太陽に焦がれた先

 エリーゼたちが暮らしているという家を目の当たりにした刹那、自然と嘲笑が唇を彩っていった。

 カミル=アードラーの再来と謳われた天才の住居が、こんなちっぽけな家だなんて、ひどく滑稽に思えてならなかったのだ。

 やはりオリヴァーでは、エリーゼに満足な生活を送らせることもできなかったのだ。この過ちは、今すぐにでも正さなければならない。


 迷わず玄関の扉を蹴破れば、今まさに逃げ出そうとしていたのか、しっかりと上着を着込み、荷物を背負ったエリーゼとオリヴァーの姿があった。辺りに視線を走らせてみたものの、レナータとアレスらしき子供たちの姿は見当たらない。

 しかし、ここに最も排除すべき対象がいるのであれば、何も問題はない。


 懐に忍ばせていた拳銃を素早く取り出すなり、オリヴァーの眉間に狙いを定める。そして、間髪入れずに引き金を引く。

 銃など、これまで無縁だったに違いない。エリーゼも、標的として狙われているオリヴァーも、咄嗟には反応できていなかった。ただただ、向けられている銃口に目を奪われている。その光景が、何故かやけにはっきりと視界に映った。

 銃口から放たれた弾丸は吸い込まれるようにオリヴァーの眉間に向かっていき、無慈悲に貫いた。すると、途端にオリヴァーの目は限界まで見開かれ、血液や脳漿を周囲にぶちまけつつ、糸が切れた操り人形みたいに倒れていく。


「オリ、ヴァー……?」


 鈍い音を立てて倒れ込んだ夫の名を、エリーゼはぎこちなく呼ぶ。でも、当然のごとく、オリヴァーが返事をするはずもない。

 眼前に広がる光景が意味するところを、だんだんと理解していったのだろう。愕然と目を見開いたまま、食い入るようにぴくりとも動かなくなった夫の顔を凝視していたエリーゼの身体が、小刻みに震え始めた。

 これで、ようやくエリーゼは正気を取り戻せたに違いない。これで、ようやくエリーゼは自分の人生を正しい方向にやり直せるのだ。


「――さあ、エリーゼ。一緒に戻ろう。そして、一緒に――全てをやり直すんだ」


 硝煙の臭いが鼻につく拳銃を持つ右手を下ろし、エリーゼに向かって左手を差し伸べる。

 床に倒れているオリヴァーに固定されていた翡翠の眼差しが、ゆっくりとこちらへと向けられていく。

 だが、食べかけのバースデーケーキと一緒に、テーブルの上に出しっぱなしになっていた包丁へと、その手は伸びていく。


「う……うわあああああああああああああああああああああああああああ!」


 その手が包丁の柄を掴んだ途端、刃を閃かせながら、エリーゼはルートヴィヒ目掛けて突進してきた。

 眼前に迫りくる光景が、にわかには信じ難かった。

 どうして、全ての元凶を排除したにも関わらず、エリーゼは悪魔のごとき形相でルートヴィヒを睨み据えているのか。ルートヴィヒの背後には複数の軍人が控えているというのに、何故クリームに塗れた家庭用包丁一本で、こちらに向かってくるのか。エリーゼほどの頭脳の持ち主ならば、自分がいかに愚かな真似をしているのか、理解できないはずがないのに、どうしてなのか。

 何故――エリーゼは、この手を取ってくれないのだろう。


 数々の疑問が胸中を渦巻く中、唐突に発砲音が鼓膜を激しく揺さぶった。ルートヴィヒの後ろから凄まじい勢いで何かが飛んできたかと思えば、突然エリーゼの額に穴が空いた。脳漿と血飛沫が舞い、目の前が赤く染まっていく。

 エリーゼは憎悪に表情を歪めたまま、呆気なく床に倒れ込んだ。その拍子に、床の上に血の海が広がっていく。

 血と硝煙の臭いが、辺りに充満していく。この場が、死の臭いで支配されていく。


 緩慢とした動作で背後を振り返れば、案の定、ライフルを構えている軍人が一人、視界に入り込んできた。

 苦々しい表情でライフルを下ろした軍人へとつかつかと歩み寄るや否や、その肩を掴んで激しく揺さぶる。


「――何故、エリーゼを殺した!?」

「え」

「何故、エリーゼを殺したと聞いている!」

「い、いや、だって、その……」

「答えろ!」

「――だって、私が撃たなければ、貴方、死んでいたかもしれないんですよ? これは、正当防衛です」


 あっさりと返ってきた答えに、軍人の肩を揺さぶっていた両手から力が抜けていく。

 ――そうだ。あのまま茫然と立ち尽くしていたら、ルートヴィヒはエリーゼに刺し殺されていたかもしれない。致命傷に至らずとも、重傷を負っていたかもしれない。

 しかし、それが何だというのか。

 ルートヴィヒの命を奪うのがエリーゼであれば、それでも構わなかったのに。


 軍人の肩を掴む手を放し、もう一度室内に視線を走らせる。

 そこには、先程までエリーゼだったものとオリヴァーだったものが、転がっているだけだ。もう、あれはただの肉塊だ。美しさの欠片もないあれは、エリーゼではない。


(……エリーゼが、もうこの世界にいない?)


 そんなことは、あってはならない。そんな現実は、認められない。

 そこで、ふとエリーゼの娘の存在を思い出す。

 たった一度だけ、第三エリアの広場で見かけたエリーゼの娘の髪色は、母親と同じダークブロンドだった。瞳の色は、帽子を目深に被っていたせいで、よく見えなかったものの、緑色の系統だった気がする。父親譲りのヘーゼルの瞳だったとしても、光の加減で緑色に見えるが、オリヴァーの瞳の色合いはエリーゼのものと近かったから、それほど大きな違いはないはずだ。

 つまり――エリーゼの娘を手に入れれば、今度こそ全てをやり直せるかもしれない。


「……せ」


 もし、レナータが母親に似た顔立ちをしていれば、エリーゼとして仕立て上げられるかもしれない。この世界に、エリーゼを蘇らせることができるかもしれない。エリーゼがいなくなった世界を、なかったことにできるかもしれないのだ。


「――捜せ! まだ、子供が二人いるはずだ! 男のガキの方は、殺しても構わない! だが、娘の方は傷一つつけずに捕まえろ!」

「――はっ!」


 軍人たちの顔に色濃い戸惑いが浮かんでいたものの、訓練された猟犬のごとく、ルートヴィヒの指示に従い、各々が動き出す。


(……私は、絶対に認めない)


 エリーゼが存在しない世界など、認められるはずがなかったのだ。



 ***



 子供の足だから、そう遠くまで逃げられないだろうと踏んでいたのだが、ルートヴィヒの予想とは裏腹に、レナータたちの足取りはなかなか掴めなかった。

 それでも、長い時間をかけてようやくレナータを手中に収めたのだ。

 ダークブロンドと翡翠の瞳を持ち、ルートヴィヒをルーイと呼ぶ、エリーゼの娘を。


「ルートヴィヒって呼びづらいから、貴方のことはルーイって呼ばせてもらうわね!」


 そう、太陽のような笑顔をルートヴィヒに向け、かつてのエリーゼは確かに言ったのだ。

 だから、エリーゼの娘にルーイと呼ばれた時、胸が震えた。

 ――ああ。やはりこの娘は、エリーゼになるために産まれてきたのだ。

 この娘さえいれば、きっとルートヴィヒの思い通りに全てをやり直せる。エリーゼを蘇らせてくれる。

 ――この手を取ってくれる。


 でも、エリーゼの娘の遺伝子も、レナータ自身も、ルートヴィヒを選ばなかった。

 その上、よりによって選んだのが、ルートヴィヒからエリーゼの娘を奪っていった、野蛮な男だったのだ。許せるわけがない。

 それなのに、エリーゼの娘は迷わずその男に駆け寄っていったのだ。手を伸ばしたのだ。抱擁を交わしたのだ。まるで、運命によって引き合わされた恋人みたいに。

 そして、粗野でエリーゼの娘に似つかわしくないはずの男は――アレスは再び、ルートヴィヒの目の前で、レナータを掻っ攫っていった。

 どうして、そんな男を選ぶのか。何故、頑なにルートヴィヒと結ばれることを拒むのか。

 どうして――運命は、ルートヴィヒを否定し続けるのだろう。


 ようやく身体に力が戻ってきたところで、よろよろと壁伝いに立ち上がる。一歩、また一歩と進んでいくごとに、床の上に散らばっているガラス片を踏みつけてしまったが、最早そんなことはどうでもよかった。足の裏に痛みが走ろうが、血が流れようが、構う余裕なんて、砂粒ほどにもない。

 窓辺に歩み寄ると、破れたステンドグラスの向こう側から、ルートヴィヒの今の心境に反した爽やかな風が吹き込んできた。もう夜は明けつつあり、ピンクとも紫ともつかぬ、幻想的で美しい色に空は染まっていた。


 その美しさに心奪われていると、次第に太陽が顔を覗かせてきた。その眩いばかりの太陽の光は、自然とエリーゼの笑顔を思い起こさせる。

 そう思った瞬間、あれが欲しくてたまらなくなった。気づけば、手を伸ばしていた。手を伸ばさずにはいられなかった。


 ――貴方は……お母さんを、エリーゼ=アードラーを愛していたの?


 不意に、透明感のある柔らかい声が耳の奥に蘇ってきて、思わず息を呑む。だが、すぐに唇からは乾いた笑みが漏れた。

 愛しているなんて、陳腐で甘ったるい言葉では、ルートヴィヒのエリーゼへの想いを言い表せないはずだった。

 しかし、この焦がれるような想いを、もし言語化するならば、やはり「愛している」としか表現できない。


(ああ……結局、そういうことだったのか)


 自分はただ、エリーゼという一人の女性を愛していただけだったのか。ただ、それだけのためにここまで来たというのか。

 でも、今さら気づいたところで、何になるというのだろう。もうエリーゼはこの世界にいないというのに、ただ虚しいだけではないか。


(エリーゼ、君は――)


 ――もし今、君の元に行ったら、君はこの手を取ってくれるだろうか。

 暁の光に手を伸ばしたまま、窓から身を乗り出した刹那、塔の上から真っ逆さまに地上へと落ちていった。

 だが、不思議と死への恐怖はなかった。エリーゼにまた会えるのだという喜びだけが、胸を占めていく。

 そして、目の前が真っ暗になった次の瞬間、全ての感覚が途絶えた。

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