ルートヴィヒ=フレーベル

 ――早く立ち上がらなければ、エリーゼがあの男に連れていかれてしまう。

 焦燥感に突き動かされ、必死に身体に力を込めて立ち上がろうと試みるものの、先刻床へと後頭部が殴打されたためか、上手く力が入らない。だから、代わりに手を伸ばしたのだが、当然のごとく、エリーゼに届かない。

 それでも、どうかルートヴィヒをその翡翠の瞳に映して欲しいと願っていたら、突然窓ガラスを突き破って塔の内部に侵入してきた男に腰を抱き寄せられていたエリーゼが、ふとこちらを振り返った。


 でも、冷ややかな翡翠の眼差しに射抜かれた途端、エリーゼの幻影が霧散していった。

 そこにいたのは、エリーゼではない。全体的な顔立ちこそ、エリーゼに似ているものの、その目元と纏う雰囲気は、あの憎たらしい男にそっくりだ。


「――私は、エリーゼじゃない」


 そして何より、透明感のある柔らかい声が、容赦なくルートヴィヒの幻想を打ち砕いていく。視線の先にいる少女の顔に、エリーゼではなく、かつて人類の守り神と呼ばれていたレナータの幻影がちらつく。


(ああ、そうだ……彼女は、エリーゼじゃない)


 だが、それでもエリーゼの血を引く娘であることには変わらない。あの少女に――レナータ=アードラーに、エリーゼの面影が全くないわけではない。今ならば、まだ間に合う。今ならば、まだレナータをエリーゼに仕立て上げることができるはずなのだ。そうすれば、この手にエリーゼを取り戻すことができるはずなのだ。

 しかし、再度レナータにエリーゼではないと否定された瞬間、何故かもう面影を重ねることができなくなってしまった。


(ああ、そうか……私は――)


 ――たった今、正気を取り戻してしまったのか。

 どうして、よりによって今、我に返ってしまったのだろう。正気を失っていた間は、まだ僅かなりとも希望を見出せていたというのに、我に返ってしまっては、とっくの昔にエリーゼを取り戻す望みは潰えていたのだと、痛感させられるだけではないか。


 それでも、ルートヴィヒが手を下ろせずにいたら、やがて二人の姿が窓の外へと消えていった。その直後、言いようのない虚無感に全身が襲われた。意地で持ち上げていた腕も、自然と力なくだらりと垂れ下がる。

 それと同時に、もう二度と戻ってこない過去へと想いを馳せた。



 ***



「――初めまして! 私の名前は、エリーゼ=アードラー。これから、よろしくね」


 初めてエリーゼと出会ったのは、ルートヴィヒが科学者として軌道に乗り始めたばかりの頃だった。

 当時から、エリーゼはカミル=アードラーの再来と謳われた天才科学者として、楽園において有名な女性だった。かくいうルートヴィヒも、エリーゼが発表した数々の論文に感銘を受けた一人で、密かに憧憬の念を抱いていた。

 きっとエリーゼは、孤高の女性なのだろう。気高く、神秘的で、不可侵の聖域みたいな女性なのではないか。


 でも、そう夢想していたルートヴィヒの前に実際に現れたのは、真夏の太陽のような溌剌とした笑顔が魅力的な、天真爛漫な女性だった。

 最初こそ、論文から受けた印象と全く異なるエリーゼに虚を突かれたものの、共同研究を進めていくうちに、そんなことはすぐに気にならなくなっていった。


 研究に打ち込んでいる時に見せる、真剣な翡翠の眼差しも。次々と斬新なアイディアを挙げていく、よく通る明朗快活な声も。紅茶を淹れる時の、丁寧で優しい仕草も、全て好ましくルートヴィヒの目に映った。

 エリーゼの溢れんばかりの才能を、もっともっと伸ばしていきたい。その手助けをしていきたい。より一層才覚を開花させていく様を、誰よりも近くで見ていたい。


 だが、エリーゼの遺伝子が選んだのは、ルートヴィヒではなかった。エリーゼの伴侶として選出されたのは、ルートヴィヒに比べ、容姿も頭脳も家柄も財力も、遥かに劣っているはずの、オリヴァー=ベルンシュタインだった。

 オリヴァーでは、アードラー一族の婿養子に相応しくないと思ったのは、なにもルートヴィヒだけではない。楽園中の科学者たちが、陰でそう噂していた。


 それなのに、エリーゼはオリヴァーと一緒にいる時、ルートヴィヒには見せない顔をしていた。

 まるで子供みたいに、拗ねたり、怒ったりしたかと思えば、照れ臭そうに頬を薔薇色に染め、はにかんでみせたりもした。

 そう、エリーゼは笑顔くらいしか取り柄のない凡庸な男に、あろうことか恋をしていたのだ。

 エリーゼが持つ、ありとあらゆる良さを引き出せるのは、そんな凡人ではない。

 しかし、遺伝子もエリーゼ自身も、オリヴァーを生涯のパートナーに選んだのだ。


 ルートヴィヒも、楽園の人間だ。エリーゼ同様、遺伝子によって選ばれた伴侶となる女性はいた。

 でも、ルートヴィヒの妻となった女は、エリーゼのような突出した才能も、美貌も、華やいだ雰囲気も持ち合わせていなかった。

 良く言えば素朴な、悪く言えば地味な女だ。控えめで、基本的に無駄口を叩かない物静かな性格は、生活を共にする上で好都合だったが、それ以上の価値は見出せなかった。

 ――ルートヴィヒの後継ぎを産むための道具。

 それが、ルートヴィヒの妻への認識だった。

 だが、楽園において、そういう夫婦は珍しくない。遺伝子の相性が良くても、性格の相性までいいとは限らない。エリーゼとオリヴァーが、異質なのだ。


 エリーゼとオリヴァーは、遺伝子だけではなく、性格の相性も良好。

 その事実が、時々無性にルートヴィヒの神経を逆撫でにした。楽園の科学者たちの、二人を見る目が徐々に好意的なものへと変化していったことも、ルートヴィヒの苛立ちに拍車をかけた。

 しかし、二人の娘であるレナータが産まれてから、しばらく経った頃、エリーゼたちが楽園から逃亡したのだと知った時、やはりオリヴァーは間違った相手だったのだと確信した。


 あんな男に恋をしたから、エリーゼは愚かな女に成り下がったのだ。

 人工知能の記憶と人格を自らの娘の脳に移植し、楽園から逃げ出すなんて、正気の沙汰とは思えないし、愚の骨頂としか言いようがない。

 だから、あの男からエリーゼを引き剥がさなければならない。そして、エリーゼの目を覚まさせなければならない。

 だというのに、エリーゼの実母であるアマーリエは、娘をアードラー一族の家系図から除名した。アードラー一族の一員でありながら、その責任から逃れる軟弱者など、最早娘ではないと宣言したのだ。

 しかも、アマーリエ=アードラーが下した決断に、多くの楽園の人間が追従したのだ。ルートヴィヒがどれだけエリーゼは楽園に必要な人間だと訴えても、誰も耳を貸してはくれなかった。


 だから、ルートヴィヒは独力でエリーゼたちの行方を追うしかなかったのだ。

 さすが天才と評するべきか、エリーゼはなかなか尻尾を出さなかった。実の息子が行方知れずになったというのに、平然としているミナーヴァ=ヴォルフが怪しいと踏み、極秘裏に調査してみたものの、こちらも相当な切れ者で、やはり証拠を掴ませてはくれなかった。


 でも、ある日、ついに見つけたのだ。

 第三エリアのとある繁華街にある広場で、オリヴァーが二人の子供にアイスクリームを買い与えているところを、偶然仕事でその近場に訪れていたルートヴィヒが目撃したのだ。背格好から察するに、少年がアレス=ヴォルフで、小さな少女がレナータ=アードラーに違いない。

 オリヴァーとレナータは目深に帽子を被り、アレスはパーカーのフードを被っていたものの、ルートヴィヒがエリーゼを奪っていった男の顔を見間違えるはずがなかった。

 あまりにも平和で、穏やかで、幸福を絵に描いたような光景に、眩暈を覚えるほどの憎悪と、オリヴァーの迂闊さに対する嘲りが、腹の底から湧き上がってきたのを、今でも覚えている。

 やはり、あの男が全ての間違いで、元凶だったのだ。


 のんきにアイスクリームを食べている三人に、ふらりと近づこうとした寸前、ルートヴィヒの視線に気づいたのか、アレスは素早くレナータを抱き上げ、人混みの中へと駆け込み、紛れ込んでいったのだ。アレスの尋常ではない様子を見てから、ようやく状況を呑み込めたらしく、オリヴァーは慌ててその後を追った。アレスの方がオリヴァーよりも余程、危機管理能力が高かったのだろう。

 アレスが咄嗟に機転を利かせたせいで、三人の足取りは追えなかった。それどころか、追跡者の存在を恐れたのか、あれから三人の姿は一切見かけなくなった。


 だが、エリーゼたちが第三エリアにいることが分かれば、それで充分だ。あとは、しらみつぶしに怪しい場所を探していけばいい。

 そして、ようやくエリーゼたちの居場所を突き止めた、あの日、ルートヴィヒはオリヴァーを射殺したのだ。

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