姫と騎士

 その直後、さながらタイミングを見計らったかのごとく、破れたステンドグラスの向こう側から、勢いよくワイヤーが飛び込んできた。どうやら、この砲撃戦の真っ只中であるにも関わらず、退却のための旋回をやってのけてみせたらしい。

 舌打ちをしながらもワイヤーの先端を間髪入れずに掴み取り、抱き竦めているレナータごと、きついくらいに身体に巻き付けていく。


「レナータ。痛むかもしれないが、我慢してくれ」

「私のことは、気にしないで。これ、命綱でしょ? だったら、痛いくらいしっかり巻きつけておいた方が、安心だよ」


 アレスと隙間なくぴったりとくっついた状態でワイヤーを巻かれたレナータは、ふわりと柔らかく微笑む。アレスの心配など杞憂だと、安心させるような微笑みに、自然と吐息が一つ零れる。

 ワイヤーを巻き終えると、決して離れぬよう、解けぬようにと念を込めつつ、しっかりと結ぶ。それから、結び目の頑丈さを確認し終えるや否や、レナータを抱えて窓際へと進む。


「ま……て……」


 不意に、アレスたちを呼び止める声が聞こえ、声の主をちらりと見遣る。

 プラチナブロンドとアイスグレーの瞳を持つ男は、立ち上がることすらままならないのか、壁にもたれかかったまま、ろくに動けずにいる。それに、意識が朦朧としているらしく、アイスグレーの眼差しが不安定に彷徨っている。

 男がこんな状態に陥っているのは、おそらくレナータが渾身の体当たりでも仕掛けたのだろう。状況から鑑みるに、男を窓際から退避させる意味合いもあったのだろうが、床の上を転がっている椅子から察するに、情けも容赦もなかったに違いない。


 でも、その視線がレナータの姿を捉えたかと思えば、小刻みに震えながらも手を持ち上げ、懸命にこちらに向かって伸ばしてきた。その距離では、レナータに届くはずもないのに、どうしてか縋りついているように見えた。


「行く、な……エリーゼ……!」


 その双眸はレナータを映しているというのに、何故エリーゼの名を呼ぶのか。意識が混濁している男の目には、ダークブロンドと翡翠の瞳の持ち主であるレナータが、エリーゼに見えたのだろうか。

 意味が分からず、眉間に皺を刻んでいたら、アレス同様、レナータがプラチナブロンドの男へと振り返った。


「――私は、エリーゼじゃない」


 透明感のある柔らかい声は、常にはない、相手を切り捨てるような厳しさと冷ややかさを孕んでいた。アレスの位置からでは、今のレナータの顔を窺い見ることはできないが、間違いなく険しい面持ちをしているのだろう。

 だが、それでも尚、男はレナータに向かって手を伸ばすことをやめない。決して届かないというのに、それでも手を伸ばさずにはいられないとでも言いたげに、その指先は必死にレナータを求めている。


 しかし、その懇願を断ち切るかのごとく、レナータは男から視線を引き剥がした。アレスへと向き直ったレナータは、少しふっくらとした柔らかい唇を、きつく引き結んでいた。

 でも、翡翠の眼差しと琥珀の眼差しが絡み合った瞬間、その唇は再度微笑みを象っていった。


「……行こう、アレス」

「ああ、行くぞ」


 アレスとレナータは、もう一度この楽園の外へと出ていく。今度こそ、様々なしがらみを断ち切り、限りある時の中で精一杯生きていく。


 そう声をかけ合うと、レナータを横抱きにしてから、塔の内側に張り出している窓の棚状部分に足をかけ、一気に飛び乗る。窓ガラスの破れ目にレナータが触れないように気をつけつつ、態勢を整える。レナータも、アレスに落とされたらたまったものではないと言わんばかりに、首に両腕を巻きつけ、しがみついてきた。十中八九、嫌でも塔の高さを思い知らされ、恐怖に晒されているに違いない。

 だが、飛行船が窓付近を通過していくまで待機している間は、このままの態勢でいなければ、タイミング良く塔から飛行船のデッキへと飛び移れない。だから、レナータには申し訳ないが、飛行船が来るまで我慢してもらうしかない。


 今度はアレスの髪だけではなく、レナータのダークブロンドも風に煽られ、その毛先が頬や首筋をくすぐっていく。その風の強さからも、 ここがいかに高い場所なのか痛感させられたのか、ますますレナータがアレスに強くしがみついてくる。


「レナータ、下は見るな」


 アレスがそう声をかければ、レナータがはっと我に返ったかのようにこちらへと振り向いた。レナータはアレスに抱き上げられ、窓の棚状部分に乗り上げてから、ずっと目が地上に釘付けになっていたのだ。

 危険を把握しようとする本能的な行動は、生物としては正しい。

 しかし、アレスたちは今、塔から飛行船のデッキへと、飛び降りるような形で移らなければならないのだ。必要以上に緊張状態に陥り、身体を強張らせていては、様々なリスクに繋がりかねない。


「あと、だからって、目は閉じるな。暗闇は、必要以上に不安を煽る。だから――」


 眼前に迫る翡翠の瞳を、じっと覗き込む。


「――俺だけを見ていろ」


 そう告げた利那、レナータの頬に朱が走った。

 アレスが知らないところで、色々とあったのだろう。塔の中で再会したレナータの類は、いつも以上に白く見えた。

 でも、今ではすっかり薔薇色に染まっている。血色がよくなったどころの話では済まされなくなっているほど、赤みを帯びているものの、青ざめた顔をされるよりは、ずっといい。

 アレスから恥ずかしそうに目を逸らそうとしたレナータを睨み据えると、おずおずと遠慮がちに視線が戻ってきた。


「う、うん……分かった」


 こくりと頷いたレナータは、アレスの言いつけ通り、どうしてか恥じらいながらも、一生懸命見つめてくる。

 飛行船が通過するタイミングを見逃すわけにはいかないから、アレスがレナータから視線を外した直後、透明感のある柔らかい声が耳朶を打った。


「アレスにお姫様抱っこしてもらいながら、塔から抜け出すなんて……本当に、お姫様になっちゃったみたい」


 レナータなりに、恐怖と緊張を紛らわせようとしたに違いない。冗談めかした口調で、急にそんなことを言い出してきた。


「昔から、そう言っているだろ。レナータは、姫みたいだって」


 空に視線を走らせたまま、そう答える。

 レナータの言う通り、確かにこの状況はお伽噺を連想させる。

 だが生憎と、可憐で、何故かしょっちゅう危険な目に遭う姫はいても、理想の王子様など、どこにも存在しない。

 別に、なりたいとは思わないし、なれるはずもないのだが、この口振りからすると、レナータは少なからず王子様という生き物に憧れを抱いているのだろうか。


「――だから、あとでたっぷりと姫の呪いを解いてやる」


 ならば、姫の呪いをいくらでも解いてやろう。それくらいは、王子様ではないアレスでもできる。むしろ、ここまでやって来た対価として、 積極的に支払って欲しい。

 意地悪く唇を笑みの形に歪め、横目で様子を窺えば、熟れた林檎みたいに真っ赤な顔をしたレナータが、涙目で悲鳴じみた声を上げた。


「そ……っ! そういう意味で、言ったんじゃないー!」

「この間の夜、俺が欲しいって、強請っていたじゃねえか」

「言ったけど! 言い方ってものがあるでしょ! それに、どうして今、そんなことを言うの!」


 元気よくアレスを怒鳴るレナータの全身は、もう強張っていない。アレスの言葉で、恐怖も緊張もすっかり吹き飛んでしまったみたいだ。この調子ならば、ここから飛び降りても大丈夫だろう。


「それだけ叫ぶ元気があるなら、ちゃんとしっかり掴まっていられるな」


 レナータが再び不安に襲われぬよう、あくまで笑み交じりにそう告げると、翡翠の瞳がはっと見開かれる様が、視界の端に映った。それから、どうしてかレナータは拗ねたように唇を尖らせた。


「……アレス、ずるい」


 何がずるいのかと問いかけようとした矢先、次第に近づいてくる飛行船を視界の隅で捉える。


「――レナータ。三数えたら、ここから飛び降りるから、しっかり掴まっていろ」

「う、うん!」


 近づいてくる飛行船に視線を定めたまま、レナータを抱え直す。先程から頬に強い視線を感じるから、相変わらずレナータは素直にアレスだけを見ているようだ。


「三、 二……」

 近づいてきた飛行船のデッキの上部は、アレスたちが飛び込めるよう、完全に屋根が取り払われていた。その上、デッキの床にはご丁寧に緩衝材が敷き詰められている。これは確実に、アレスのためではなく、レナータのために違いない。

 しかし、おかげで、遠慮なくデッキへと飛び込める。


「……一!」


 最後の一秒を数え終えるのと同時に、勢いよく窓の棚状部分の板を蹴り上げ、塔から飛び降りた。

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