忠犬
――遡ること、十数分前。
楽園が見えてきた頃から、レナータ奪還作戦を実行に移すため、アレスは飛行船のデッキに出ていた。一応、屋根に覆われているものの、壁は存在しないため、先刻から髪が風に煽られ、非常に視界が悪い。
――アレスが力を貸せと要求してから、兄の行動は迅速だった。
元々、用意していた軍用の飛行船を、この作戦の実行部隊として集めていた人員で、念のためメンテナンスし直す傍ら、楽園の情報網をハッキングし、侵入経路と逃走経路の確保に努めていた。全ては、レナータの奪還を確実なものにするためだ。
その間、アレスは最善と判断された侵入経路と逃走経路を頭に叩き込み、レナータの救出のシミュレートを、我ながらしつこいくらい繰り返していた。
そして、レナータがいなくなってから、三度目の夜明けを迎える頃、ようやく楽園へと戻ってきたのだ。
レナータが囚われていると思しき塔が見えてくると、アレスの左耳に装着していた、イヤホン型の無線機から、低く甘い声が聞こえてきた。
『――アレス。目標がいると思われる塔ギリギリまで、機体を寄せてやる。だから、あとは自分でどうにかしろ』
兄はアレスに力を貸してはくれるものの、一貫してこの調子だ。
必要な物資や人材の確保はしてくれる。正直、お膳立ては完璧なくらいだ。
でも、兄が手を貸すのはそこまでだ。あとは、自分で考えろ、自分で動けと要求してくる。まるで、「やれるものなら、やってみろ」と、繰り返し挑発されているみたいだ。
(――ああ、やってやろうじゃねえか)
アレスは自ら喧嘩は売らないが、基本的に売られた喧嘩は買う主義だ。
「了解だ」
それだけ告げると、自身の胴にきつく巻きつけているワイヤーに視線を落とし、強度を確認する。
兄の指示通り、おそらくレナータが幽閉されているであろう塔に飛行船を寄せたら、アレスはこのデッキから飛び出し、窓ガラスを突き破って塔の内部に侵入する手筈になっている。飛行船から塔へと飛び移る際、デッキで固定されている命綱をしっかりと巻きつけていなければ、最悪の場合、アレスの身体は地上へと叩きつけられてしまう。
ラプンツェルの物語では、ラプンツェルと夜な夜な密会していた男は、最終的に魔女に塔の上から突き落とされ、失明してしまうが、アレスの場合は、失うのは視力ではなく、命だ。
だから、念入りにワイヤーの強度を確かめていたら、今度はふわりと匂い立つような色香を纏った声が耳朶を打った。
『――囚われのお姫様を、単身助けにいくなんて……まるで、白馬の王子様のようね? 番犬くん?』
くすくすと笑み交じりに告げられた言葉に、思わず盛大に舌打ちを零す。
かつてスラム街に送り込まれた、リヒャルトの手足となる人間とは、どうやらロザリーのことだったらしい。飛行船の中で、しばらくぶりに顔を合わせた時には、つい思いきり顔をしかめてしまった。
確かに、スラム街ではロザリーはレナータの職場の同僚だった上、何より同性同士だ。男性よりも、余程近くでレナータを見守ることができただろう。
だが、もっとマシな人選はできなかったのかと、思わずにはいられない。兄には、人を見る目がないのだろうか。
『ロザリー、今は茶々を入れるな。それ以上ふざけたら、報酬額を下げるぞ』
『あら、それは困るわ』
それこそ、ふざけているのではないかと疑うような会話の応酬の後、ようやく静かになった。ロザリーはともかく、兄は本気でレナータを取り戻そうとしているのだろうか。
(……まあ、いい。ここまで来れば、あとはやれることをやるだけだ)
目的の塔が近づいてくるにつれ、徐々に飛行船が減速していく。あとは、レナータが閉じ込められているはずの部屋の窓の前を、飛行船が通過する際、タイミングを見計らってデッキから飛び移るだけだ。
そして、窓を破って内部に侵入したら、命綱であるワイヤーを一旦、外さなければならない。もし、身体に巻き付けたままにしていたら、退却のために飛行船が旋回する際、アレスの全身が塔の内部のどこかに叩きつけられた挙句、ワイヤーが切れかねない。
作戦の手順を脳裏で反芻している間にも、塔がだんだんと近づいてくる。それに従い、デッキの上部を覆っていた屋根がゆっくりと開いていく。すると、今までの比ではないほどの風が、アレスを嬲っていく。
「――レナータ、窓から離れろ」
勢いを増した風に目を細めながらも、レナータの送受信機にメッセージを送る。レナータならば、これだけできっとアレスの言葉に応えてくれるはずだ。
それから、急いで後退していき、勢いをつけて助走を始める。
「三、二……」
目的の窓が近づいてきたところで、飛び移るタイミングを計るため、小声でカウントダウンを始める。美しい色彩を放つステンドグラスが嵌め込まれた窓は、もうすぐそこだ。
「……一!」
デッキの床を勢いよく蹴り上げ、窓に目掛けて跳ぶ。その直後、気持ちの悪い浮遊感と、風が唸る音がアレスを襲う。
しかし、その感覚も耳鳴りがするほどの音も、そう長くは続かなかった。
眼前に押し迫るステンドグラスを捉えるなり、素早く顔の前で両腕を交差する。もう、ここまで来れば、狙いを外すことはない。
飛行船のデッキから跳び上がった勢いを利用し、そのまま窓へと突っ込む。
アレスの全身に衝撃が走るのと同時に、ガラスが割れる時特有の甲高い音が鼓膜を貫く。身体の至るところに微かな痛みが走ったが、気にするほどのものではない。
無事、床へと着地するや否や、服に張りついたガラス片を慎重に落としつつ、胴に巻き付けていたワイヤーを手早く外す。すると、あっという間にワイヤーが窓の外へと巻き取られていき、部屋の中から姿を消した。
「ったく……変な男を入れたら駄目だって、言っただろうが。レナータ」
悪態をつきながら視線を巡らせれば、呆気に取られた様子でアレスを眺めているレナータと目が合う。
レナータがぴくりとも動かなかったのは、ほんの僅かな間だけで、アレスを見つめる翡翠の瞳が、みるみるうちに水分を湛えていく。
「――アレス……ッ!」
くしゃりと表情を歪め、泣き出す寸前の子供みたいな面持ちになったレナータは、一目散にアレスの元へと駆け寄ってきた。床には粉々に砕けたステンドグラスが散乱しており、見ていて危なっかしいことこの上なかったが、意外にもレナータは器用にガラス片を避けつつ、アレスの元に辿り着いた。そして、迷わずアレスへと手を伸ばしてくる。
レナータが人工知能だった頃は、いつだってアレスばかりが手を伸ばしていた。
でも、人間の少女に生まれ変わってからのレナータは、アレスに向かって手を伸ばすようになった。アレスを、求めてくれるようになった。
だから、もう二度とその手を放さないという想いを込め、レナータの華奢な腰をぐっと抱き寄せる。レナータの顔を覗き込むと、潤んだ翡翠の瞳がアレスをひたむきに見上げてきた。
「アレス、アレス……!」
まるで、その言葉しか知らないとでも言わんばかりに、透明感のある柔らかい声がアレスの名を繰り返し呼ぶ。それだけで、レナータがこの腕の中に戻ってきたのだという実感が、じわじわと込み上げてきて、胸がたまらなく熱くなっていく。
だが、作戦はこれで終わりではない。
あたかもアレスにそう知らしめるかのごとく、外から爆撃らしき音が聞こえてきた。次いで、塔の内部がぐらぐらと地震のように揺れた。
(――気づかれたか)
十中八九、兄が操縦している飛行船の存在を楽園側に察知され、攻撃を受けているに違いない。
しかし、非常に腹立たしいことに、兄は飛行船の操縦資格を持っているだけではなく、その技術は素人であるアレスの目から見ても明らかに卓越している。
しかも、軍人として高度な教育を受け、統率力と決断力も兼ね備えている兄のことだ。涼しい顔で敵からの攻撃を回避し、今頃敵勢力に潜り込ませていた優秀な部下たちが奇襲をかけていることだろう。敵に回すと厄介な男だが、気に入らないことに、味方であると心強い男だ。
そこまで考えていたところで、ふとレナータが不安そうにアレスにぎゅっとしがみついてきた。
(大丈夫だ、レナータ)
そう言い聞かせるように、より強い力でレナータを抱きしめ返せば、強張っていた華奢な肩から余計な力が抜けていくのが見て取れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます