけてあげたのは今だから、くまアレスの誕生日は今日ってことでいいよね?」
「くまアレスって、なんだ。それは」
「今ここには、アレスが一人と一匹いるから、分かりやすいように呼び分けてみました!」
だったら、最初から別の名前をつければいいではないか。そもそも、テディベアの数え方は、一匹で果たして合っているのだろうか。それでは、まるでペットみたいではないか。
レナータのツッコミどころが満載の発言に、言いたいことは山ほどあったが、寸でのところでぐっと堪える。
今日のレナータは、誕生日で浮かれているのだろうか。普段はそうでもないのに、今日のレナータの発言は、何を考えているのかよく分からないものが多い。だから、徐々に面倒臭くなってきたのだ。
「……ああ、それでいいんじゃねえか」
「やったあ! くまアレスと誕生日一緒だあ!」
アレスの投げやりな返答にも構わず、レナータは軽やかな歓声を上げ、テディベアを両手で掲げ持つ。
再度アレスから視線を外し、掲げ持ったテディベアをにこにこと見上げているレナータの横顔を眺めていたら、ふとエリーゼがリビングに顔を覗かせた。
「レナータ、アレス。今日はいつもよりも、ずっとゆっくりしちゃったから、申し訳ないけれど、二人で一緒にまとめてお風呂に入っちゃってくれない?」
「いいよー」
「分かりました」
上機嫌に頷くレナータに追従する形で、アレスも浅く頷く。
レナータのことは、それこそ今よりも幼い頃から、幾度も風呂に入れたことがあるから、慣れている。それに、身体の小さなレナータ一人が加わったところで、湯船は窮屈にはならない。
「エリーゼ。それなら、僕がレナータのことをお風呂に――」
「駄目。オリヴァーは、部屋の後片付けを手伝ってちょうだい」
これ以上、レナータとアレスを仲良くさせてたまるかとでも言いたげに、オリヴァーが慌ててひょこりと顔を覗かせたのも束の間、エリーゼの言葉の刃により、その望みは潰えてしまった。
エリーゼはアレスのことを疎んではいるものの、物事を効率よく進めるためならば、躊躇なく利用してくる。だが、今のところ、理不尽な要求を突き付けられたことは一度もないから、アレスは全く気にしていない。
妻に一刀両断にされたオリヴァーは、一瞬アレスを恨みがましい目で見遣ったものの、すごすごとリビングを後にした。エリーゼもそれに続き、ダイニングへと戻っていく。
ソファから腰を上げ、着替えを取りに自室に向かおうとした矢先、不意に異質な音を聴覚が捉えた。
(これは――)
突然ぴたりと動きを止めたアレスを、ぬいぐるみを抱えたまま立ち上がったレナータが、不思議そうに仰ぎ見てきた。
「アレス?」
レナータに名を呼ばれるが、今はいちいち返事をしている余裕など、砂粒ほどにもない。
ぎりっと奥歯を噛み締め、急いでダイニングへと駆け込む。
「――エリーゼさん、オリヴァーさん! 敷地に侵入者が入ってきました!」
アレスの言葉に、二人は素早くこちらを振り返る。そうかと思えば、それぞれ扉や窓へと近づき、外の様子を窺い始めた。
――アレスが感知したのは、エリーゼがアードラー一家以外の人間がこの敷地内に侵入してきた場合、そのことを知らせる特殊なセンサーの鋭い警告音だ。そのセンサーの音は、グラディウス族であるアレスにしか聞き取れない。センサーはいくつもあるが、全て地中深くに埋めておいたため、仕掛けた本人であるエリーゼでさえ、場所を把握しきれていない。
アレスが侵入者の存在を告げた途端、先刻までの明るく和やかな空気は瞬く間に砕かれ、場は緊張感に包まれた。不安そうにテディベアを抱きしめるレナータを抱え上げ、アレスはすぐにでもここから逃げ出せるよう、準備に取り掛かった。
「……アレス。レナータを連れて、今すぐ逃げなさい」
外は夜の闇に包まれているため、常人であるエリーゼたちには、異変が分からなかったのだろう。もしくは、侵入者はまだ目視できる範囲にいなかったのかもしれない。
こちらを振り返ったエリーゼは、表情を強張らせ、アレスをひたと見据えてきた。一旦、床の上に下ろしたレナータに上着を羽織らせ、非常時のためにと用意しておいたリュックサックを背負わせたアレスは、その翡翠の眼差しを見つめ返す。
「……エリーゼさんたちは」
「あとから追うわ。だから、貴方たちは先に逃げなさい。……この中で一番、レナータを守り通せる可能性が高いのは、アレス。貴方よ」
だからこそ、レナータをアレスに託すという苦渋の決断を、エリーゼは迷わず下したのだろう。
もし、侵入者の正体が楽園の人間だった場合、十中八九この場にいる全員を捕縛しようとするに違いない。相手や状況次第では、武力行使も厭わないかもしれない。
だから、そうなる前に、身体能力に優れている、グラディウス族であるアレスに、アードラー夫妻が最も守りたい対象であるレナータの護衛に就かせようという算段なのだろう。そう考えると、エリーゼの判断は、非常に合理的といえる。
しかし、肝心のレナータの気持ちが追いついていないのは、明白だ。勘が鋭く、物分かりのいいレナータは、言葉こそ発さなかったものの、その翡翠の瞳には動揺が色濃く浮かんでいる。
「……分かりました」
でも、そんなレナータを余所に、逃げる支度を素早く整えたアレスは、その小さな身体をもう一度抱え込み、アードラー夫妻に背を向ける。今は、幼いレナータの気持ちを思いやる余裕なんて、露ほどにもない。
「――アレス。こういう日が来た時のために、私は貴方がここにいることを、最終的に許可したの。だから――何があっても、必ずレナータを守り抜きなさい」
かつて、オリヴァーとアレスの二人で作った非常口に向かおうとした寸前、エリーゼの厳しい声音が背を打った。
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